小野仁
小野 仁(おの ひとし、1976年8月23日 - )は秋田県秋田市出身の元プロ野球選手。
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経歴[編集]
現役時代のニックネームは「グレイ」。小顔、坊主頭、なで肩であったのが宇宙人っぽかったため。
高校時代[編集]
秋田経法大付属高校2年時に春夏連続で甲子園に出場したがいずれも初戦敗退。春の選抜では鳥取西戦で16安打を許し7四死球を出したが逆に15三振を奪い、注目を集めた。3年時では春夏連続で甲子園に出場できなかったため中川2世と言われたこともあった。1994年の世界選手権で高校生としては史上初の代表入りを果たす。MAX152キロのストレートを武器に強豪キューバから三振を取るなど、超高校級の逸材といわれ、ドラフトでは8球団以上の競合は確実とまで言われた。
プロを拒否して社会人へ[編集]
アマチュア凍結選手となり高校からはプロへ進まず、日本石油に入社。
巨人は、秋田経法大付高時代、12球団からマークされた大型左腕・小野仁を逆指名で確実に獲得することを画策。「アトランタ五輪に出たい」と言わせ、プロ拒否、社会人入りをさせた。
五輪出場のためのドラフト指名凍結選手ということで、本来3年後のドラフトだが、特例として2年後に巨人入りをさせた。
この時日本石油では、小野にとって巨人入りのための腰掛けに過ぎないのだから故障などさせては大変だと配慮する。しかも小野の父親からは「無理させないでくれ」という注文が出て、扱いには苦労した。
結局社会人ではフォームを崩すなど伸び悩み、後に横浜ベイスターズに入団する川村丈夫の影に隠れる格好となった。
アトランタ五輪から巨人へ[編集]
1996年のアトランタオリンピックに出場。アマチュア凍結選手の特例として同年逆指名で巨人にドラフト2位で入団。二軍ではノーヒットノーラン、1試合20奪三振を達成するなど格の違いを見せたが、1軍では登板即5連続四球するなど精神面の弱さが仇となってしまった。この間も制球難を克服するためサイドスローに転向したりスリー・クォーター気味のフォームにしたりと試行錯誤を繰り返したが効果は出なかった。
2002年はファームで最優秀防御率(防御率1.68)を獲得した。同年11月永池恭男と共に中浜裕之・吉川元浩との交換トレードで近鉄に移籍。しかし2軍ですら防御率31.91と戦力にはならず2003年戦力外通告を受け退団。プロではわずか3勝に終わる。
2004年メジャーリーグ・ミネソタ・ツインズとマイナー契約。2005年11月7日の12球団合同トライアウトに参加するが、3四球と結果は残せず獲得する球団はなかった。
ロッカー荒らし[編集]
2002年3月のオ-プン戦中に、1軍のロッカ-ルームから、カネが盗まれた。金額は、数万円だった。
その時ロッカールームにいたのは、小野だけであり問いつめたところ、犯行を認めた。小野は事件後、1軍を外され「故障」を理由に2軍に落とされ、「謹慎」同様の処分を受けた。情報を漏らした関係者の多くが、「今年でクビになるんではないですか」と言っていた。
7月はじめ、巨人2軍の練習では小野は誰よりも早くグラウンドに来て入念なストレッチを始めたが、あとから来た選手は誰も小野に声もかけようとしない。そのうち、仲のいい選手同士が固まってストレッチの輪ができるのだが、小野の周りだけはポッカリと穴が空いたようになっていた。
詳細情報[編集]
年度別投手成績[編集]
1997 | 巨人 | 11 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | -- | 1.000 | 81 | 17.1 | 21 | 3 | 7 | 0 | 0 | 13 | 0 | 0 | 13 | 6.75 | 1.62 | |
1998 | 15 | 11 | 0 | 0 | 0 | 2 | 7 | 0 | -- | .222 | 265 | 59.0 | 66 | 7 | 29 | 0 | 3 | 40 | 4 | 0 | 3
5||34||5.19||1.61 | ||||
1999 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 36 | 6.2 | 8 | 1 | 7 | 0 | 0 | 5 | 1 | 0 | 8 | 5 | 6.
75||2.25 | ||
2000 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 17 | 3.1 | 5 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | 5.
40||2.10 | ||
2001 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 43 | 7.1 | 12 | 1 | 7 | 0 | 1 | 7 | 0 | 0 | 8 | 6 | 7
.36||2.59 | ||
通算:5年 | 36 | 15 | 0 | 0 | 0 | 3 | 8 | 0 | -- | .273 | 442 | 93.2 | 112 | 12 | 52 | 0 | 4 | 65 | 5 | 69 | 60 | 5.77 | 1.75 |
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背番号[編集]
- 12 (1997年 - 1998年)
- 47 (1999年)
- 13 (2000年 - 2002年)
- 15 (2003年)
個人記録[編集]
- 初登板:1997年7月16日、対横浜ベイスターズ16回戦(東京ドーム)、9回表に救援登板・完了、1回無失点
- 初奪三振:同上、9回表に関口伊織から
- 初先発・初勝利:1997年8月30日、対広島東洋カープ21回戦(東京ドーム)、6回3失点
エピソード[編集]
- 父親が小野の二軍試合を生で見て、不甲斐ないピッチングだったため、試合終了後に呼び出して公衆の面前でビンタした。
- 高校2年の秋の東北大会準決勝は、東北1-0秋田経法(延長16回サヨナラ)小野が24奪三振、嶋重宣(現在広島カープ)も19奪三振の投げ合いとなった。
決勝は東北7-3秋田高校 だったため、選抜にこの2校が選ばれ秋田経法は選出されなかった。クジ運度外視で実力重視で選ばれていれば、春の選抜甲子園での活躍は間違いなかったと言われている。
当時の評価では嶋より圧倒的に小野が上であった。
- 宮田征典投手総合コーチは「リリースポイントがまちまち。安定したフォームをつくり上げなければ」と注文を付け、巨人は左の先発投手が不在という事情もあって期待は大きかった。「ローテーション入りを意識してほしい。いいフォークも持っているしカーブもある。今やっていることを続けていけばいい」と成長を見守っていた。
- 小野は1998年5月30日に2軍戦で20奪三振するが、同6月下旬頃に投手コーチ池谷公二郎が公衆の面前で小野を正座させて延々説教して泣かせた。そして池谷は98年は1軍投手コーチだったものの99~2001年は2軍投手コーチとなり、ここでマンツーマンでフォーム改造が行われ、球威を失いコントロールも付かなかった。