武藤山治

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武藤 山治(むとう さんじ、1867年4月5日慶応3年3月1日) - 1934年昭和9年)3月10日)は、日本実業家政治家。鐘紡社長、時事新報社社長などを務めた。

来歴・人物

  • 美濃国安八郡今尾村(現岐阜県海津市)出身。生誕地は母親の実家の尾張国海西郡弥富村(現愛知県弥富市)である。本名は佐久間山治。
  • 1880年(明治13年)に慶應義塾大学卒業。1885年(明治18年)より3年間アメリカに留学し、帰国後に武藤山治に改名、新聞広告扱い所を興す。
  • 三井銀行を経て、1894年(明治27年)に鐘淵紡績に入社。業績悪化の鐘淵紡績を復興するために外資を導入するなどの再建を行いう。
  • 1921年(大正10年)に社長に就任。国内有数の企業に育てる。家族主義的な経営で従業員の福利厚生を重視し、待遇改善に努めた。福利厚生には、社内に乳児保育所や共済組合を設置している。また、中小業者と結んで営業税の廃止を求める営業税反対運動にも参加している。
  • 1923年大正12年)、政界浄化による階級闘争防止と経済的自由主義に基づく“安価な政府”実現を目指すべく「実業同志会」を結成、会長となる。1924年(大正13年)、衆議院議員に当選。
  • 1930年(昭和5年)、鐘紡社長を辞任。
  • 1932年(昭和7年)、政界を引退。福澤諭吉が創刊した時事新報の社長になる。
  • 1934年(昭和9年)、「番町会を暴く」の記事を執筆。鋭い記事は大きな波紋を呼んだという。その中で帝人事件の疑惑を報道する。その直後、鎌倉(当時大船町)の別邸近くでテロにより死去。一説には犯人・福島新吉の政策案を武藤が盗用し、その和解金をめぐるいざこざがあったと言われるが、福島はその場で自殺したため、その動機は不明である。

ちなみに息子・武藤絲治も同様に鐘紡社長を務めた。

旧武藤邸

旧武藤山治邸は、1907年(明治40年)に舞子浜に建てられた、木造2階建コロニアル様式の住宅である。設計は、当時横河工務所に在籍していた大熊喜邦(後に帝国議会議事堂を始めとする多くの官庁建築を主導)が担当した。もとは、西洋館と和館が並立しており、特に西洋館は、地域のランドマークとして親しまれていた。

武藤山治の没後、1937年(昭和12年)に武藤家から鐘紡に寄贈され、社員の厚生施設「鐘紡舞子倶楽部」として利用されていた。しかし、明石海峡大橋建設に伴う国道2号の拡幅工事のため、1995年(平成7年)に西洋館のみが現在の狩口台7丁目に移築された。

2007年(平成19年)3月に、兵庫県は、建物とともに家具・絵画及び蔵書等調度品についてカネボウより寄贈を受けた。建物は、外観は移築時に一部新材にて再現されているものの、内部の仕上げ材や家具調度品は往時のまま保存されており、明治期の西洋館の住宅形式や生活様式を窺うことができる貴重な建物である。

2008年に舞子公園内に移築工事が行われている。近隣には移情閣(国の重要文化財)や旧木下家住宅(登録有形文化財)、舞子ホテル(旧日下部邸)などの歴史的建造物が集積している。

関連項目

外部リンク