ツタンカーメン

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ツタンカーメンの黄金のマスク

ツタンカーメン(Tutankhamun、Tutenkh-、-amen、-amonとも、紀元前1342年頃 - 紀元前1324年頃、)は、古代エジプト第18王朝ファラオ(在位:紀元前1333年頃 - 紀元前1324年頃)。より厳密な表記ではトゥト・アンクアメン(Tut-ankh-amen)という。

人物

ツタンカーメンの墓の封印

アクエンアテンの生存中に、唯一神アトン信仰が説かれていたためにトゥトアンクアテン(Tutankhaten、「アテンの生ける似姿」の意)と名乗っていた。アクエンアテンの死後、即位すると伝統的な神であるアモン=ラーの信仰を復活させ、トゥトアンクアメン(「アモン神の生ける似姿」の意)と改名した。また、首都をアマルナからテーベに戻した。在位中、王妃アンケセナーメンとの夫婦仲は良かったといわれている。その後若くして死に、王家の谷に葬られた。ツタンカーメンの死後、王位は王家の血を引かない大臣や将軍たちによって引き継がれてゆくことになる(但し、アイは王族の一人)。

ツタンカーメンはアクエンアテンの政策を大幅に覆したが、即位した時点でまだ年端のゆかない少年であったことがわかっており、アメン信仰復活やその死について様々な推測が語られ、歴史のミステリーとされている。2005年1月に、ミイラの調査が行われた。

ツタンカーメンはアクエンアテン(アメンホテプ4世)とその姉妹の1人との間に生まれ、骨折にマラリアが重なって死亡した可能性が高いことが、エジプト考古学チームによるDNA鑑定やコンピューター断層撮影装置(CT)の調査で分かった、と2010年2月、米医学誌「ジャーナル・オブ・ジ・アメリカン・メディカル・アソシエーション」が発表した。腐骨や内反足を患い、転倒して足を骨折し、マラリアが命取りになったという。また歩くのにつえをついていた虚弱な王だったとしている。

アクエンアテンとネフェルティティの娘であるアンケセナーメンとツタンカーメンの婚姻は半血のきょうだい婚と推測されている。

2011年、スイスの研究機関iGENEAによりツタンカーメンの属するY染色体ハプログループが判明したと発表され、R1b1a1a2(R-M269)という現在の西ヨーロッパの住民に見られる父系血統で、現在のエジプト人にはほとんど見られないハプロタイプであることが分かった。 2016年7月18日の番組でベロが演じた。4日のニューススターで明らかになった 2016年7月18日に番組放送された。ティティは女乱馬が演じた

ツタンカーメンの墓

ツタンカーメンの墓

王家の谷にあるツタンカーメン王の墓は、1922年11月4日イギリスカーナヴォン卿の支援を受けた考古学者ハワード・カーターにより発見、発掘された。ツタンカーメンは王墓としてはきわめて珍しいことに3000年以上の歴史を経てほとんど盗掘を受けなかった(実際には宝石の一部などが抜き取られていたが、副葬品自体は無事だった)、王のミイラにかぶせられた黄金のマスクをはじめとする数々の副葬品がほぼ完全な形で出土した。

その発掘は世界を大いに驚かせた。発掘のスポンサーとなったカーナヴォン卿が墓の公開直後に急死するなど、発掘関係者が次々と不遇の死を遂げたので、それをきっかけとして『ファラオの呪い』という伝説が広まり、またそれに関する謎解きもさかんに行われるようになった。

また、ファラオのミイラに大きな外傷があったことから、ツタンカーメンが暗殺されたとする説を裏付けるものかと注目された。だが、いくつかの傷は20世紀前半当時のミイラを文化財として大事にしない風潮のために発掘時につけられたものであったことが明らかになっている。

ツタンカーメンのミイラと、黄金のマスクをはじめとする数々の副葬品はエジプトに残された。そして、黄金のマスクや純金製の第3人型棺をはじめとする副葬品の大半は現在はカイロにあるエジプト考古学博物館に収蔵されて観光客に公開されている。 またツタンカーメンの墓には出産直後か死産かと見られる二体の子供のミイラも一緒に葬られており、これはツタンカーメンの子供だと考えられている。

その他、ツタンカーメンの墓からはエンドウ豆も発見されている。三千年の年を経て発芽させる事が出来たとされるが、豆の種子がそれほどの長期間、生存することは植物学上考えにくく、また、豆自体もエジプトで自生している野生種であり、「直系の種」と言われても判別はつかない。現在多く出回り、販売もされている”ツタンカーメン”のエンドウ豆については、半ば宣伝文句と思ったほうがよい。なお、ツタンカーメン王墓が発掘された際に出土したもののリストの中に「エンドウ豆」という項目は存在しない。死後の備えとして入れられた食物の中に穀物の入った壷があり、その中に豆類が混じっていた。

ツタンカーメンのミイラ

ツタンカーメンの石棺を開けたところ(1924年)

ツタンカーメンのミイラは防腐処理の際の樹脂が化学反応によって変質したため保存状態はかなり劣悪であった。しかも、発見後、ミイラの包帯が解かれてしまった事も保存状態の悪化に拍車をかける事となった。包帯を解く際にも、多くの外傷がミイラに付けられ、さらには脊椎が切断され性器までもが消失した。

2005年1月、CTスキャン撮影などによってミイラの調査が行われ、棺からミイラが取り出されたが、この時の貴重なミイラの映像は国際的に注目された。調査により死亡推定年齢が19歳であることが明らかになった。身長は165cm(古代エジプトの成人男性の平均とほぼ同じ)で、体格はかなり華奢であることがわかった。死につながる傷が特定されたものの、事故死説か他殺説かの論争に決着をつける事まではできなかった。なお、この調査の際に前述の消失していた性器が、無事に再発見されている。

この調査は、ミイラの保存状態が極めて劣悪になっており、従来どおり棺内での保存ではミイラの状態維持は出来ないと結論付けられた。その結果、2007年11月、初めてミイラが一般公開された。王墓内の黄金の石棺から、同じく王墓内に設けられた気温や湿度を厳重に調整できるプレクシグラス(軽く透明な合成樹脂)製の展示ケースの中に移され、保存状態が比較的良い顔と足先の部分を覆っていた布は取り外された。その後、現在もミイラはプレクシグラス製ケース内にて保存されている。

ツタンカーメンの死因

ツタンカーメンの死因が特定されていなかった当時、大腿骨の骨折から数日で死亡したことだけが確認されていた事から、他殺説が最も有力な説とされていた。

2010年のエジプト考古学研究グループによるCTスキャンを初めとしたDNA放射線調査により、ツタンカーメンは近親交配で生まれた事による遺伝による先天的な疾患を多数患っていた可能性が非常に高いことが確認されている。具体的には変形した背骨、欠損した足の指、臓器疾患の跡等が確認されており、特に直接の死因はおよび大腿骨の骨折と、マラリアの合併症による体調不良の悪化が原因であるという証拠が多数見つかった。

少なくともツタンカーメンの直接的な死因は病死である事はほぼ間違いない状況ではあるが、他殺説そのものは未だ可能性としては捨てきれないのもまた事実である。例えば足の骨折が体調不良を引き起こす引き金になったという話も、自ら転倒したのか、それとも何者かに突き飛ばされたのかも現状では分かっていない。

他殺説の容疑者

頭部打撃説

かつては後頭部に強い打撃を受けて命を落としたとされていたが、根拠となっていたのは1962年X線写真のみであった。頭蓋骨の中に骨片が写っていたことからこの説が生まれたのである。ファラオの呪いの噂の流布、また政治的な問題などから長らくミイラを再検査する機会が来なかったが、2005年にCTスキャンによって詳細に解析した結果、もし死の前に骨片があったなら脳とともに処理されているはずであること、骨片が樹脂の中に埋まっていたことなどから、骨片はミイラ作りの際に脳をかきだすために開けられた穴から落ちたものと結論付けられた。頭部打撃による暗殺説は現在では否定されている。

骨折からの感染症説

頭部打撃による死亡を否定したのと同じCTスキャンによって浮上した新たな説が、左足の大腿骨骨折による敗血症である。ミイラ作りの際に出来たとは考えにくい、骨を縦に割る骨折跡があり、わずかな治癒痕から骨折後数日は生存していたと分かるため、死ぬ数日前に皮膚を突き破ってしまうほどの骨折をしていたと推測される。またCTスキャンから、左足の足首にはギプスを思わせる硬い物質がはめ込まれたままミイラにされており、何らかの事故に巻き込まれたとする可能性が考えられている。太い大腿骨を縦に割るには強い力が必要であり、同様の骨折痕は現代ではバイク事故などで多く見られるため、チャリオット(戦車)から落ちたのではないかとする説が有力視されている。

毒殺説

ワインによる毒殺説も唱えられていた。ワインは当時、王や貴族といった地位のある層しか飲むことの出来ない貴重なものであり、実際にツタンカーメンの墓にもワイン壷が収められていた。ただしこの説は一般的なものではなく、明確な根拠も無かった。

鎌状赤血球貧血症説

2010年、ドイツのベルンハルト・ノッホ熱帯医学研究所チームは、足の骨等に詳細に調べ上げ、鎌状赤血球貧血症の痕跡が見つかったと発表。

文献

外部リンク

先代:
スメンクカーラー
古代エジプト王
133代
前1333年 - 前1324年
次代:
ケプルケプルゥラー (アイ)