本土決戦

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本土決戦(ほんどけっせん)とは、大東亜戦争において想定された戦闘の1つで、日本本土における陸上戦闘を意味する。アメリカ軍は1945年秋以降に「ダウンフォール作戦」として実施を予定し、日本軍は「決号作戦」と称する防衛作戦を計画していた。また、ソ連軍による北海道や東北地方での陸上戦闘の可能性も含まれる。

原爆投下とソ連対日参戦により、1945年8月に日本がポツダム宣言を受諾したため、本土決戦は行われることがなかった。

背景

日本政府大本営が「日米の天王山」と呼号して全力を注いだ比島決戦では、昭和20年(1945年)1月9日、米軍のルソン島リガエン湾上陸によって、フィリピンにおける日本軍の敗北がほぼ決定的なものとなり、同地の喪失と本土進攻は時間の問題となっていた。

また、潜水艦の攻撃による輸送船の不足に加え、マリアナ海戦レイテ沖海戦以後は制海制空権を共に奪われ、内地と外地の連絡網は完全に遮断され、撤退も増援も絶望的な状況に陥っていた。 一方、本土決戦のための準備は、日本本土空襲による爆撃で支障を受けつつも挙国一致体制のもと敢行された。しかし、金属石油などの軍需物資の不足が深刻化、航空機燃料用の松根油の生産やコンクリート船の建造、さらには和紙製の航空機さえ作られていた。

本土決戦の準備

大本営は検討の結果、連合軍の本土侵攻を遅延させ、その間本土の作戦準備態勢を確立するために『帝國陸海軍作戦計画大網』を1945年1月20日に定め、本土決戦への準備が進められていくことになる。この作戦計画は、「前縁地帯」つまり千島列島、小笠原諸島、南西諸島の沖縄本島以南、台湾などの地域に米軍が侵攻してきた場合、出来る限り抗戦して敵の出血を図りつつ、軍備を整え、日本本土で大決戦を行うという海軍漸減迎撃戦略(凡庸艦である駆逐艦や潜水艦、航空隊で敵艦隊にダメージを与えつつ、日本近海に引き付け、艦隊決戦を行い勝敗を決するという大艦巨砲主義の戦略)が採用された。ちなみに、この計画大網で同時に立案された海軍案も裁可され、これは天号作戦(千島・小笠原・沖縄以南の南西諸島・台湾が対象地域の作戦)と呼称されている。

陸軍

指揮系統の一新

1945年1月22日、既に沖縄戦前に解体されていた北方軍台湾軍に加えて、1944年より本土防衛の総指揮を執っていた防衛総司令部の隷下にあった東部軍中部軍西部軍、及び朝鮮軍を廃止して、新たに方面軍軍管区を新設した。これによって、作戦と軍政の分離を行い、本土決戦における指揮系統の明確化を図った。防衛総司令部はこれまでと同様に、直接部隊として東京防衛のための第36軍第6航空軍を指揮下に置いていた。

さらに4月8日、指揮の円滑化を図るため、防衛総司令部は第1総軍第2総軍に分割された。両総軍の指揮範囲は鈴鹿山脈を境界としていた。また、航空戦力の一元運用のため、航空総軍が新設された。この際に、第36軍は第12方面軍隷下になり、第6航空軍は航空総軍の隷下となった。

これら一連の新指揮系統の確立の結果を以下に示す。

本土決戦の際は、各方面軍が独立性を維持しつつ、迎撃・防衛にあたることとし、決戦準備に関する『決戦作戦準備要綱』を示達した。

兵力の配備

1944年マリアナ諸島を喪失した頃、陸軍の総兵力はおよそ400万人であったが、そのうち、日本本土にあったのは、東部、中部、西部の各軍を合わせても約45万6千人で、総兵力のわずか11%に過ぎず、本土決戦を行うには兵力が不足していた。北海道千島樺太小笠原諸島南西諸島本土周辺部、軍学校などのおよそ41万2千人、航空部隊、船舶部隊などの人員約45万3千人を合わせても132万1千人であり、総兵力の3分の1程度に過ぎなかった。

兵力の欠乏を補うため、軍事上の要望と国民の権利を調整するために、『軍事特別措置法』が施行され、船舶港湾などの一元的運営、地方行政組織の臨戦化も図られた。

人的にも、国家総武装ということで『義勇兵役法』が6月に公布され、男子は15歳から60歳(当時の男子平均寿命46.9歳)、女子17歳から40歳までが召集された。(対象年齢者以外の者も志願すれば、戦闘隊に参加することが可能で、それ以外の者は戦闘予測地域からの退避が予定されていた。)これら一連の動員は根こそぎ動員と呼ばれた。

根こそぎ動員は、大きく3回に分けて実施された。1945年2月28日に臨時動員が下令された第1次兵備4月2日6日にかけて臨時動員が下令された第2次兵備5月23日に動員下令された第3次兵備である。日本軍は、米軍が本土に侵攻してくる時期を1945年秋と予測していた。当時の敵情分析をした書類には、

わが本土攻略開始時期、方面及び規模などはなお予断を許さないが、わが、空海武力の打倒、空海基地の推進、日満支の生産及び交通の徹底的に破壊などにより戦争遂行能力の打倒し、大陸と本土との兵力機動を遮断し、そのうえ、十分な陸兵を集中指向を整えたのち、決行するのが至当な順序であろう。その時期は今後の情況により変化するが、本年秋以降は特に警戒を要するものと思考する[1]

とされており、米軍の日本本土侵攻のスケジュールとほぼ一致していた。

これらの動員によって、一般師団40個、独立混成旅団22個など約150万人近くが動員された。日本軍は、前述の時期を念頭に部隊の編成を実施した。しかし、期間や物資の制限から最終的には、兵力や装備が不足していても、編成が完結したと見なす方針が取られた。そのため、これらの師団は結局中途半端な人員・装備のままで配備されていった。加えて満州や北方からの転用された部隊も、逐次同様に本土に配備された。

海軍

海軍でも同じ時期に、海軍総隊司令部を創設し、南東方面艦隊及び南西方面艦隊を除いた、海軍の全部隊を統一指揮することになった。初代の海軍総隊司令長官には豊田副武大将、ついで小沢治三郎中将が任命された。

準備の経過

米軍1945年4月に沖縄侵攻(沖縄戦)を開始、6月には沖縄を掌握して日本本土に刃を突きつける形になった。アメリカ軍は日本の早期降伏を狙い、機雷潜水艦による日本本土の海上封鎖、爆撃機による都市空襲を行ったものの、それらの降伏意思に対する効果は不明確であり、本土上陸を果たし、東京占領によって戦争終結を目指すことが計画された。

一方、日本政府はスイスソ連などを通じて、天皇制の維持や軍備の保持など主目的とする「国体の護持」を掲げた戦争終結工作を行ってはいたが、はかばかしい結果を生み出さなかったためにけっきょく戦争継続方針が採用され、なし崩し的に日本本土における戦闘を計画することとなった。

1945年7月26日に連合国からポツダム宣言が出されるが、日本はこれを黙殺する。しかしその後、原爆投下とソ連軍の参戦によって日本政府はついに降伏を決意し、8月14日に宣言の正式受諾を連合国に通告する。翌15日にはそれが発表され、9月2日に降伏文書が調印された。これによって本土決戦は想定や計画だけに終わる結果となった。

日本軍の作戦

詳細は決号作戦を参照 千島から九州まで、日本全土において防御陣地の構築や根こそぎ動員による戦闘要員の確保する。特に陣地構築が多かった地区は九州と関東である。軍人のほかに地元住民なども動員して、塹壕や飛行場の構築が行われた。

航空攻撃については夜間雷爆撃を主とする通常攻撃も含まれていたが、特攻が主体になると考えられていた。

このような日本列島を舞台とした作戦の他、本土中央山地で抵抗している間に大本営を満州に移し、約百万の陸軍部隊で抗戦する計画があり、これはソ連参戦によって不可能になったともされる。

アメリカ軍の作戦

詳細はダウンフォール作戦を参照

1945年11月に、オリンピック作戦 (Operation Olympic) を行い、九州南部に上陸、飛行場を確保する。その後、確保した飛行場を使用して作戦を展開し、1946年3月にコロネット作戦 (Operation Coronet) として関東地方へ上陸、東京を占領する。

ソ連軍の動向

ソ連は1945年8月8日に日本に宣戦し、翌9日未明、満州と千島・樺太に侵攻している(ソ連対日参戦)。スターリンは北海道の北半分の占領をアメリカに要求しており、実際に1945年8月後半には軍へ北海道上陸の準備命令を出していた。


仮定と想像

米軍側には沖縄戦の時点よりもさらに国内生産力や国民の後方支援意欲が低下している状況などから分析して、沖縄戦よりも小さい犠牲で戦闘終結に持っていけると楽観視する向きもあった。陸軍兵力の大規模動員の継続はアメリカにとっても大きな負担であり、また陸戦を任せることのできる同盟国が極東に存在せず、ソ連にそれを期待すれば日本との単独講和などの不確定要素が飛び出しかねない、という不安材料もあった。

ポツダム宣言受諾を連合国に通告した当日でさえ、本土決戦を主張する一部青年将校が存在を誇示していた(宮城事件参照)が、彼らの意見は勝利や有利な講和に繋げる為というより、単に交戦継続それ自体が目的となった言説であった。

当時の昭和天皇は、ポツダム宣言受諾の是非を巡る御前会議の席上で、本土決戦に及べば徒に国土を荒廃させるのみならず、日本自体が消滅してしまう事になりかねないと述べ、降伏の決断を下した。この時の天皇の意見は終戦の詔勅として文書化され、天皇自らの声で国民に伝えられた。

現代

現代日本の陸上自衛隊は、日本国外に戦力を展開する能力を持たず、その装備や運用は主に侵略側が国内に上陸してきた場合を想定している。

東西冷戦下の国防戦略では、「敵軍(主に極東ソ連軍)が、米軍への対策をせず、海上優勢や航空優勢を確立しない状態で北海道や新潟に侵攻してくる」という状況を想定していた。自衛隊はこれに対して陸海空の共同でこれを迎撃、遅滞戦闘などで敵を消耗させつつ米軍の軍事支援実施まで持ち堪えるとされており、この考えに準じた能力の整備を行ってきた。支援開始後の状況は設定されておらず、民間人の存在とそれに対する対応に関しても、「重視しない」という想定となっていた。

冷戦終結後の1990年代から朝鮮半島やイスラーム世界が不穏な情勢となる等、世界情勢が大きく変化し、日米ガイドライン見直しが契機となって周辺事態法の制定、2000年にはリチャード・アーミテージ米国防副長官が対日外交の指針として作成した「アーミテージ・レポート」において日本に対して、有事法制の整備を要求する文言が盛り込まれた。これを契機に日本の政府与党は有事法制の整備に向けた検討を開始し、2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件、続いて同年12月21日には北朝鮮による九州南西海域工作船事件の発生が、有事法制整備が進む契機となり、武力攻撃事態法(武力攻撃事態等における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律)や国民保護法(武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律)が制定・施行された。これにより、本土決戦における民間人の存在及び対応に関する具体的な運用計画策定が始まったが、これには国や自治体等の行政機関から指定公共機関及び指定地方公共機関の緊密な連携や図上訓練の積み重ねが必須であるため、民間人の避難誘導については一層の検討・調整が求められている。

舞台設定としての本土決戦

本土決戦は、それが非常に激しい陸上戦闘を伴うと思われること、またその結果として20世紀後半の日本が分断国家となった可能性があったことから、SF小説などで舞台設定として用いられることがある。

本土決戦を題材とした作品

架空の日本も参照

脚注

  1. 戦史叢書『本土決戦準備<1>関東防衛,防衛庁防衛研修所戦史室著・朝雲新聞社

関連項目

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