久原房之助
の政治家 久原房之助
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生年月日 | 1869年7月12日(明治2年6月4日) |
出生地 | 長門国 萩(現・山口県萩市) |
没年月日 | 1965年(和暦??年)1月29日 |
死没地 | 東京都港区白金 |
出身校 | 慶應義塾 |
前職 | 実業家 |
現職 | |
所属政党 | 立憲政友会→無所属 |
所属委員会 | |
議員会館 | |
選挙区 | 山口1区
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当選回数 | 4回
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元首 | |
称号・勲章 | |
世襲の有無 | |
親族 | |
配偶者 | |
サイン | [[画像:|128px|サイン]] |
公式サイト | [ ] |
第32代逓信大臣 | |
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内閣 | 田中義一内閣 |
就任期間 | 1928年5月23日 |
衆議院議員 | |
内閣 | |
就任期間 | 1928年2月20日 |
衆議院議員 | |
内閣 | |
就任期間 | 1952年10月1日 |
{{|textstyle=display:none}} 立憲政友会総裁 | |
内閣 | |
就任期間 | 1939年 - 1940年
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内閣 | |
就任期間 | -
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その他の職歴 | |
久原 房之助 (くはら ふさのすけ、1869年7月12日(明治2年6月4日) - 1965年(和暦??年)1月29日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員当選5回(16、17、18、19、25回総選挙)。
日立製作所創立の基盤となった久原鉱業所(日立銅山)や久原財閥の総帥として「鉱山王」の異名を取った。政界にも進出し、逓信大臣、立憲政友会(久原派)総裁を歴任し「政界の黒幕」と呼ばれた。
また、現在の大東急記念文庫の基礎を築いた。
生涯[編集]
青年期まで[編集]
1869年7月12日(明治2年6月4日)、久原庄三郎(1840-1908)の四男として、現在の山口県萩市に生まれた。久原家は、網元や廻船問屋を営む素封家で、房之助が生まれた頃は、醤油醸造業を営んでいた。父の庄三郎は、藤田家から久原家に養子入りした人で、藤田伝三郎の兄に当たる。なお、庄三郎は伝三郎が「藤田伝三郎商会」(後の藤田組、現在のDOWAホールディングス)設立の際には共同経営者として名前を連ねている。
1885年(和暦??年)に東京商業学校(現一橋大学)を卒業し、1886年(和暦??年)に慶應義塾に入学し、1889年(和暦??年)に同本科を卒業する。1890年(和暦??年)、貿易を志して森村市左衛門の森村組に入社する。しかし、叔父・藤田伝三郎と結びついていた井上馨の命令で、叔父の藤田組に入る。1891年(和暦??年)に小坂銅山に赴任する。新技術の導入により、業績を拡大して行った。
実業家時代[編集]
1903年(和暦??年)に藤田組を退社する。1905年(和暦??年)に茨城県の赤沢銅山を買収し、日立銅山と改称する。1910年(和暦??年)に日立製作所を設立し(1920年(和暦??年)に株式会社化)、1912年(和暦??年)に久原鉱業所(後の新日鉱ホールディングス)を設立して社長となる。鉱山経営を足がかりにして企業を拡大して行った。こうして、造船業、肥料生産、商社、生命保険を傘下とする久原財閥を形成する。しかし、短兵急に事業を拡大したために無理が災し、大正末期に中核だった久原鉱業を義兄の鮎川義介に譲渡し、同社は日産自動車の基礎となる。
政治家時代[編集]
昭和に入ると、政界に進出する。立憲政友会公認で旧山口一区から衆議院議員総選挙に立候補し、当選。田中義一と親しかったところから田中内閣の逓信大臣(1928年)、また立憲政友会幹事長(犬養毅総裁の下の1931年)を歴任し、若槻内閣の倒閣運動にも成功する。政治的には、親軍派に位置して中国大陸進出を主張し、「一代で巨万の富を築いた自分は超人である」と固く信じた。又、日本の政党を一つにし、超人である自分がその政党を率いることが日本にとって最善だと考え、「一国一党論」を唱えて憲政一新会など小会派の取り込みを推進したが、二・二六事件に連座して一旦政界への影響力を喪失した。しかし、その後鳩山一郎に接近して影響力を回復、1939年(和暦??年)4月に立憲政友会が分裂すると鳩山らに推されて三土忠造・芳澤謙吉とともに総裁代行委員に就任し「立憲政友会正統派」(久原派)と称して、中島知久平が率いる革新派(中島派)に対抗した。政友会分裂の1ヶ月後に正統派の総裁に就任すると又もや挙国一致政党解消論を主張して国民協議会を提唱、その後平沼内閣内閣参議、大政翼賛会総務なども務める。権謀術数に長け、政界の黒幕と呼ばれた。敗戦後、戦犯容疑を受けるが不起訴となった。
公職追放解除後は、再び衆議院議員に当選し、日中・日ソ友好に努めた。
1965年(和暦??年)1月29日、東京白金の自邸(現・八芳園)で95歳にて死去した。
親族[編集]
2回結婚しており(最初の妻が鮎川義介の妹・キヨ)、妾腹の子を含めると3男10女計13人の子に恵まれた。長女は元衆議院議長・石井光次郎に、三女は大隈重信の孫・信幸に、四女は元東京急行電鉄社長・五島昇に嫁ぎ、九女と十女は米国人と結婚している。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 久原 房之助 / クリック 20世紀
- 八芳園(久原房之助邸宅跡地)
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