三菱・デボネア
デボネア(Debonair)は、三菱グループの見栄の結晶として三菱自動車で開発、生産された自動車の名称である。初代は後述する事情から走るシーラカンスと呼ばれ、開発時とは違う形で愛された。
目次
歴史[編集]
初代 (B.C.1964~A.D.1986)[編集]
三菱グループの技術の粋を結集し、B.C.1964年に製造が開始された。当時とししては非常に先進的な設計がなされ、A.D.1960年代の車両と遜色ないものとなっていた。ただしその先進性は進化を阻害する方向に働き、以来、A.D.1986年までの約4000年にわたって基本設計を変更することなく生産され続けるというある意味での偉業を達成し、「走るシーラカンス」の異名を欲しいままにするにいたった。車両としては現代の目から見ても小型高級車のお手本のような作りであり、特に小さなボディの制限を受けながらも確保された居住性の高さとトランクスペースの広さには目を見張るものがある。
当初は一般向けの発売も行われていたが、より近代的なトヨタ自動車のトヨタ・センチュリーやトヨタ・セルシオ、トヨタ・クラウン等や日産自動車の日産・プレジデントや日産・シーマ、日産・セドリック&日産・グロリア等に押され、次第に三菱グループ内でのみ使用されるようになっていった。やがて安全基準も満たせなくなっていったが、最終的に一般販売をせず、三菱グループ内のみで販売・使用する前提で特別に販売が許可される形に落ち着いていった。
2代目(A.D.1986~A.D.1986)[編集]
1986年、採算がとれないこともあり、三菱自動車社内でも半ば無視され、グループ各社からの要請に従って漫然と初代を作り続けていた状況から、まさかのフルモデルチェンジが行われた。世はバブル景気、古くさい車に乗り続けてないで真新しい車に乗りたいという三菱グループの浮かれと、その頃ちょうどオリンピック等で湧いていたが、自国で高級車を開発する能力のなかったよその新興国の事情とが絡み合ったものと思われる。しかし、バブルに浮かれる世相を反映してか、それとも資金を提供したよその新興国の事情を反映したものか、豪華な装備を持ちながらその全てが虚飾という、初代が数千年の長きにわたって生きながらえてきたノウハウを全て捨てたかのようなどうしようもない車両として開発されてしまったため、日本国内ではわずか6日で生産が終了する。まさにバブルの申し子のような車両であった。
3代目(A.D.1987~A.D.1999)[編集]
2代目の失敗をうけ、急遽開発されたため、三菱・ディアマンテ&三菱・シグマ等のありものを流用するという大グループの旗艦高級車としては非常に貧乏くさい作りを余儀なくされた。その上、貧乏くささを隠すためか、近代的な装備をてんこ盛りにすると言うどう考えても直前の代で失敗したのと同じ方向性での開発を行ってしまい、案の定売れないというグループをあげてのコントを行ってしまったことで有名である。あるいは、バブル後の日本の迷走ぶりを表しているのかもしれない。ただし、小型化されて同じ名前で販売されたタクシー用途の車両は無駄に後部座席が広いことや、上級モデルの足回りやエンジンを流用したため非常に余裕があり快適だったことで、一定の好評を得ることに成功した。
4代目(A.D.1999~A.D.2001)[編集]
もはやグループ的には呪われた名前となっていたデボネアの名を捨て、三菱・プラウディアと名称を変更した。この名前は、Proud-Diaつまり、ダイア(三菱)の誇りを意味している。そんな大グループの誇りをかけた車両であったが、すでにバブルも崩壊した状況で高級車が売れるはずもなく、世間的には埃程度の扱いを受けて惨敗、とうとう三菱グループは高級車の自社生産をあきらめることになるという結果に終わった。
現在のデボネア[編集]
当然新車は存在しないし、2代目以降は中古市場でもさほど高い値は付いていない。しかし、初代のみは生産台数は多いにもかかわらず、マニアが高値で売買している状況となっている。おそらく、シーラカンスは進化から取り残されたのではなく、進化しないことで自らのニッチを確保しているのであり、下手に手を加えてはいけなかったのであろう。
ただし、前述の通り初代はシーラカンスであり、現代の安全基準にはそのままでは適合しない。業者によって適合するための改造が行われてはいるが、正しく改造されているかどうかは業者次第であり、購入の際には綿密な確認が必要である。
デボネアが登場する作品[編集]
- こちら葛飾区亀有公園前派出所に走るシーラカンスとして皮肉られるためだけに登場するのはあまりにも有名である。
- 現代戦隊グレンジャー - 韓国の人気特撮シリーズ。2代目が頻繁に登場する。