ローラーゲーム東京ボンバーズ

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(ろーらーげーむ とうきょう ぼんばーず  Roller Games Tokyo Bombers)

東京ボンバーズ草創期の女性陣 前から佐々木ヨーコ、ダーニャ原田、岡田恵子、綾部圭子、堀井由美子、シンディ儀間

概要[編集]

走る肉弾戦ローラーゲームはローラースケート靴を履いた男女混成で成立つ2チームが1ピリオド10分間区切りの得点争奪競技を8ピリオド男女別に対戦して男女の合計得点で勝敗を決める競技で対戦は走路巾約3.6m。トラックの長さは1周40m-70m。(会場の面積に合わせて長さを調整した)
バンクトラックとゲームの様子
コーナーでは10度から45度程度の傾斜の付いたバンクトラック上を左回りに周回して1チーム2名まで認められる得点役(ジャマーと呼ばれる、2チームで4名)が対戦チームのスケーターより1周先回りした状態で1人追い抜くと1得点が与えられ、先回りして何人を追い抜いたかで得点を競い合うエンターテイメント性の極めて強い米国発祥のスポーツで東京12チャンネル(現テレビ東京)によってロスアンゼルスを本拠地とするサンダーバードが米国他州のチームと対戦する試合をメインに1968年(昭和43年)4月からの箱番組として日本に初めて紹介した。

放送当初は日本ではまったく観た事もないスポーツであって試合の中では美人スケーターによる髪の引張り合い、殴る、蹴るなど当時としては信じられないような乱闘シーンの連続に視聴者は驚きテレビの前に釘づけになっていたが徐々に視聴率が低下して2年6ヶ月後の1970年(昭和45年)9月に放送が打切られた。

放送当初の高視聴率を維持していた頃日本人チーム結成が計画され進められていたが視聴率の低下などから計画は頓挫していた。日本人チーム結成を諦めないローラーゲーム機構オーナー、ビル・グリフィス、東京12チャンネル運動部長 白石剛達、東京ボンバーズ初代コーチ 森文雄らの思惑が一致して1972年(昭和47年)6月ハワイに於いて日系人スケーターを加える形でチーム要員を確保しロスアンゼルスサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスや選手コリーン・ミュレルらの応援を得て日本チーム東京ボンバーズを誕生させてニューヨーク・チーフス、シカゴ・ホークス、デトロイト・デビルス、テキサス・アウトローズなどと対戦する様子を28試合収録した。

ハワイで収録した東京ボンバーズの試合は同年10月から東京12チャンネル系で「日米対抗ローラーゲーム」として放送が始まり長い黒髪を持つ女性キャプテン佐々木陽子やスケーティングのテクニシャン、ミキー角田らの活躍で15%を超える視聴率を記録していたが3年後の1975年(昭和50年)9月に視聴率の低下を理由に放送が打切られた。又、ローラーゲームの放送の間に日本における女性の格闘技が少しづつ受け入れられるようになったのかマイナーであった女子プロレスマッハ文朱ビューティペアなどのスターレスラーが登場し併せて女子柔道、女子レスリングなど女性が格闘技に進出することが普通になり始めた。

東京ボンバーズは1972年9月から板橋区前野町に練習場兼トレーニングスクールを開設してローラーゲーム放送が打ち切られる前まで新人スケーターの育成を行い、この間に多くの優秀なスケーターを育てたが東京ボンバーズのスケーター選手枠に制限が有ったためにボンバーズの一員に成ることもできずテレビに出ることも無く去って行ったスケーター達も多かった。

1978年(昭和53年)東京ボンバーズ初代コーチ森文雄は東京12チャンネルで旧知の運動部長白石剛達の要請もあって大田区体育館で東京ボンバーズ78(ミキー角田、二月葉子キャプテン)とトレーニングスクール育ちのブラックホークス(梅原コージ、斉藤メグミキャプテン)の試合を「ニューローラーゲーム」として主宰し日本人チーム対決を実現させて多くの新人スケータにもスポットを当てさせたものの東京12チャンネルはローラーゲーム機構のビル・グリフィスなどとの「日米対抗」再契約も捨て切れなかったために後々への影響を考慮してニューローラーゲーム日本人チーム対決は特番のみで打ち切っていた。

1982年(昭和57年)東京12チャンネルは視聴者のニーズを探る目的もあって再度ビル グリフィス機構のロスアンゼルス・サンダーバード対デトロイト・デビルスの外国人対決のローラーゲームを放送しているがこれも特番のみで終わっていた。

日本に於けるローラーゲームは1975年9月の日米対抗ローラーゲーム放送打切りで実質的に終息していたと記すべきか判断に迷うところはトレーニングスクールから巣立ってスターとなった小泉博が1993年(平成5年)から1994年にアメリカチームを招聘して後楽園の特設バンクでワールドシリーズと銘打って東京ボンバーズ名を復活させた試合を行っていること又、それ以降真剣勝負を提唱して大幅にルールを変えた競技(男性のみ)を行ってローラーゲーム再興の努力を続けている事などからだが2002年(平成14年)以降の試合歴は記録に無い。

ローラーゲーム米国での歴史概略[編集]

1968年日本で始めてローラーゲーム興行が行われた後楽園アイスパレス

ローラーゲームはローラーダービーから分派したスポーツで、発祥の米国において古くはローラースケーティングレースとして1922年(大正11年)頃から始まった様子をシカゴ・トリビューン紙が報じており、レースには平坦なトラックを使っていた。似たような記事がニューヨーク・タイムス紙で報じられており、こちらは更に古く1914年(大正3年)にバンクトラックを使ったチャンピオンレースとして報道している。これらをローラーダービーとしての名称で呼ぶように成ったのが1930年代(昭和5年以降)で1961年(昭和36年)にビル・グリフィス(後にローラーゲーム機構オーナーとなる)がローラーダービーのスケーターを使ってテレビ受けするスポーツに変えてローラーゲームを派生させた。1960年代後半には野球場を満員にするほどの観客を動員してローラーダービーの強烈なライバルと成ってテレビでも盛んに放送されていた。

2008年(平成20年)においてはビル・グリフィス・ジュニアによって運営されてはいるが総じて縮小した活動になっている。

LA T-Birds(ロスアンゼルス・サンダーバード1968年~1972年)に所属した選手名[編集]

男性陣

コーチ●ラルフ・ヴァラディアス(Ralph Valladares)

●ダニー・ライリー(Danny Reilly)

●リチャード・ブラウン(Richard Brawn)

●ラリー・ルイス(Larry Lewis)

●ボブ・コービン(Bob Corbin)

●グレッグ・ロバートソン(Greg Robertson)

●ジョージ・アダムス(George Adsms)

●ジョージ・ヘルナンデス(George Fernandez)

●レニー・シルバーマン(Lennie Silverman)

●サム・ワシントン(Sam Washington)

●ビリー・マーシャル(Billy Marshall)

●ヘンリー・サガン(Henry Sahagun)

●エド・ドレッサー(Ed Dresser)

●ジョン・ジョンソン(John Johnson)

●ロニー・レインズ(Ronnie Rains)

●ハロルド・ジャクソン(Harold Jackson)

マネージャー●ジョン・ホール(John Hall)

女性陣

キャプテン●テリー・リンチ(Terri Lynch)

●ハニー・サンチェス(Honey Sanchez)

●ジュリー・パトリック(Juliy Patrick)

●ジュディー・ソゥインスキー(Judy Sowinski)

●ルバータ・ミッチェル(Ruberta Mitchell)

●カルメン・トンプソン(Carmen Thompson)

●リズ・ヘルナンデス(Liz Hernandez)

●ベティー・ストーン(Betty Stone)

●サリ・ーベガ(Sally Vega)

●キャロリン・クルース(Carolyn Kruse)

●キャロル・クルース(Carol Kruse)

●バーバラ・ジェーコブス(Barbara Jacobs)

●コリーン・ミュレル(Colleen Murrell)

●グエン・ミラー(Gwen Miller)

●デビー・スミス(Debbie Smith)

●ジェニファー・マーシャル(Jennifer Marshall)

●ゲイル・バウワーズ(Gail Bowers)

1960年代のローラーゲーム機構[編集]

機構主宰 ナショナルスケーティングダービー社(National Skating Derby Inc)

当時の住所 米国.カリフォルニア州ハリウッド,ノースハイランドアベニュー(1717 N.HIGHLAND AVE.HOLLYWOOD,CALIF 90028 USA)

オーナー ビル グリフィス(Bill Griffiths)


傘下チーム[編集]

●ロスアンゼルス・サンダーバード

●シカゴ・ホークス

●デトロイト・デビルス

●ニューヨーク・チーフス

●フィラデルフィア・ウォリアーズ

●東京ボンバーズ(1972年から所属)

東京ボンバーズ[編集]

所属 日本ナショナル・スケーティング・ダービー株式会社

活動拠点 東京

練習場兼トレーニングスクール 板橋区前野町4丁目13-17 1972年9月開設

記載の会社及び練習場は現在は存在しない。

ローラーゲーム試合ルール[編集]

1960年代(昭和36年以降)から1970年代当時に主流とされていたルールを解説をまじえながら紹介する。

試合用リンク

走路巾約3.6m、1周は40m-70mで試合を行う会場の大きさに合わせて1周の長さが調節できる組立て式トラックでコーナーには10度から45度程度までの傾斜を付けて通称「バンクトラック」と呼ばれている。組立素材にはベニヤ合板が使われ走路表面にはメソナイト社の圧縮材をビス止めしてある又、外周には高さ1m程度の柵(ハンドレール)が設けられている。 走路の内側はインフィールドと呼ばれ中央に負傷者救護所が設けられ両方のコーナーに分かれて両チームの控えベンチとその後方にはペナルティーボックスが設置してある。

チーム

1チームは「男性5名女性5名」で成立つが交代要員として男女とも4,5名がチームベンチに控えている。

対戦

「女性は相手チームの女性」と「男性は相手チームの男性」とそれぞれピリオド別に試合を行うが稀に男性チームの要員が負傷などで不足したときなどは審判員が認める範囲で女性が男性チームの試合に参加することがある。

ピリオド

1試合は「8ピリオド」に区切られており「1ピリオド(ひと区切り)は10分間」である。奇数ピリオドの1,3,5,7は女性チームが対戦して偶数ピリオドの2,4,6,8は男性チームが対戦する。前半4ピリオドを終了した時点で休憩時間を挟さみ後半戦最初の5ピリオド目が開始される。試合中に負傷者などが発生して時間のロスが発生した時には審判員の判断でロス時間を1ピリオドの時間に加えないこともある。

ジャム

各ピリオドは更に時間が細分化されている。その時間は審判員のホイッスルを開始時間として最長1分間制限である。しかしリーディングジャマー(ジャマーで最先頭に位置する者)には試合をいつでも終了させるコールオフという権利が与えられている。そのために試合開始直後であってもリーディングジャマーは与えられた権利を行使して試合を終了させる作戦をとることがある。こうした「ピリオド内での細分化した得点争奪戦をジャム」と称する。ジャムは1ピリオド目と休憩時間後の5ピリオド目のみトラック上のスタートライン手前で静止した状態からのスタートとなり(この時のジャマーの位置は最前列スタート)その他のジャムは全て滑走スタートが用いられる。低速で滑走しながら両チームがそれぞれ2名づつ合計4名のジャマーを選出して滑走集団の最後方に位置させた時、攻守の布陣が整ったと認めた審判員がホイッスルを吹き鳴らしてジャムを開始させる。

ジャマー

ローラーゲームには「得点役」が存在する。得点役は「ジャマー」と呼称され各チーム2名まで出すことができる。 ジャマーはジャムの開始を告げる審判員によるホイッスルが鳴らされるまで滑走集団の最後方に位置していなくてはならない。(1960年代後半まではヘルメットを使うことは無かったが誰がジャマーなのか判断しにくかったために1970年代からヘルメットを使用するようになった又、ヘルメットを使用していないと基本的にジャマーと認められなくなった)ジャマーは滑走路から両足が出た時、コールオフが認められた時、ジャムの制限時間に達した時には得点役としての権利を失う。

得点

ジャマーは審判員が吹き鳴らす試合開始のホイッスルの後、前方を滑走する対戦チームのスケーターを追い越しさらに滑走して完全に「1周先回りした状態」で対戦チームのスケーターを「1人追い抜くと1得点」となり「2人追い抜くと2得点」となる。ケースとして同一チームで2名のジャマーが残っておりその2名で対戦チームのスケーター1人を追い抜いたときにはジャマーそれぞれに得点が与えられるので2得点と成る。対戦チームの全員を抜き終わった後でもジャムの制限時間が残っている時には更に「先回りすることを条件」に同一選手から2点3点と得点することができる。

アシストと反則

得点役のジャマー以外のチームメンバーはジャマーが得点しやすいようにアシストする。その方法として対戦チームの前で両手を広げたり群がったりして前方へ滑走しにくい状態を作る。そうすることによってジャマーは労せず1周先回りの状態となる。対戦チームのスケーター集団の滑走を抑制する行為を一般的に「パックをコントロール」すると呼びチームワークの1つで常に使われている又、先回りしてきたジャマーが得点しやすいようなアシストも行われる。対戦チームのブロッカーに体当たりをしたり遠心力を使って柵外へ弾き出したり様々な行為が許されているが顔や頭を殴るとかローラー靴で蹴り飛ばすとか髪やユニフォームを掴んで引き倒したりは反則とされる。

反則者への罰と得点

審判員により反則が確認されると反則者はチームベンチ後方に設けられた「ペナルティーボックス」へ定められた時間入りることを命ぜられる。反則者がペナルティーボックスに入っている間はその人数分減員したメンバーで相手チームと戦わなくてはならない又、ジャム中に相手チームに得点を許すとペナルティーボックスに入っている人数分も加算されて相手チームの得点となる。

ジャムの終了

1分間の制限時間に達したとき。ジャマーが1人もいなくなったとき。リーディングジャマーがコールオフしたときなどにジャムは終了する。

コールオフとコールオフの権利者

ジャム開始直前に両チームから選出されるジャマーは4名いるがそのジャマーでジャム開始後前方を滑走しているスケーター集団を追い越して最も先頭に位置しているジャマーのみに「コールオフ」(ジャムを終了させることができる)の権利が与えられる。コールオフは先頭スケーターが腰に両手を宛がう姿勢をつくることで成立する。コールオフはジャマーが得点する意思が無いことの表明であったり、ピリオド時間の浪費を狙ったり、得点争奪作戦の練り直しなど色々な場面で様々に行使される。

勝敗

試合の勝敗は最終的に男女で獲得した合計得点の多いチームが勝利チームとなる。

※マッチレース

ローラーゲームで観客動員を狙ったイベント。選手間のもめごと、チーム間のトラブル、こうした諸々の問題を1対1のレースで決着させようとするもので観客の後押しがあると数日後の試合で4ピリオド目が終了して5ピリオド目が開始される直前に実施される。ルールは当事者間で決めることができるが基本はスタートが有ってゴールが有ること。 決めた周回数を早くゴールした者が勝者となる。マッチレースといっても稀に2対2とか1対2の変則レースも行われる。マッチレースはテレビで放送されることが無いので試合が行われている現場に行かないと観れない。


競技用語[編集]

・ジャマー(得点役1チームで2名出せる)

・ダブルジャマー(同一チーム2名の得点役が滑走集団の前方に飛び出したときの呼称)

・リーディングジャマー(最先頭を滑走している得点役を指す)

・ブロッカー(対戦チームに得点を与えないように滑走集団の最後方に陣取りジャマーをけん制する防御者を指す)

・ダブルブロッカー(通常は滑走集団の最後方を陣取り2名で並列滑走している防御者を指す)

・リバースブロック(周回方向を逆走して体当たりなどをする行為)

・中央突破(ダブルブロッカーや滑走集団の中央からブロック体制を崩して進む行為)

・露払い(ジャマーのアシストに付いたスケーターが対戦チームのスケーターを排除して得点を容易にさせる行為)

・ホイップ(後方のスケーターの勢いを付けさせるために手で引っ張って前方へあおり出す技)

・ダブルホイップ(2名のスケーターが連結して後方のスケーターを前方へあおり出す技)

・大車輪ホイップ(3名-4名が連結して1人のスケーターを前方へあおり出す大技)

・レッグホイップ(手の代わりに脚を使って前方へあおり出す技で手よりもスピードが出る)

・ダブルレッグホイップ(手と手が普通のホイップで脚と手で連結した2名によって前方へあおり出す技、大車輪もある)

・パック(スケーター集団の塊を指す)

・パックコントロール(スケーター集団を低速に又は、停止状態に維持するチーム戦略。パックをコントロールできないと対戦チームに逃げられるのでジャマーは得点できなくなる)

・コールオフ(リーディングジャマーに与えられたジャムを終わらせることのできる権利。両手を腰に宛がう形)

・リーディングジャマー(最先頭を滑走するジャマーを指す)

・ピリオド(試合中の区切り。1ピリオドの制限時間は10分間。1試合は8ピリオド)

・ジャム(ピリオドの中の細分化された競技を指す。1ジャムの制限時間は1分間。通常1ピリオド6回-8回のジャムがある)

東京ボンバーズの選手名[編集]

        草創期の1972年10月-1973年3月放送
男性陣

●ミキ角田(角田誠)

●リキ遠藤(遠藤優)

●ビンゴバット河野(河野一男)

●レイ横山(ハワイ在住日系人)

●ボビー加藤(ハワイ在住日系人)

●コーチ、タイガー森(森文雄)

●ラルフヴァラディアス(LA T-Birdsコーチ応援参加)

1973年4月以降の放送から参加したメンバー

●川島次夫

●金沢幸雄

●若松雅俊

●小泉博

●堀口善行

●和泉定治

女性陣

●キャプテン、佐々木陽子

●綾部圭子

●堀井由美子

●岡田恵子

●シンディー儀間(ハワイ在住日系人)

●ダーニャ原田(ハワイ在住日系人)

●コリーンミュレル(LA T-Birdsから応援)

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●綾部喜美江(圭子の妹)

●守屋素子

●宮田正江

●上野満枝

●西島英子

●森千枝子

東京ボンバーズメンバーの写真集[編集]

東京ボンバーズ創設史概略[編集]

日本人チーム結成計画[編集]

日本人チーム結成は1968年日本で初めてロスアンゼルスサンダーバードの試合をメインにローラーゲームが東京12チャンネルの番組で紹介された視聴率の絶頂期に計画された。

日本人選手募集のテロップを番組の中で流して応募者を募った結果ナショナルスケーティングダービー社と東京12チャンネルの共催で後楽園ローラースケートリンクで行われた選考会への応募者は200名を超えていた。

ローラースケートは子供の遊び程度に当時の日本では受け止められており、選考試験の1つであるスケーティングでまともに滑れるのは過去にホッケークラブやフィギア、スピードクラブに所属していた経験のある人たちだけだった。言わばほとんどの人がまともに滑れない状態で試験を受けていた。スケーティングの他には身長、体重、身体機能テストや健康診断などが行われ10数名が合格していた。


日本人チーム結成計画の頓挫[編集]

佐々木陽子、角田誠、河野一男、森文雄の4名もこの合格メンバーの中に含まれていた。佐々木陽子は髪の長さが特徴で少し滑れる程度、角田誠は小柄が特徴で滑れる程度、河野一男は相撲出身で大柄が特徴、滑れた程度。森文雄は受験者の中では大柄、転ばずに何とか滑れる程度。このような日本人スケーターを訓練して直ぐにでもチームが結成されそうな印象を与えていたがサンダーバードが来日して興行を行う会場に設けられたバンクトラックで数日間自由に滑る練習が行われるもその後は合格者へ招集がかかることが無かった。

原因はローラーゲームの視聴率が低下して日本人チーム結成が危うくなっていたためだった。東京12チャンネルとナショナルスケーティングダービー社はとりあえずサンダーバードのメンバーに日本人を加えた試合を放送して視聴率の回復を試みようと1969年と1970年の2回に渡り佐々木陽子と角田誠を渡米させてロスアンゼルのオリンピックオーデトリアムにあるサンダーバードのトレーニングスクールで訓練した後メンバーに加えて試合に参加させた。2人が活躍する様子は日本でも放送されたが視聴率の回復には至らず1970年9月にローラーゲームの番組は打ち切られ日本人チーム結成計画は完全に頓挫した。

ローラーゲームの復活は日本人チームを創ることと目論む機構オーナーのビル・グリフィスとローラーゲームを日本に紹介した東京12チャンネルの運動部長白石剛達の考えは一致していたが現実問題として10数名の選考会における合格者全員を渡米させて数年がかりで結成するにも又、日本でトレーニングスクールを開設してスケーターを育成するにも膨大な費用を必要とし、目論見だけで資金を投下するのは賭けであって結成計画頓挫の大きな理由となっていた。選考会からはすでに2年を経過して選考会で選ばれたメンバーもほとんど散り散り状態となっていた。


新たなるチーム結成の動き[編集]

遅々として進まぬ結成計画に不満を持ちながらも滑れるようになるための練習を後楽園ローラースケートリンクで重ねていた森文雄は計画頓挫を察した選考会後まもなくから「日本人チームを自分で創ってやる」と考えを変えていた。それも叶わぬときには単身米国へ渡りプロスケーターを目指すことにした。とりあえずプロを経験した角田誠と佐々木陽子、毎日のように後楽園ローラースケートリンクで顔を合わせる河野一男らは言わば同輩に当たるため連絡を取れる状態にして練習とプロを目指す仲間探しに没頭していた、加えてローラーゲーム機構の動静を見極めるため東京12チャンネルで後にローラーゲームのドクターと呼ばれる宮本高志、電通の間宮、興行の招聘元キョードー東京の石井 寿などとも連絡を取り合える状態にしていた。

ローラースケートにもスケーティングスタイルがある。自ずと使用する靴も違ってくる。ローラーフィギアの靴は踵が高く前方にはストッパーのゴムが付いており直立した状態で演技ができる。ローラーホッケーの靴は頑丈な仕様でストッパーは有るものの踵は無く前傾姿勢滑走に伴い変幻自在のアクションに対応してストッパーゴムを使う。ローラースピードは靴に軽い皮を使用してストッパーゴムも踵も無い、ただひたすら前傾姿勢で滑るのみである。ローラーゲームで使用する靴はフィギアのように踵があってスピードのようにストッパーゴムが付いていない。ある程度のスピードに対応しながら直立での動きにも対応できるようになっている。ただリンクで貸出される靴はスピードとフィギア靴の2種類であり当時の一般客で自前の靴を持っている人はほとんどいなかった。

それでもローラーゲームに興味のある人のスケーティングは分かりやすい滑走中に一緒に来た仲間にホイップやブロックらしきことをやって滑走したり、直立に近い状態でスピードを保ったスケーティングを行ったりで森文雄はそうしたスケーティングを行う同じ滑走客をリンクで数回見かけたら「一緒にプロを目指さないか」と声を掛けてグループの仲間に引き入れていた。後にプロスケーターと成ったリッキー遠藤や川島次夫、若松雅俊、金沢幸男、和泉定次らである。他にもグループに入る人、辞める人もいたが辞める人を引きとめることもなく20名前後を擁してプロを目指していた。

不安なことは女性スケーターを1人も集められないこと男女で成立つチーム創りに女性スケーターは不可欠で深刻な問題であった。1970年代初め頃までの女性は「殴る、蹴る、ぶっ飛ばす」をふんだんに盛り込んだスポーツに自らを投じてみようとする人はほとんどいなかった。女子プロレスでさえ極端にマイナーな時代である。

ビル・グリフィスの再来日[編集]

1970年11月にローラーゲーム機構のビル・グリフィスが再来日することを縁を切らずにいた関係機関が森文雄に知らせた。森文雄は関係機関へビル・グリフィス来日の際に面会できるように依頼した。後日ビル・グリフィスと言葉を交わす機会を得た森はプロを目指すグループを擁して訓練していること、練習状態を見てほしいことなど熱い口調で話した。森の話に耳を傾けていたビル・グリフィスは「明日の朝、皆さんのスケーティングを見せて下さい」と興味を示した。ビル・グリフィスに練習を見てもらえるとなるとグループの士気も上がる。森は早速後楽園ローラースケートリンクの早朝貸切を嘆願して(普通は急な貸切には対応してもらえない)グループメンバー全員と同輩の角田誠、河野一男、佐々木陽子にも参加を呼びかけて練習状態を見せる準備を整えた。


日本人チーム結成を即断の時[編集]

森文雄に忘れることのできないビル・グリフィスの言葉は「アイムサプライズ」「ベーリーベーリーサプライズ」だった。次の日の早朝8時ビル・グリフィスを迎えて1列滑走、ホイップ、ブロックと様々な滑走技術を披露して見せた後に森に伝えられた言葉である。

「チームを創りましょう日本人チームを」「できる限り早くロスアンゼルスのトレーニングスクールに招いてプロのトレーニングを受けれるようにします。女性スケーターになる人を探してください。ヨーコ1人では足りません」

日本人チーム創りに膨大な費用が掛かるために頓挫していた結成計画だがいつの間にか費用を掛けずに育てられていたスケーターに驚いてビル・グリフィスは日本人チーム結成計画を実行に移すことをこの時に即断した。

4名が渡米[編集]

1971年1月5日羽田から角田誠、河野一男、佐々木陽子、森文雄の4名が渡米した。4名はHOLLYWOODを示す大きな看板の近く、ノースハイランドアベニューの一角にあるアパートを宛がわれて昼間はそこから毎日ロスアンゼルスにあるオリンピックオーデトリアムの建物の中に特設されたサンダーバードのトレーニングスクールに通い、夕方になると再度オリンピックオーデトリアムに出向いてサンダーバードの一員として試合に参加する生活を続けた。ハリウッドで生活を始めて1ヶ月が過ぎた頃の1971年2月11日明け方轟音と共に横揺れの激しいロスアンゼルス大地震という恐怖のハプニングを経験する、幸い4名は地震による怪我などは無くその後もサンダーバードの厳しい訓練と夜の試合への参加を続けた。

ロスアンゼルス・サンダーバード時代の日本人スケーターヨーコ、森、角田、河野

4名はハワイアン・ウォリアーズの一員として滑走することを渡米して5ヶ月が経過する頃に命ぜられた。ハワイに渡った4名はワイキキビーチまで歩いて5分ほどの場所にあるアイランダーインホテルに滞在して昼間はシビックオーデトリアムにあるウォリアーズのトレーニングスクールに通い夜は3時間を越える試合に参加した。

ハワイでは夏場6月-8月の間日本の大相撲などを招聘した事などで知られる日系の大物プロモーター、ラルフ円福氏の招聘によりローラーゲームのシーズンが開幕する。この間、フィラデルフィアを本拠地とするウォリアーズがハワイアンのホームチームとなってデトロイト・でビルス、テキサス・アウトローズ、シカゴ・ホークス、ニューヨーク・ボンバーズなどを相手に3週間クールで戦う。4名がハワイに渡り3ヶ月が過ぎた頃ハワイにおけるローラーゲームのシーズンが終わり、ウォリアーズはフィラデルフィアに戻り、4名は渡米して8ヶ月が過ぎた9月1日に日本へ帰国した。

日本人女性スケーターの獲得[編集]

今応募したら即アメリカのトレーニングスクールで育成します日本に戻った森文雄はトレーニングスクールや試合で学んだ技術をグループのスケーターに教えて育てる一方で女性スケーターの獲得に動いた。グループのメンバーと協力して東京と近郷に点在するローラースケートリンクの出口に立ち出てくる女性を見つけては手作りの女性スケーター募集のチラシを配布した。しかし、チラシの内容に興味を寄せる人は誰1人として出てこなかった。正真正銘、真剣に誘うチラシであったが「そのようなうまい話があるか」というような顔をされてまったく相手にされなかった。

軌道に乗りかけた日本人チーム結成をまたしても頓挫させたくない思いはグループの誰にもあった。森文雄は女性スケーターが集まらなくては進まない計画に焦っていたがサンダーバードの活躍を放送していた1969年にサンダーバードのファンクラブが結成されていたことを東京12チャンネルアナウンサーの宮本高志氏から知らされファンクラブの中の女性なら女性スケーターを目指してくれるのではなかろうかと当時のファンクラブの所在を探した。

意外なところにファンクラブの所在を知る人物がいた意外ではなかった、ミキー角田だ。角田はサンダーバードの一員として活躍する様子が放送されていたためファンもいたのだ。森が角田にファンクラブの所在を聞くと「ああ知っているよ」ということで当時のサンダーバードファンクラブ東京第二支部長の相川を探し当てることができた。森は事情を話してサンダーバードファンクラブ会員の住所録を譲り受けた。

待ちに待った女性の応募があった100名以上の女性会員のみにスケーター募集の封書を送りつけたところ綾部圭子、綾部喜美恵、堀井由美子、岡田恵子の4名が応募してきた。綾部圭子の妹、喜美恵は高校生であるため練習生に留めた。その朗報はアメリカにいるビル・グリフィスにも伝えられビル・グリフィスの日本人チーム結成計画構想は着実に前進し始めた。ちなみに堀井由美子はサンダーバードファンクラブ東京第三支部長を務めていた。

3名の女性の渡米は約束されていたが渡米前にそれなりに滑れる技術を身に付けさせる練習を後楽園ローラースケートリンクで続けた。この頃になると角田誠や佐々木陽子も時間を作っては後楽園ローラースケートリンクでグループと一緒に練習を繰り返すようになっていた。

ハワイアン・ウォリアーズ[編集]

1972年夏、ハワイに再びローラーゲームのシーズンが近づきジム・トロッターコーチ、ジュディーアーノルド女性キャプテン率いるウォリアーズがハワイに戻ってくる頃の6月8日、先に渡米してサンダーバードのトレーニングスクールで訓練を積んでいた角田誠、遠藤優、佐々木陽子、綾部圭子、堀井由美子、岡田恵子ら6名と後から渡米した森文雄、河野一男の2名がハワイで合流した。

直後からハワイアン・ウォリアーズのシーズンも開幕した。 ハワイではビル・グリフィスの日本チーム結成構想が進みウォリアーズスケーターに日系人スケーターのシンディ儀間、ダーニャ原田、レイ横山、ボビー加藤らが加えられていた。

日本人スケーターと日系人スケーター全員が昼間はウォリアーズのトレーニングスクールに通い、夜はハワイアン・ウォリアーズのメンバーとしてビジターチームを迎え撃つ試合に参加した。試合前の選手紹介でファンからスケーターに贈られるレイの輪はスケーターの顔を覆い隠すほどの多数であった。


東京12チャンネルの運動部長白石剛達は今夏、日本人チーム結成をビル・グリフィスより知らされており、他局に放送権を持っていかれないように局内を奔走して上層部からローラーゲーム再放送の確約を強引に取り付けていた。その朗報はビル・グリフィスよりハワイにいる日本人スケーターにも伝えられ歓声で迎えられた。

東京ボンバーズの誕生[編集]

既に白地に赤と青のボンバーズのユニホームが作られいた日本から渡米した8名にウォリアーズの日系人スケーター4名を加え更にサンダーバードのコーチ、ラルフ・ヴァラディアスと女性スケーター、コリーン・ミュレルの応援参加で男性7名、女性7名、結成計画の選考試験から4年を経過してタイガー森コーチ、佐々木陽子女性キャプテンが率いる東京ボンバーズがハワイで誕生した。

日本に戻った草創期の東京ボンバーズ三越でのサイン会後銀座ホコ天に出て 左から佐々木陽子、タイガー森、堀井由美子、リキ遠藤、河野一男、綾部圭子、ミキ角田

ハワイのホームチーム、ウォリアーズのアメリカ人が抜けてサンダーバードのラルフやコリーンが加わった東京ボンバーズは名称に何のわだかまりも無いハワイアンに大きな声援をうけ、東京から駆けつけて中継録画車に陣取る白石剛達の前で初めての試合が収録された。ハワイに日本人スケーターが滞在する3ヶ月間にニューヨーク・チーフス、デトロイト・デビルス、シカゴ・ホークス、テキサス・アウトローズの4チームと合わせて28試合を戦って8月30日に日本へ帰国した。


東京へ戻ったボンバーズは1972年9月に練習場兼トレーニングスクールを板橋区前野町に開設した。  ボンバーズが活躍する試合の放送が開始された10月からは男女のプロスケーター志願者が有料で練習を受けるようになった。昨年女性スケーターを探してチラシを配布していたのがまるで嘘のように女性のスケーター志願者も多かった。男女のプロスケーター志願者の中には後にスターと成った小泉博やインラインスケートX-GAMESの世界チャンピオンに何度も輝いた安床ブラザースの父安床由紀夫らもいた。

放送の反響とチーム活動の休止[編集]

1972年10月から東京12チャンネルはハワイで収録した試合を「日米対抗ローラーゲーム」の番組名で放送した。

消えたチーム[編集]

憎悪や興奮、爽快感や感動を電波に乗せて放送を始めた直後から子供や大人を視聴者に巻き込みハワイでの収録試合は15%を超える視聴率を記録したがその後は徐々に視聴率が低下して1975年9月にテレビ放送は打ち切られた。

東京ボンバーズは放送が打切られる前には活動を休止しておりまるで忽然と消えたチームの印象を残してその消息とスケーターの様子を知りたがる人は多い。

人気[編集]

後に一世を風靡したとか空前の爆発的ブームを作ったとか、超人気スポーツだったとか語られその衝撃の強さから東京ボンバーズの試合に熱中したのが自分の何歳の頃だったか記憶しているファンもおり、その頃の時代を思い出しては郷愁にかられる人も多い。


ファンの論議[編集]

「ルールがまったく分からなかった」「あれは八百長だ!」「勝敗が決まっていた」「それでも楽しめたから良かった」などとネット上では最近も論議されることがあり、いかに刺激を与えたエンターテイメント性の強いスポーツであったかが伺える。今でも当時のVTRが観たいとかの希望が多いが1975年以前に放送されていた頃には家庭用の録画装置が高価で普及していなかったために家庭で録画が残されている可能性も薄く当時の試合の様子を鮮明に観ることは不可能に近い。

チーム名とスケーター名の命名[編集]

東京ボンバーズ[編集]

「東京ボンバーズ」のチーム名はローラーゲーム機構オーナー、ビル・グリフィスによって命名された。命名前には東洋的イメージから東京タイガース等の名前があがっていたが日本プロ野球機構にタイガースが存在するために没となり「ボンバーズ」(Bombers 敵の戦闘能力を破壊する軍団)と命名された。本来ボンバーズはニューヨークチームに付けられていた名称だが東京ボンバーズの誕生によりニューヨークチームは「チーフス」に改名させられた。

スケーター名[編集]

草創期の男性スケーターには全て機構オーナー、ビル・グリフィスによるリンクネームが付けられた。角田誠には日本名のMAKOTOが呼びづらいらしくMIKIが付けられ「ミキ角田」(日本では完全にミッキーマウスと同じミッキーと呼称されていた)、遠藤優はMASARUがほとんど呼べずに「リキ遠藤」(日本ではミッキーと同じようにリッキー遠藤と呼称された)、河野一男には大相撲歴があるため相撲の頭突きからイメージして大当りの「ビンゴバット河野」、森文雄にはチームに付けたかったタイガースの名称をそのままつけて「タイガー森」。