ロシア革命

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演説するレーニン
1930年代スターリン時代の検閲により写真はカットされている。本来右半分にはトロツキーカーメネフの姿があった。

ロシア革命(ロシアかくめい;ロシア語:Русская революцияルースカヤ・リヴァリューツィヤ)とは、1917年ロシア帝国で起きた2度の革命のことを指す名称である。特に、史上最初の社会主義国家樹立につながった十月革命を指す場合もある。逆に、広義には1905年ロシア第一革命もロシア革命に含められる。

なお、「二月革命」、「十月革命」は当時ロシアで用いられていたユリウス暦における革命勃発日を基にしており、現在一般的に用いられるグレゴリオ暦ではそれぞれ「三月革命」、「十一月革命」となる。この項目で使用されている月日は1918年2月14日のグレゴリオ暦導入までの事柄についてはユリウス暦による月日で表記しており、13日を加算するとグレオリオ暦の月日に換算できる。

経緯

前史

ロシアでは1861年農奴解放以後も農民の生活向上は緩やかで、封建的な社会体制に対する不満が継続的に存在していた。また、19世紀末以降の産業革命により工業労働者が増加し、社会主義勢力の影響が浸透していた。これに対し、ロマノフ朝絶対専制ツァーリズム)を維持する政府は社会の変化に対し有効な対策を講じることができないでいた。1881年には皇帝アレクサンドル2世が暗殺されるなどテロも頻繁に発生していた。

日露戦争での苦戦が続く1905年には首都サンクトペテルブルクで生活の困窮をツァーリに訴える労働者の請願デモに対し軍隊が発砲し多数の死者を出した(血の日曜日事件)。この事件を機に労働者や兵士の間で革命運動が活発化し、全国各地の都市でソヴィエト(労兵協議会)が結成された。また、黒海艦隊では「血の日曜日事件」の影響を受け戦艦ポチョムキン・タヴリーチェスキー公ウクライナ人水兵らが反乱を起こしたが、他艦により鎮圧された。同艦に呼応した戦艦ゲオルギー・ポベドノーセツは、指揮官により座礁させられた。また、その約半年後同様にしてウクライナ人水兵らが反乱を起こした防護巡洋艦オチャーコフでも、戦闘ののち反乱勢力は鎮圧された。この時期、ロシア中央から離れたセヴァストーポリオデッサなど黒海沿岸諸都市やキエフなどで革命運動が盛り上がりを見せた。

こうした革命運動の広がりに対し皇帝ニコライ2世十月勅令ドゥーマ(国会)開設と憲法制定を発表し、ブルジョワジーを基盤とする立憲民主党(カデット)の支持を得て革命運動の一応の鎮静化に成功した。

1906年にドゥーマが開設されると、首相に就任したストルイピンによる改革が図られたが、強力な帝権や後進的な農村というロシア社会の根幹は変化せず、さらにストルイピンの暗殺(1911年)や第一次世界大戦への参戦(1914年)で改革の動きそのものが停滞してしまった。

一方、労働者を中核とした社会主義革命の実現を目指したロシア社会民主労働党は方針の違いから、1912年ウラジーミル・レーニンが指導するボリシェヴィキゲオルギー・プレハーノフらのメンシェヴィキに分裂していたが、ナロードニキ運動を継承して農民の支持を集める社会革命党(エスエル)と共に積極的な活動を展開し、第一次世界大戦においてドイツ軍による深刻な打撃(1915年 - 1916年)が伝えられるとその党勢を拡大していった。

二月革命(三月革命)

詳細は 2月革命 (1917年) を参照

二月革命は1916年の大寒波などによる食糧不足を原因に、市民が帝政への不満の声を上げた散発的な抗議デモから始まった。市民の不満はロシアの第一次世界大戦への参戦継続にも向けられた。抗議デモが数日の内に全ペトログラードにまで拡大をとげると、様々な革命的政党が活動を始めた。三月前半には首都の連隊に所属する多くの兵士も反乱を起こし、多くの市民を巻き込んで抗議運動は猛烈なものとなった。これらの動きを見た政府や軍首脳は専制の継続を無理と判断し、ニコライ2世に退位を勧告し300年余りにおよぶロマノフ朝は終わりをつげた。

二月革命から十月革命の間に、多数の無政府主義者および共産主義革命論者は革命の拡大を試みた。7月にペトログラードのボリシェヴィキは労働者階級および無政府主義者と共同して市民の蜂起を試みたが、この動きは臨時政府により鎮圧された。

臨時政府の成立と二重権力状態

二月革命後にドゥーマ議員、特にカデットを中心として臨時政府が発足した。その一方で労働者や兵士の意見を代表するソヴィエト(この頃はメンシェヴィキ、社会革命党が中心であった)も発足しており、この両権力が連携して政権運営がなされた。

社会革命党のケレンスキーが指揮する臨時政府は、従来の英・仏・露による同盟関係を尊重し、対ドイツ戦を継続する姿勢をとった。これにはソヴィエトも当初は同調していたが、ボリシェヴィキの指導者レーニンが亡命先のスイスから封印列車に乗り帰国すると、"平和とパンの要求"(四月テーゼ)を掲げて戦争継続の姿勢をとる臨時政府を批判した。しかしこの時点ではボリシェヴィキはソヴィエトにおける少数派にとどまっていた。

7月に入り臨時政府内部の対立が顕在化した。軍内部の革命勢力の一掃を求める最高司令官のコルニーロフ将軍と彼を任命したケレンスキー首相の対立が深まり、コルニーロフは反臨時政府のクーデターを引き起した(コルニーロフ事件)。ケレンスキーは赤衛隊の助けを借りてこれを鎮圧したが、その中心となったボリシェヴィキはソヴィエト内での権威を高め、全ての権力をソヴィエトに集約すべきという見解も一般的になっていった。一方で、9月には臨時政府は国号をロシア共和国に改め、正式な共和制国家の創設を宣言した。

十月革命(十一月革命)

詳細は 十月革命 を参照

コルニーロフの反乱が失敗に終わるとボリシェヴィキへの支持が高まった。8月末から9月にかけ、ペトログラードとモスクワのソヴィエトでボリシェヴィキ提出の決議が採択され、ボリシェヴィキ中心の執行部が選出された。これを受け、レーニンは武装蜂起による権力奪取をボリシェヴィキの中央委員会に提起した。中央委員会は10月10日に武装蜂起の方針を決定し、10月16日の拡大中央委員会会議でも再確認した。

一方、ペトログラード・ソヴィエトは10月12日に軍事革命委員会を設置した。これは元々はペトログラードの防衛を目的としてメンシェヴィキが提案したものだったが、武装蜂起のための機関を必要としていたボリシェヴィキは賛成した。トロツキーは「われわれは、権力奪取のための司令部を準備している、と言われている。われわれはこのことを隠しはしない」と演説し、あからさまに武装蜂起の方針を認めた。メンシェヴィキは軍事革命委員会への参加を拒否し、委員会の構成メンバーはボリシェヴィキ48名、エスエル左派14名、無政府主義者4名となった。

前後して軍の各部隊が次々にペトログラード・ソヴィエトに対する支持を表明し、臨時政府ではなくソヴィエトの指示に従うことを決めた。10月24日、臨時政府は最後の反撃を試み、忠実な部隊によってボリシェヴィキの新聞『ラボーチー・プーチ』『ソルダート』の印刷所を占拠したが、軍事革命委員会はこれを引き金として武力行動を開始。ペトログラードの要所を制圧し、10月25日に「臨時政府は打倒された。国家権力は、ペトログラード労兵ソヴィエトの機関であり、ペトログラードのプロレタリアートと守備軍の先頭に立っている、軍事革命委員会に移った」と宣言した。臨時政府の閣僚が残る冬宮は26日未明に占領された。

蜂起と並行して第二回全国労働者・兵士代表ソヴィエト大会が開かれた。冬宮占領を待ち、大会は権力のソヴィエトへの移行を宣言した。さらに27日、大会は全交戦国に無併合・無賠償の講和を提案する「平和についての布告」、地主からの土地の没収を宣言する「土地についての布告」を採択し、新しい政府としてレーニンを議長とする「人民委員会議」を設立した。

十月革命後の展開と影響

詳細は ロシア内戦 を参照

1917年11月にボリシェヴィキが要求していた憲法制定議会の選挙が行われたが、社会革命党など反対派が多数を占め、ボリシェヴィキは少数派に留まったため、ボリシェヴィキは1918年1月の憲法制定議会開催の2日目に議会を武力で解散させ、以後、議会を再開することはなかった。

ブレスト・リトフスク条約締結をきっかけに南ロシアシベリアなどの都市で白軍が蜂起しボリシェヴィキ政権に反旗を翻した。列強諸国も黒海沿岸への部隊派遣、白軍への協力、ポーランド・ソビエト戦争シベリア出兵などを通じて干渉を加えた。ウクライナでは社会主義を掲げる民族主義者が十月革命に反対して独立国家を樹立した。中央アジアではバスマチ運動が活発に行われた。

こうした反対派の動きに対し、ボリシェヴィキは、秘密警察チェーカーを活用してメンシェヴィキ社会革命党(エスエル)などの他派を裁判なしに大量処刑して政権を固めると共に、次第に数を増して強力なものとなった赤軍の武力により各地の敵対勢力を屈服させ、列強諸国に部隊を撤退させた。また、ボリシェヴィキが得意としたのがプロパガンダ政策で、全ての非ボリシェヴィキ系新聞を完全に発禁にした。

なお退位後、監禁されていたニコライ2世とその家族は、1918年7月17日に、レーニンの命令を受けたチェーカーの処刑隊により、裁判なしに全員銃殺された。

1922年、ボリシェヴィキは全国ソビエト大会で国家樹立を宣言し、他派を完全に排除した一党独裁を国是とするソビエト社会主義共和国連邦が成立した。

参考

文献

当事者による記録

  • レフ・トロツキー『ロシア革命史』全五巻 2000年 岩波書店 ISBN 4003412745
  • アレクサンドル・ケレンスキー『ケレンスキー回顧録』恒文社 1977年 ISBN 4770401353
  • ヴォーリン『1917年・裏切られた革命』林書店 1968年
  • アルシーノフ『マフノ叛乱軍史』
  • サヴィンコフ『テロリスト群像』現代思潮社 
  • スタインペルグ『左翼エスエル戦闘史』鹿砦社 1970年

その他評論など

  • 梶川伸一『飢餓の革命』(名古屋大学出版会)
  • 猪木正道『ロシア革命史』(中公文庫
  • 猪木正道『共産主義の系譜』(角川書店
  • 尾鍋輝彦『ロシア革命』(中公新書
  • 長尾久『ロシア十月革命の研究』(社会思想社)
  • 菊池黒光『十月革命への挽歌』(情況出版)
  • ソールズベリー『黒い夜 白い雪』上下(時事通信社
  • パイプス『ロシア革命史』(成文社)
  • サーヴィス『ロシア革命 1900-1927』(岩波書店)
  • E.H.カー『ロシア革命』(岩波書店)
  • ジョン・リード『世界をゆるがした10日間』

映画

関連項目

思想

政党・組織

関連事件

人物

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