佐野碩

提供: Yourpedia
移動: 案内検索

佐野 碩(さの せき、1905年 - 1966年)は、日本ロシアメキシコ演出家後藤新平の孫、佐野彪太の子。浦和高校時代から新劇の演出を行い、1925年、東京帝国大学入学後も移動演劇・トランク劇場などの活動を続け、演出家、プロレタリア演劇の演劇人として知られるようになった。治安維持法による逮捕の後、1931年に国外に脱出してソ連へ亡命。IRTB専任の書記局員としてモスクワ滞在を許可され、メイエルホリドの演出助手を務めたが、スターリン体制下の1937年にパリへ追放され、米国滞在を経て、1939年にメキシコへ渡航。同地でも舞台演出を手掛けた。

経歴

1905年生まれ[1]佐野彪太・静子夫妻の間に、長男として生まれる[1]後藤新平の初孫にあたる[1]

幼少期に結核性関節炎を患い、右足に障害が残って、ステッキを用いていた[1]

全寮制の浦和高校に入学し、劇研究会を結成。作曲や演出もこなし、新劇の上演に没頭した。[1]

関東大震災の後、実家が被災して東京の後藤新平邸に寄寓。佐野も浦和から合流し、自家用車を運転して物資を運び、上野の森に避難していた佐野病院の入院患者の世話をした。[1]

1925年、東京帝国大学法学部に入学。移動演劇・トランク劇場などの活動を続け、独創的な演出家左翼の演劇人として知られるようになった。[2]

1929年、同志で女優の平野郁子(本名・高橋二三子)と結婚[2]

治安維持法違反容疑により逮捕される。

1931年5月、再逮捕の危険が迫ったため、妻を佐野家に残して米国航路で国外に脱出[2]。 米国からドイツへ渡り、ソ連に入国[3]IRTB(モルト、国際革命演劇同盟)専任の書記局員として滞在を許可され、生活費を支給されて、モスクワに定住した[3]

1933年、モルトの局員・ガリーナ・ヴィクトロヴナ・ボリソワと同居し、日本にいる妻・二三子に離婚の意思を伝えた[3]。ガリーナとの間には娘・リーシャが誕生した[3]

1933年に国立メイエルホリド劇場の研究員となり、演出家・メイエルホリドの演出助手を務めた[3]

その後、スターリン体制でメイエルホリドに対して、形式主義審美主義シンポリズムだとの批判が強まり、1937年夏に、妻・娘をモスクワに残し、土方与志とともにパリへ追放された[3]

佐野は米国渡航を希望したが、日本の外務省に阻止され、米国のビザ発給が遅れた[4]

1938年7月、モスクワにいた娘・リーシャが死去[5]

同年9月、ル・アーブルからの航路でニューヨークに到着するが、外務省から連絡を受けていた米当局によりエリス島連邦移民収容所に拘留される[5]

  • 抑留中に、同地に滞在していた鶴見祐輔に協力を要請したが、前向きな回答は得られなかった[5]

同年10月、石垣栄太郎綾子夫妻らの手配により、米国上陸を許可され、滞在期限の6ヵ月間、ニューヨークに滞在し、翌1939年4月にメキシコへ渡航した[6]

メキシコ渡航後、最初の仕事で、アメリカ人の舞踏家・ウォルディーンが振付をしたモダンバレエの舞台・ラ・コロネラで、コーラスと演技の指導をした[7]

その後、ウォルディーンと結婚[8]

1958年 - 1960年頃、世界放浪の旅の途中でメキシコに滞在した小田実と会う[9]

1966年、メキシコで没。満61歳。[10]

家族

付録

関連文献

  • 岡村 (2009) 岡村春彦『自由人佐野碩の生涯』岩波書店、2009年、ISBN 978-4000234665
  • 石垣 (1981) 石垣綾子「ある亡命者の生涯 - 佐野碩のこと」岩波書店『世界』No.425、1981年4月、pp.284-295、NDLJP 3366981/151 (閉)
  • 鶴見 (1975) 鶴見俊輔「佐野碩のこと - メキシコ・ノート」筑摩書房『展望』No.196、1975年4月、pp.130-135、NDLJP 1795716/68 (閉)

脚注

参考文献