樋口芳男

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樋口 芳男(ひぐち よしお)とは、松平男爵の娘、日本帝国工業専務の娘、住友財閥家の娘などを連続誘拐した、戦中、戦後のロリコンである。

事件概要[編集]

1946年9月、旧財閥・住友家16代当主の長女・邦子さん(当時12歳)が何者かに誘拐された。6日後、誘拐犯・樋口芳男(当時22歳)が岐阜県内の旅館で逮捕され、邦子さんも無事保護されたが、彼の求めていたものは身代金ではなく、少女との生活だった。

住友怜嬢誘拐[編集]

1946年9月17日横浜市戸塚区東俣野町の住友財閥16代当主、住友吉左衛門の長女で、白百合高女付属小学校6年の・邦子さん(当時12歳)が、下校途中に何者かに誘拐された。

この誘拐事件には、脅迫状及び身代金要求の電話などが来る気配はなく、犯人の目的が不明であった。

邦子さん連れ去りの1週間ほど前から、30歳ぐらいのカーキ色のシャツと乗馬ズボンを着、軍靴に赤い脚絆を巻いた男が、「住友さんの娘さんはどなたですか?」と別の学友に尋ねており、住友家怜嬢を狙った計画的犯行と判明した。

男の人相は、この年の3月に起こっていた日本帝国工業専務の娘誘拐事件の犯人と酷似しており、警察はこれを同一犯と断定して、20日に前科一犯の樋口(当時22歳)を指名手配した。

事件から6日後の23日、樋口は岐阜県中津川で逮捕された。逮捕の決め手は、電車で隣りに座った老婆が、見たばかりの新聞記事の写真とそっくりの少女を目撃して、下車後に通報したことだった。少女は下駄履きで灰色の帽子をかぶっていたという。

事件解決を受けて、新聞には「ただもう怖くて、一刻も早くお家に帰りたくて・・・」という邦子さんの談話が載ったが、邦子さんが現場の旅館で新聞記者と対面した時に語った言葉は意外なものだった。

「千葉で映画を見たの。面白かったわ。生まれて初めてなの、映画を見たのは・・・・あの人が、あなたは狙われているから守ってあげるという言葉を信じていたの」

「あの人が本多良男で私が妹のひろ子。何だかおかしかったけれど、しまいには本当のお兄さんのような気がしてきたわ。千葉では化粧品セットを買ってくれ、名古屋ではスカートを買ってくれたの。退屈するとお人形をつくってくれたり、とてもやさしくしてくれたので、淋しいと思いませんでした。あの人がそんな悪い人とは・・・・」

一方、事件後、住友家に5通の脅迫状が届けられていたことも判明した。1000万円を要求するもので、樋口以外の人物がいたずらで送りつけたものと見られる。   事件解決の翌日(24日)、GHQ財閥解体の具体方針を発表、三大財閥(三井、三菱、住友)の所有する証券類を持株会社整理委員会へ移管。住友にとっては安堵も束の間の発表であった。

あやまちの愛[編集]

樋口はごく普通の家庭に育った、ごく普通の子どもであった。幼くして父親と死別したこと以外には、家庭環境や学校生活において特にこれといったエピソードはない。

高等科を卒業した後、国鉄の試験を受け、東京機関区にまわされ、東京沼津間の電気機関車の機関助手として働き始めた。

道行く女性には気後れしてしまうような自信のない樋口にも、近くの小学生の女児たちは「電気機関車のお兄ちゃん」と言って抱きついてきた。機関区周辺は別荘地帯で、富豪や華族階級が豪邸をかまえていた。この女児たちも”お嬢様”であったが、樋口はお菓子をあげたり、機関車に乗せたりして遊んでやっていた。

試験に受かって3日目、樋口は明治神宮に参拝に行ったが、その帰りに一枚の定期券を拾った。女子学習院初等科5年の、男爵・松平斉光の令嬢・光子さん(当時12歳・のちの豊田禎夫夫人)のものであった。

このことをきっかけとして樋口はこの松平光子さんに声をかけ、都内を3日間連れまわしたが、不審尋問にひっかかって逮捕された。   樋口の罪は戦時強制猥褻罪というものである。巣鴨刑務所に拘置されたが、彼の独房の下にはゾルゲ、2つ隣りには尾崎秀実がいた。

相手が華族階級の娘ということもあって、重要犯罪人の扱いを受けたのである。樋口からしてみれば、「3日間連れて歩いただけ」なのに、取り調べで拷問を受けるなど、警察のやり方に反感を覚えるようになった。   半年後、懲役3年の実刑判決を受けた樋口は、八王子の少年刑務所に移されたが、「過酷な刑を受ける言われはない」と終戦目前の7月30日に看守の目を盗んで脱走している。そこから軍需工場、朝鮮木浦北鮮羅津へ逃げて、そこで終戦を迎えた。

内地に戻った樋口は偽名を使って、脱走犯にしては自由な生活を送った。 

1946年3月14日日本女子大の付属に通う、日本帝国工業専務の長女K子ちゃんを誘い連れ出した。樋口はまず甲府へ行き、安いワンピースを買ってやって、兄妹と名乗って安宿を転々とした。この逃避行は、K子ちゃんも不愉快なものではなかったと見られる。米軍兵にもらったバターやチョコレートを、樋口にもわけてやるほど親しくなっていた。

樋口は日雇いの仕事などをしながらの逃亡生活で、食事にありつけない日もあった。そのなかで北海道まで行き、養狐場で働くようになった。だがここも長続きせず、生活は行き詰まりを見せた。

この事件は戦後の誘拐事件第1号であったが、K子ちゃんの家族、また日本帝国工業からの「本人を傷つけたくない」という申し入れにより、新聞はほとんど触れなかった。

樋口はK子ちゃんに、母親に宛てた無心の手紙を書かせている。その時、K子ちゃんが何気なく言った。

「手紙を書くのはいいけど、あたしのところよりも、住友の邦子ちゃんの家の方が、ずっとお金持ちよ。あそこからなんとかお金をもらえないかしら・・・・」   母親のもとに、K子ちゃんからの手紙が届いた。築地本願寺が金の受け取り場所で、その周辺を刑事が張り込んでいた。だが約束の時間に金を受け取りに現れたのは樋口ではなく、K子ちゃんだった。本当なら母親の合図で、刑事が走り寄って犯人に手錠をかける手筈になっていたのだが、母親は合図も忘れ、娘と抱き合った。

樋口の計画では、再びK子ちゃんと逃げることになっていたが、再びK子ちゃんを連れ出すのは忍びない気がしたので、金だけ受け取って1人現場を離れた。

樋口のK子ちゃんへの想いは、真剣そのものだったようだ。逮捕後、次のような供述をしている。

「私は成人した女を1人も知りません。赤線へ行ったことも何度からありましたが、とてもそんな女を相手にする気になれませんでした。不潔な気がして・・・。私は11、2歳の少女にしか情熱を燃やすことができなかった。子どもの頃成人の女に憧れて、その思いを満たすことができず、少女を相手にしている間に、ついにそういう異常性格が形づくられてしまったのでしょうか・・・・」

「K子とは生まれて初めて激しい恋愛をしました。彼女は私にとっては永遠の女性でした。真剣に2人の結婚のことを考え、どうしてもそれを実現しようと思ったのです。そのためには、まず相当な金を握って、それをもとにして自分で独立した商売を始めなければならない。まとまった金を握るには・・・・あれかれ方法を考えているうちに、思い出したのは、いつかK子ちゃんがなに気なくもらした、住友の邦子ちゃんのことでした」

かどわかされて[編集]

9月17日午前11時半頃、神奈川県片瀬町の、お嬢さん学校で知られた白百合高女付属小学校の門前にやって来た樋口は、住友邦子さんに声をかけた。

「警察の者ですが・・・お父さんのことで重大事件がおきたので、あなたにお尋ねしたいことがあります」

邦子さんはそのまま樋口について行った。

誘拐してからの行程は次の通りである。

住友家怜嬢誘拐事件は、戦後初の公開捜査事件でもあった。樋口は身の危険を感じて、木曽の山奥に隠れようと、食糧を買い込み中央線をUターン、松本発名古屋行きの列車で、塩尻駅から乗りこんできた老婆に通報されたのである。23日朝、岐阜県恵那郡付知町の宿泊先で逮捕された。

供述によると、当初は金目的であり、光子さんと一緒にいた時に自分を逮捕した警察への恨みからのものだったが、邦子さんと一緒にいるうちに、またしても惹かれ始めていたという。

なぜ連れ去られた少女は樋口に対して不安を持ったりせず、なついていたのか。それは樋口があまりに澄んだ目をしており、家ではさせてもらえなかった新鮮な体験がさせてもらい、気前がよく、決して嫌がるようなことはしなかったからだと見られる。

裁判では樋口に懲役10年が言い渡された。新憲法発布と講和条約の恩赦で2度にわたる減刑を受け、1954年1月に29歳で仮釈放になり、千葉刑務所の門前で写真撮影に応じ、「階級的な反抗意識でやったが、すべて白紙にして再出発したい」と述べた。

彼の愛した少女たちは、立派な大人の女性へと成長していた。邦子さんは後に大学教授夫人となった。

参考文献[編集]