京阪鴨東線

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鴨東線(おうとうせん)は、京都府京都市東山区三条駅から同市左京区出町柳駅までを結ぶ京阪電気鉄道鉄道路線

路線名は鴨川の東岸を走行することから。京阪本線の延長線として鴨川沿いの川端通の地下に建設され、全線が地下線となっている。また、開業当初から建設費(約650億円)償還のために普通運賃で60円の加算運賃が同線区間利用時に設定されており[1]、鴨東線内各駅(三条駅から出町柳駅方面も含む)からの初乗り運賃は、2007年現在210円と京阪本線の初乗り運賃より高くなっている。

なお、正式な起点は三条駅[2]だが、列車運行および旅客案内では出町柳駅から三条駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている。

路線データ[編集]

  • 路線距離(営業キロ):2.3km
  • 軌間:1435mm
  • 駅数:3駅(起終点駅含む)
  • 複線区間:全線
  • 電化区間:全線電化(直流1500V)
  • 閉塞方式:自動閉塞式
  • 最高速度:90km/h[3]

運行形態[編集]

京阪本線と一体的に運行されており、全て大阪の淀屋橋中之島方面へ直通する。朝の三条発出町柳行き1本を除き鴨東線内だけで運行される列車はない。特急(平日夕方・夜間の出町柳行きは代わって快速特急)・快速急行(平日朝の中之島行きは通勤快急)・準急(平日朝の淀屋橋・中之島方面は通勤準急)・普通がほぼ終日運行されているほか、朝と深夜に急行が運行されている。唯一の途中駅である神宮丸太町駅には急行以下の種別の列車が停車する。鴨東線内だけで見れば、先発先着の平行ダイヤとなっているが、京阪本線と直通する場合、出町柳を出発するほぼすべての下り準急・通勤準急・普通はたったの2駅進んだだけ(三条)ですぐに後続の特急・快速急行・通勤快急に追い抜かれてしまう。これは同駅利用者が優等列車に乗換えが可能となる様に配慮されたものである。

2008年10月19日の改正以前は、特急が平日昼間・休日終日、2006年4月16日の改正から普通が終日、K特急・急行と数本の準急が昼間以外の時間帯(K特急は平日のみ)に運転されていた。

各列車種別毎の停車駅は京阪本線を参照のこと。

歴史[編集]

当線の免許は1924年大正13年)に京福電鉄の前身である京都電燈が取得していた。京都電燈は1925年(大正14年)に叡山平坦線(現在の叡山電鉄叡山本線)を開業させたが、鴨東線については京都市電平面交差[4]になることや景観の問題から着工できず、ようやくまとまり鴨東線建設のために資材を用意するも、1934年昭和9年)の室戸台風や、翌1935年(昭和10年)の鴨川大洪水で資材が流失したり、これらの被害復旧のための資材として流用され、その後は戦時体制と戦後の混乱で着工できなかった。

戦後、1948年(昭和23年)に当時の京都市長神戸正雄が京阪電鉄・京福電鉄に早期開業を要請したのを受けて1950年(昭和25年)に鴨東線建設準備委員会が立ち上げられ免許出願に向けて準備を進めたが、「古都の美観を損なう」などと反対する動きがあり京都市議会でも問題とされた。市議会で公述人として呼ばれた桑原武夫京都大学教授は「堤防上を電車が走るのは古都の風致を損なう」などの紋切り型の反対意見に対し「すでに長い間七条から三条まで堤防上に走っている。三条四条周辺では鴨川べりを桜や柳の木の間を電車が走っているのは趣があって良いのではないか。それを眺めていて腹が立ったことは一度もない。」と賛成意見を述べた。しかし、市議会は路線の地下化や報奨金支払などの費用負担を要求する、という厳しい条件を突きつけたため計画は頓挫し、長らく「幻の路線」と呼ばれた。

前述の鴨川大洪水を受けて計画された鴨川改修工事にあわせて京阪本線を地下化する基本計画が策定され、京阪本線が京都市の東西交通のネックになっていることから地下化が具体化するのに併せ、1972年(昭和47年)に京阪電鉄が中心となって鴨川電気鉄道が設立され[5]鉄建公団(当時)による「P線方式」[6]でようやく着工された。

1989年平成元年)に京阪電鉄が鴨川電気鉄道を合併し、同年京阪鴨東線として開業した。当初は出町柳駅から叡山電鉄叡山本線(1986年(昭和61年)、京福電鉄から分離譲渡)と直通運転する構想[7]であったが、車両規格や輸送力の差が大きすぎることもあって実現しなかった。この際特急はすべて7両編成(その後1997年から1998年にかけて8両編成)に統一、輸送力が確保された。

開業後は、沿線の通勤客のみならず出町柳駅近くに立地する京都大学同志社大学同志社女子大学精華女子高校などへの通学が大幅に便利になったほか、乗客の減少で経営が悪化していた叡山電鉄が一気に乗客を取り戻すなど鴨東線開業の効果は大きい。

沿革[編集]

  • 1924年(大正13年)8月29日 京都電燈(京福電気鉄道の前身)が出町柳 - 三条間の地方鉄道敷設免許を取得。
  • 1950年(昭和25年)4月10日 京阪電気鉄道が「鴨東線建設準備委員会」を発足。
  • 1972年(昭和47年)7月1日 鴨川電気鉄道を設立。
  • 1974年(昭和49年)2月20日 京福電気鉄道の出町柳 - 三条間の地方鉄道敷設免許が失効。
  • 1974年(昭和49年)2月25日 鴨川電気鉄道が出町柳 - 三条間の地方鉄道敷設免許を取得。
  • 1984年(昭和59年)11月30日 鴨東線建設工事起工式を挙行。
  • 1989年(平成元年)4月1日 京阪電気鉄道が鴨川電気鉄道を合併。
  • 1989年(平成元年)10月5日 鴨東線として開業。
  • 2008年(平成20年)10月19日 京都市営地下鉄烏丸線に同名の駅がある丸太町駅を神宮丸太町駅に改称。

駅一覧[編集]

三条駅 - 神宮丸太町駅 - 出町柳駅

接続路線[編集]

脚注[編集]

  1. このため開業直後の定期運賃は、当時同社の最長区間であった淀屋橋 - 坂本より淀屋橋 - 出町柳の方が高額であった。
  2. 国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』(電気車研究会)による。
  3. 寺田裕一『データブック日本の私鉄』ネコ・パブリッシング、2002年、p.126
  4. 叡山本線は地方鉄道法による免許のため、通常は軌道法による京都市電との平面交差は許可されない。当地(叡山本線元田中駅付近)の場合は叡山本線が先に開通したのちの1943年(昭和18年)7月に京都市電東山線が開通したが、戦時中のことでもあり特認されたものと推定される。なお、京阪線は軌道法によっていたため四条駅などでの平面交差は問題がなかった。
  5. 京阪と京福の合同出資の形をとっているが、当時すでに京福の株式の40%以上は京阪電気鉄道が持つ関連会社であった。
  6. 「P線方式」とは、東京・大阪・名古屋および周辺の大都市圏の私鉄(民鉄、第三セクターの会社を含む)において、輸送力の増強などのために行われる鉄道施設の新設や改良工事のための助成の枠組み。鉄道事業者に代わって同公団が鉄道施設の建設を行い、完成して引き渡された後に25年の分割払いで建設費を同公団に支払うもの。のちに建設された京都市営地下鉄東西線の三条京阪 - 御陵間(同区間の事業主体は京都高速鉄道)などが、同様の手法で建設されている。
  7. 1972年当時、京福は300形車両を使用して中書島駅まで、京阪は岩倉駅および八瀬駅(現・八瀬比叡山口駅)までの相互乗り入れを計画していた。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 京阪電気鉄道 公式サイト
  • 運輸省鉄道局監修『鉄道要覧』平成九年度版 電気車研究会
  • 国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』平成十八年度版 電気車研究会
  • 井上廣和・藤原進 共著 カラーブックス909『日本の私鉄 京阪』1999年、保育社
  • 原口隆之著 JTBキャンブックス『日本の路面電車III』2000年、JTB
  • 宮脇俊三・原田勝正編集『全線全駅鉄道の旅 別巻2 大阪・神戸・京都・福岡の私鉄』1991年、小学館