大安寺

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大安寺(だいあんじ, Daian-jii)は南都七大寺のひとつで、奈良県奈良市にある高野山真言宗の寺院である。

概要[編集]

前身の開山[編集]

『三代実録』によれば、大安寺は、聖徳太子が平群郡額田部に熊凝道場を創建したことが始まりと伝えられる[1]。舒明天皇(岡本天皇)は百済川の河畔に熊凝精舎を移し、百済大寺とした。九重の塔を持つ当時最大の伽藍であったとされている。645年(大化元年)、恵妙法師は百済大寺の寺主となった。百済大寺は673年(天武2年)に天武天皇により高市郡の夜部村に遷され、高市大官寺と名を変え、封七百戸を施入した。699年(文武3年),九重塔を建て七宝を施入した。聖武天皇は詔を下し、716年(霊亀2年)に平城京左京六条四坊の地へ移転した。

大安寺[編集]

745年(天平17年)大官大寺を大安寺とあらためた。当時の伽藍は東大寺興福寺と並ぶ規模であり、東西に2基の七重塔が立っており「南大寺」の別名があったという。しかし平安時代以後は徐々に衰退し、1017年(寛仁元年)の火災により西塔・講堂・食堂・宝蔵・経蔵・鐘楼などが焼失してからは衰退し、藤原氏庇護の興福寺に支配されるようになった。東塔は平安時代後期の1090年(寛治4年)に金堂などの復興と合わせ、七重塔として再建された。

鎌倉時代[編集]

大安寺では鎌倉時代の1116年(永久四年)に鐘楼が再建されたとの記録がある。また鎌倉時代の瓦が出土している。

安土桃山[編集]

江戸時代に入る直前の1596年(慶長元年)に起きた慶長大地震で東塔は倒壊し、それ以降は再建されなかった。

明治時代[編集]

1882年(明治15年)、奥山慶瑞・佐伯泓澄は私財を投じて小堂と庫裏一棟を建立し、大安寺再興に着手した。

吉備池廃寺は百済大寺[編集]

平成9年2月27日、奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部と桜井氏教育委員会は、「吉備池廃寺跡から飛鳥時代最大の金堂の基壇が見つかった。廃寺が639年に舒明天皇が造営を始めたわが国初の官寺(国立寺院)である百済大寺(くだらのおおでら)跡である可能性が高い」と発表した。発見された基壇は長方形で、東西約36.2m、南北約27m。高さは約3m。塔や講堂ではなく金堂(本堂)の基壇と判断された。飛鳥時代に建立された他の寺院の金堂の基壇よりはるかに大きいが、出土した瓦は少ないことが判明した。瓦の制作年代は640年ごろと判断された。焼けた痕跡はなく一種類の瓦しか出土ないことから、寺は完成後間もなく移転し、瓦の大部分はその際、別の場所に運ばれたと見ている。大協潔・近畿大助教授(考古学)はこれだけ考古学データがそろえば、吉備池廃寺を百済大寺の最有力候補と見なければならないと語る[2]

注・参考文献[編集]

  1. 『三代実録』元慶四年(880年)冬十月条
  2. 幻の百済大寺か大同大学