和田博雄
和田 博雄(わだ ひろお、1903年2月17日 - 1967年3月4日)は、埼玉県川越市出身の日本の政治家。第1次吉田内閣で農林大臣、片山内閣で経済安定本部総務長官、その後左派社会党政策審議会長・書記長、日本社会党政策審議会長・国際局長・副委員長を歴任する。
生い立ち
旧制中学校教員の息子として生まれる。父が岡山県の中学校に転任したため、尋常小学校から旧制高等学校(第六高等学校)までの学校教育を岡山県で受ける。その後、東京帝国大学法学部にすすみ、1925年に卒業。農林省に入省。一時、企画院調査官をつとめる。
企画院事件
和田が一時籍を置いた企画院は、戦争遂行のために経済統制をすすめる役所であり、かつて社会主義運動に参加した者が多い所だった。和田は経済統制の必要を感じていたが、彼自身は社会主義運動に参加したことはなかった。しかし、企画院の調査官たちは、経済統制を通じて日本の社会主義化を図ったとして1941年警察に検挙され、和田はその首謀者とされた(企画院事件)。この事件は、明らかに検察のでっち上げであり、敗戦直後の1945年9月に無罪判決がおりている。
国務大臣時代
無罪確定後、和田は農林省に復帰し、農政局長となる。1946年に首相に就任した吉田茂は社会党との連立に失敗したため、挙国一致内閣の体裁を整える必要があったためと、経済統制や農地改革の必要を感じていたため、左翼知識人に入閣を持ちかけていた。しかし、ことごとく断られた吉田は、和田を農林大臣に抜擢した。企画院事件での検挙歴のある和田の登用に、自由党内では反対の声があがったが、三木武吉が「和田農相を拒否して、吉田内閣をつぶした後に、GHQが社会党と共産党に連立を呼びかけたらどうする」と説いて、和田の農相就任を認めさせたのは有名な話である。和田は第2次農地改革を成功させ、吉田茂の信頼を勝ち取った。
1947年、総選挙で社会党が第一党となり片山哲が首相となると、吉田は片山に和田を推薦し、和田は片山内閣で経済安定本部総務長官に任命された。和田は都留重人らエコノミストを重用して、経済白書を作らせたり、石炭と鉄鋼を中心とする経済復興政策(傾斜生産方式)を推し進めた。
政治家として
1947年の第1回参議院議員通常選挙に全国区より当選。参議院議員となり、当初は緑風会に属した。しかし、1949年に社会党に入党した。社会党はそのころ、昭和電工疑獄事件により崩壊した片山内閣とその後を継いだ芦田内閣の不人気により落ち目になっていたが、和田は社会主義の時代が来ることを確信していた。当時、ドッジ・ラインにより日本はひどいデフレ状態になっており、自由主義経済が破綻することを予測する知識人は多かったのである。1951年、社会党が分裂すると、和田は左派社会党に属した。
左派社会党で和田は政策審議会長に就任し、MSAに対抗した政策プランを発表し、マスコミに注目され、新聞記者の中には和田ファンが出来た。1952年、旧岡山1区から立候補して、衆議院議員に当選し、1954年、左派社会党書記長に就任した。しかし、左派社会党委員長の鈴木茂三郎とは性格的に合わず、鈴木に対抗するために社会主義協会と手を組むようになり、次第に教条的な言動が多くなっていった。1955年の社会党再統一にも反対し、再統一直後の執行部では党7役からはずされた。
1957年、社会党政策審議会長に就任するが、翌年、全国購買農業協同組合連合会(全購連)から不正な政治献金を受け取ったとして、1年間の役員権停止処分を受け、政策審議会長を解任された。(全購連事件)
1960年代初頭、社会党で構造改革論が台頭すると、和田派はこぞって構造改革論支持にまわるが、構造改革論の旗手・江田三郎と和田はこのころ、関係を悪化させていた。左派社会党時代に、和田は江田に担がれ、社会タイムスの責任者とされ、莫大な借金を背負っており(このことを否定する説もある。詳細は社会タイムスの項目を参照のこと)、さらに江田が和田と同じ旧岡山1区から出馬の意欲を見せたことが原因だった。しかし、1961年、構造改革派の支持で社会党国際局長に選出される。
和田は先進国との社会民主主義政党との連携を深めて、社会党の現実主義化をはかろうとするが、このころから体力が衰え、和田から気力をも奪っていった。1964年、佐々木更三とともに社会党副委員長に選出され、翌年、河上丈太郎委員長が病気のため辞任すると、後継委員長のイスを勧められるが、和田はもはや社会党委員長から政権を狙う気力を失っており、佐々木に委員長の座を譲って、1967年、政界を引退した。
政界引退後、現代俳句協会総会に出席するため歩いている最中に、街路上で心筋梗塞のために、倒れ、急逝した。
評価
和田は社会党の政治家として異色の官僚出身者として党の内外から期待を集めたが、その能力を思うように発揮することは出来なかった。その責任はひとえに、和田の能力を生かしきれなかった社会党にあるが、社会党最大の実力者・鈴木茂三郎と良好な関係が築けなかったことも大きな原因であった。また、江田三郎との連携もうまくいかず、構造改革論争を利用して、党内で勢力を伸張させることも出来なかった。
最後まで官僚・学者臭を残し、政治家になりきれなかったのが、和田が政治家として大成出来なかった最大の理由と言える。
参考文献
- 大竹啓介『幻の花─和田博雄の生涯─』上下、楽游書房、1981年。
- 鈴木徹三「日本社会党と鈴木茂三郎」全3回『大原社会問題研究所雑誌』441~443号(1995年8~10月)。大竹の著書を鈴木派の立場から批判している。
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