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[[Category:2022年没]]{{DEFAULTSORT:のしま みのる}}'''野島 稔'''(のじま みのる、英:Minoru Nojima、[[1945年]]〈昭和20年〉[[5月23日]]<ref>{{Wayback|date=20220429100303|url=https://kotobank.jp/word/%E9%87%8E%E5%B3%B6%E7%A8%94-1100150}}</ref> - [[[2022年]]〈令和4年〉[[5月9日]])は[[日本]]の[[ピアノ]]奏者。
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2022年5月11日 (水) 05:25時点における最新版

野島 稔(のじま みのる、英:Minoru Nojima、1945年〈昭和20年〉5月23日[1] - 2022年〈令和4年〉5月9日[2])は日本ピアノ奏者。

神奈川県横須賀市出身。3歳の頃からピアノを井口愛子に師事。10歳でNHK交響楽団と共演するほどの上達を見せた[3]。桐朋学園高等学校在学中の1963年に日本音楽コンクールで優勝し、桐朋学園大学に進学したが、1966年に中退し、ソビエト文化省の招きに応じてモスクワ音楽院に留学。レフ・オボーリンの薫陶を受けながらモスクワやレニングラードなどのソ連の主要都市でコンサートを開いた。1969年にヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクールで2位入賞。翌年にはカーネギー・ホールでリサイタルを開いて国際的な名声を確立。またアメリカではコンスタンス・キーンやアブラム・チェイシンズの各氏の薫陶も受けた[4]。2011年から東京音楽大学の学長を務めた。

肺がんに罹患し、東京都江東区の病院で死去。[5]

脚注[編集]

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