ハッテン場
ハッテン場(はってんば)とは、女性お断りの男性限定の社交場のことであり、英語で言う「アソシエーション (association)」、フランス語で言う「アソシアシオン(association)」、すなわち地縁・血縁にこだわらずに育成された協同体の一つである。
ハッテンの語源
「ハッテン場」の「ハッテン」を「発展」と理解している向きが多いが、それは誤解である。「クラブ(倶楽部)」や「カタログ(型録)」がそれぞれ'club'や'catalog'の音をそのまま漢字化したのと同じく、もともとハッテンとはイギリスの男性名から採られたものである。ルイス・フランシス・アルバート・ビクター・ニコラス・マウントハッテン卿(Sir Louis Francis Albert Victor Nicholas Mounthatten、1900~1979、正しくはMounthattenはマンサッテンと発音する)、この人物が「ハッテン場」をはじめた人物である。(by民明書房)ちなみにマウントハッテン卿は、日本では「ハッテン卿」として親しまれており、こちらの方が一般的な表記であるため以下ハッテン卿と記述する。
ハッテン卿の来日
ハッテン卿が、駐日英国大使つきの武官として日本を訪れたのは、二・二六事件が収まってしばらくした1937年(昭和12年)の春のことである。世情は不安定で、人々の気持ちに暗い影が差し、鬱屈とした気持ちを飲み屋で晴らす、こうした日本の社交のあり方に、ハッテン卿は不満を覚えていた。特にバーやカフェの女給さんに惚れ込んで、「いっそ、小田急で逃げましょか」と刹那的な人生からの逃避を行う、日本の男性のあり方に大いに疑問を持ったのである。
イギリスでは、オックスフォード大学、ケンブリッジ大学などの大学の同窓生の団体、あるいはそれに付属するスポーツ団体、軍隊の仲間を中心に作られた親睦団体などが山のようにある。ロンドンにあるこれらの社交場は、人と会ったり、飲食をしたりする場となっているだけでなく、情報交換の場所ともなっているのである。ハッテン卿は、日本にもこうした仕事の場でも、自宅でもない、第三の場が必要だと考えたのである。もちろん、日本によくあるようなゲイシャ・ガールズを招いてどんちゃんするようなものではなく、女性の立ち入りを受け付けない場所として、伝統的なイギリスのクラブに見られる男性中心のものとして、彼は「ハッテン場」を想定していたのである。
「ハッテン」クラブの完成
かくして、ハッテン卿の肝煎りで1938年(昭和13年)銀座コリドー街で開店したのが「ハッテン」クラブである。すでに銀座には福沢諭吉以来の交詢社が倶楽部の雄として名を馳せていたが、「ハッテン」のクラブは英国流をそのまま踏襲したものであり、女性を徹底的に排除したことで世間の耳目を集めた。ハッテン卿がオーナーとなり、各界の名士を招いた開店パーティーは、大変な盛況で、薔薇の花を惜しげもなく使った会場の雰囲気は、日中戦争がすでに泥沼化している時期のものとは思われなかったという。
「優雅でなく、エレガンスでなく、品位のない者はこの店に入れさせない」。これがハッテン卿のモットーであった。
しかしさすがに翌1939年(昭和14年)になると、欧州大戦の危機が迫り、ハッテン卿は英国政府によって召還され、「ハッテン」の経営は他の者に委ねられることになったのである。
戦後のハッテン
太平洋戦争の始まりとともに、「ハッテン」クラブの再興は事実上不可能になった。多くの若い男性が兵隊にとられ、降り続く焼夷弾の雨は銀座の街を焼き焦がした。コリドー街も例外でなく、ハッテン卿の愛した品々は競売にかけられただけでなく、罹災し離散したのである。やがて終戦を迎えた「ハッテン」に昔日の面影はなかった。イギリス流の社交を愛する者などもはや残っておらず、高い格式を誇ったクラブ「ハッテン」も、カストリ焼酎が出回り、パンパンが米軍兵士と戯れるような、品の悪い店へと淪落していったのである。
しかし、辛酸を舐めつつ戦地から戻ってきた若い復員兵たちは、「ハッテン」開店の時の、薔薇のパフォーマンスを覚えていた。戦地でともに戦った戦友たち、彼らとの旧交を温めたいとの思惑から、有志が集まり、みごとここに「ハッテン」が復活したのである。1952年(昭和27年)の冬のことであった。この「ハッテン」再建のパーティーには後の美輪明宏も17歳で参加し、自慢のシャンソンを披露したようである。やがてこの店は「クラブ」ではなく「バー」とも呼ばれるようになり、「ハッテン」の「バー」ということで「ハッテンバー」→「ハッテン場」→「発展場」と呼ばれるようになったようである。
ハッテン卿の再来日とその死
ハッテンの人気は高度成長期も継続し、衰えを見せることはなかったが、東京中央区「銀座」の街の名が、他の馬の骨とも知れぬ地方のさびれた商店街に「○○銀座」と安っぽくつけられたのと同じように、格式を誇るはずの「ハッテン」の名前も、いつしか気安さから、適当な店にポンポンとつけられるようになったのである。新宿二丁目のたまり場にも「ハッテン」、上野駅前のいかがわしい店にも「ハッテン」、挙句は怪しげな男たちがサカる公園にも「ハッテン」と名づけられ、著しく俗化してしまったのである。そこへ折悪しく1979年に、40年ぶりにハッテン卿が日本の土を踏んだのである。ハッテン卿は思い出のクラブを訪問できることを心から喜んでいたが、何かの手違いで、某街のいかがわしい「ハッテン場」に連れて行かれてしまったのである。事情を知らないハッテン卿は、その下品ないでたちと、エロエロ満点さのサービスと、目の前で繰り広げられる痴態に仰天し、「これがわしの店か・・・・」の言葉を最後に心臓発作で亡くなってしまったのである。享年79歳。さすがにこの事を聞いた銀座の本店もハッテン卿に申し訳ないとの思いから、1980年を最後に店の歴史に幕を下ろしたのである。
今日のハッテン場
だから今日、ホモの一部が行っているハッテン場はハッテン卿とは関係ないようだが、それはそれ、無念のハッテン卿の魂はまだこの世をさまよっているはずである。男同士の肉弾がぶつかり合う夜の公園で、ハッテン卿は草葉の陰で泣いているに違いない。ハッテン卿が亡くなって数年後、ホモいじめの犯行が見られるようにもなっており、ハッテン場に集まるホモが強盗事件の餌食になったり、ホモを狙った暴力事件もしばしば起きている。例えば、ハッテン場として知られている公園などで相手を探している意思表示のため全裸で歩いているところを少年に襲撃され現金を奪われるといった「ホモ狩り」事件[1]や、撲殺による殺人事件[2]も発生している。1998年に東京・世田谷区の芦花公園で男性同性愛者が左大腿部をナイフで刺されて死亡した事件[3]は犯人が逮捕され一応の解決を見たが、強盗殺人より罪状の軽い暴走族同士の抗争における「人違い殺人」として処理された。
男性同性愛者を襲うこれらの犯罪は、過去に男女のカップルが夜の公園などで強盗事件や殺人事件の被害者となり、「アベック殺人」などと呼ばれたのと似ている。
だから、ハァ、ハァ…とかアッー!とか見境なくいってんじゃねぇぞゴルァ。
出典
関連項目
このページはアンサイクロペディアの記事・ハッテン場を利用しています。 |