巣鴨拘置所
巣鴨拘置所(すがもこうちしょ)(旧字体で巢鴨)は、かつて東京都豊島区巣鴨(現在の巣鴨とは異なる。旧西巣鴨町、現東池袋)に存在した拘置所。通称は「巣鴨プリズン」、「スガモプリズン」。現在の東京拘置所の前身にあたる。
概要
第二次世界大戦中の1944年には、ゾルゲ事件の主犯とされるリヒャルト・ゾルゲおよび尾崎秀実の死刑が執行された。彼らのほか、当時の同拘置所には主として共産主義者等のいわゆる思想犯や、反戦運動に関わった宗教家等が拘置されていた。
米軍管轄下のスガモプリズン
第二次大戦後にはGHQによって接収され、極東国際軍事裁判の被告人とされた戦犯容疑者を収容した。同裁判の判決により、東條英機ら7名を含む戦犯の死刑が執行されたことでも知られる。米軍は情報戦の一つとして、監房に盗聴装置を設置し、戦犯たちの会話を盗聴していた事が後年明かされている。
1947年2月、既決囚の労働が本格化し、A級戦犯・60歳以上の高齢者・病人以外は全て就労を命じられた。プリズン周辺の道路整備や運動場、農園、兵舎・将校用宿舎建設等の重労働を命じられ、午前と午後に1回ずつある5分の休憩と昼食時の休憩時にしか休めない。私物は一切禁止で、全て制服着用で行わなければならない。長い拘禁生活と裁判の疲労で体力の落ちた戦犯たちには重労働で「こんなことならいっそ死んでしまえばよかった」との声もあった。この重労働が2年続き、完成に至ると、戦犯たちは信頼を勝ち取り、減刑などの恩恵を受けた。新聞、雑誌、本などの閲覧、上野図書館からの借り出しも許可された。ラジオも定期聴取でき、映画も週に一回鑑賞出来た。
すがも新聞
1948年6月5日に創刊された獄中紙。巣鴨プリズンの労務担当だったビンセント中尉が新聞の発行を提案し、各階で1人づつ選ばれ、15人が担当する事になった。当時のスガモには、英語を初めとする外国語の堪能な人物が多かったことから、新聞は随時翻訳された。編集方針は「主義主張は特に無いが、民主主義を根本とし、左右いずれにも偏せず」とあり、占領政策批判・死刑囚・A級戦犯には抵触しないという条件だった。1952年3月29日までに全193号が発刊され、その紙面は翻訳班の手で英訳したうえで、発行前に検閲を受け、GHQやアメリカの国務省にも送付された。発行日は原則として土曜日だった。また、秋季運動会にて韓国旗などを揚げた事をクローズアップするなどして、朝鮮戦争で心を痛める朝鮮人や台湾人戦犯の葛藤を分かち合えた場とも言える。
巣鴨プリズンが日本へ移管された後には、『すがも』が1952年11月1日に活版で創刊されたが、10号で休刊となった。
現状
跡地はサンシャインシティとして再開発された。
処刑場周辺は建物が建てられず、豊島区立東池袋中央公園となり、慰霊碑「平和の碑」が建立されている。
略年表
- 1895年 - 警視廰監獄巢鴨支署が設置される。
- 1897年 - 巢鴨監獄と改称される。
- 1922年 - 巢鴨刑務所と改称される。
- 1937年 - 刑務所としての機能を府中刑務所に移管し、その後「巢鴨拘置所」と改称される。
- 1945年11月 - GHQに接収される。「スガモプリズン」と呼ばれる。
- 1948年12月23日 - 極東国際軍事裁判の死刑囚7名に対する絞首刑執行。皇太子明仁親王(現在の今上天皇)の誕生日を敢えて執行日に選んだとされる。
- 1952年4月1日 - 日本に移管され「巣鴨拘置所」と改称される。「スガモ・プリズンの営繕及び調達事務の管理に関する臨時措置令」が施行される。
- 1958年5月 - GHQから返還される。
- 1962年3月29日 - 巣鴨刑務所が廃止となる。
- 1966年11月1日 - 住居表示施行により、当地の町名が東池袋となる。
- 1971年3月20日 - 首都圏整備計画の一環として、葛飾区小菅の小菅拘置所を廃止し、同地に東京拘置所を移転する。
- 同年 - 建物が解体される。
- 1978年4月6日 - 拘置所跡地にサンシャインシティ開業。
- 1980年6月 - 平和の碑建立。
関連項目
- 戦争犯罪 - 日本の戦争犯罪 - A級戦犯 - BC級戦犯
- 極東国際軍事裁判 (別称・東京裁判の正式名称)
- 連合国軍占領下の日本
- 太平洋戦争(大東亜戦争)
- 白菊遺族会 - 戦犯者の遺族の会
- 世紀の遺書
- 私は貝になりたい - 加藤哲太郎
- 明日への遺言 - 岡田資