テレコム・アニメーションフィルム

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株式会社テレコム・アニメーションフィルム
Telecom Animation Film Co., Ltd.
種類 株式会社
市場情報
略称
本社所在地 日本の旗 日本 
東京都中野区上高田五丁目39番1号
電話番号
設立 1975年5月19日
業種 情報・通信業
事業内容 アニメーションの企画・制作
代表者 竹内孝次(代表取締役社長)
資本金 98,000,000円
売上高
総資産
従業員数 57人
決算期
主要株主 株式会社トムス・エンタテインメント(100%)
主要子会社
関係する人物
外部リンク http://www.telecom-anime.com/
特記事項:

株式会社テレコム・アニメーションフィルム(英語表記:Telecom Animation Film Co., Ltd.、英略称:TAF)はアニメーションの企画・制作を主な事業内容とする日本の企業である。株式会社トムス・エンタテインメント(旧・株式会社東京ムービー新社)の連結子会社である。

概要[編集]

国内のテレビアニメに限界を感じた東京ムービーの藤岡豊社長(当時)が、アメリカ進出を夢見て、既に系列のスタジオにAプロダクションがあったにも関わらず、海外合作のためフル・アニメーションを描けるアニメーター育成を目的に1975年5月19日に設立したものがテレコム・アニメーションフィルム(以下テレコム)である。1980年代に東京ムービーの社運をかけた大作『リトル・ニモ』の制作に携わる。その制作準備中に大塚康生宮崎駿高畑勲ら東映動画系のスタッフが集い、宮崎による『ルパン三世 カリオストロの城』、高畑による『じゃりン子チエ』などの長編作品を制作。結果的に両名の東映動画からスタジオジブリに至る長編アニメ制作の橋渡しをすることになった。『リトル・ニモ』完成後は主にアメリカ作品の外注を手がけ、日本のアニメスタジオとしては異例のエミー賞の4度の受賞などアメリカ業界ではその作画力は評価が高い。1990年代後半からは国内作品の制作も多くなった。テレコム技術顧問を務める大塚によるアニメーター通信講座「アニメ塾」も主催。

沿革[編集]

1978年3月に読売新聞に募集広告を出し、1000人を越える応募者の中から、アニメーションの経験がないということを基準に43人が選抜され、4月から月岡貞夫が初期教育にあたった。同年の実験的な短編作品『おばけちゃん』がテレコムの初作品となり、完成後に月岡はテレコムを去る。1979年からはシンエイ動画より移籍した大塚康生が新人教育のために経験者のアニメーターに声をかけ、シンエイ動画から田中敦子、原恵子、OH!プロダクションからは友永和秀丹内司、山内昇寿郎らがテレコムに参加。日本アニメーションで高畑勲監督作品で制作進行を務め、後にテレコム社長になる竹内孝次が制作担当として移籍したのもこの頃である。『リトル・ニモ』は準備段階だったため、当初は『ルパン三世 (TV第2シリーズ)』の作画作業を行なった。10月には宮崎駿の下で劇場アニメ『ルパン三世 カリオストロの城』の制作を担当、さらに1980年には長編第2作として高畑勲を招いて『じゃりン子チエ』に従事。新人たちもこれらを通じて一人前のアニメーターに成長した。その後も宮崎の下で『名探偵ホームズ』に携わるなど、宮崎と高畑の存在はテレコムにとって大きな存在であった。しかし、テレコムにとって本命の『リトル・ニモ』という企画に対して、高畑と宮崎の両名は否定的であり、宮崎が準備中の『リトル・ニモ』の代替案として提示した長編作品の企画が採用されなかったために退社、その後『リトル・ニモ』の監督に決定していた高畑も退社し、優秀な演出家を失うこととなった。ただし、宮崎は後のアニメ映画風の谷のナウシカ』の制作母体に当初テレコムを考えたり、テレコムが制作した『ルパン三世 くたばれ!ノストラダムス』にスタジオジブリが制作協力、逆にジブリ作品に田中敦子などテレコムのスタッフが参加するなど、喧嘩別れしたのではなく、藤岡豊社長の『リトル・ニモ』に賭けた夢に高畑、宮崎の両者とも理解を示していたという。藤岡もスタジオジブリの鈴木敏夫に対して「宮崎、高畑をよろしく頼む」と言っていたという。

『リトル・ニモ』は1988年に完成するが、制作待機中の1980年代のテレコムは東京ムービー新社の受注したディズニーワーナー・ブラザース、フィルメーションなどアメリカのプロダクションの外注を引き受けて、フルアニメーションの技術を習熟していった。その頃の担当作品には『The Littles』『ギャラクシー・ハイスクール』『ワズルス』『くまのプーさん』『タイニートゥーン・アドベンチャー』などの合作作品を担当。日本国内では知られることはなかったが、大塚の弁ではハリウッドでは「4th floor people」として知られる存在だったという。『ルパン三世 風魔一族の陰謀』を制作したのもこの頃である。また、『リトル・ニモ』のプロモーションに技術力を示すため、『ルパン三世 カリオストロの城』がアメリカの業界内での上映会に使われ、アメリカのアニメーターの間で宮崎駿の知名度が飛躍的に高まったという逸話がある。

その後もテレコムはワーナー・ブラザースのテレビアニメ『バットマン』『スーパーマン』の作画を手がけるなどして、1997年から1998年度のエミー賞「優れたアニメーション演技賞」を八崎健二、矢野雄一郎、増田敏彦、青山浩行の4名のテレコムの原画陣が受賞。1990年からの4度目のエミー賞受賞となっている。テレビのリミテッドアニメで発展してきた日本のアニメ界において、フルアニメーションの技術を持つスタジオとして存在感を示した。アニメーターの今石洋之安彦良和らによると、日本のアニメーターの間でもテレコムには名門あるいは最高峰の登龍門というイメージがあるという[1]。これには、テレコムの新人募集に対して、宮崎駿、高畑勲、大塚康生の下で学びたいという志願者が殺到、難関を突破したのは実力者ばかりという理由がある。

2001年、テレコムが長年発注を受けて来たワーナー・ブラザースが、外注を全て韓国に回すようになる。日本国内では東京ムービーの子会社として、東京ムービー新社制作作品の外注をこなしてきたが、2002年WOWOWで放送された『パタパタ飛行船の冒険』をきっかけに単独制作に参入。海外向けから日本国内向けの制作へ転換する。またマッドハウスとの共同制作の『無人惑星サヴァイヴ』(2003年-2004年)や単独制作作品『タイドライン・ブルー』(2005年)等ジュブナイルSF作品を手がけたほか、日本国内他社が制作する作品のグロス請けも請け負う。

作品履歴[編集]

自社制作[編集]

制作協力[編集]

東京ムービー、トムス・エンタテインメント制作作品
スタジオジブリ制作作品
マッドハウス制作作品
サンライズ制作作品
ボンズ制作作品
GONZO制作作品
シンエイ動画制作作品
スタジオコメット制作作品
Production I.G制作作品

関係者[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. 「テレコムは名門」は今石洋之のウェブアニメスタイル「[ガイナックス若手アニメーター紹介(2)」での発言。「最高の登龍門」は安彦良和がテレコム出身の貞本義行と対談した際に発したテレコム評(安彦良和『アニメ・マンガ・戦争』角川書店、2005年、p123)

関連書籍[編集]

  • 大塚康生「作画汗まみれ 増補改訂版」徳間書店、2001年(ISBN 4198613613
  • 大塚康生「リトル・ニモの野望」徳間書店、2004年(ISBN 4198618909
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