千坂高雅
千坂 高雅(ちさか たかまさ、天保12年閏1月19日(1841年3月11日)- 大正元年(1912年)12月3日)は幕末・明治時代の米沢藩家老、大参事。のち石川県令、内務大書記官、岡山県令を歴任。官位は男爵、陸軍中佐。貴族院議員。実業家でもある。
生涯
幕末期
父は米沢藩奉行職(国家老)を務めた千坂高明。通称は太郎左衛門、琢磨。千坂氏は犬懸上杉氏庶流を称して代々上杉氏に仕え、江戸時代には米沢藩の上士階級である侍組分領家の一つで、筆頭家老を務める家柄となった。高雅の先祖には上杉謙信の親衛隊の役割を果たし、上杉景勝政権下で上杉家の外交役として伏見留守居役・米沢藩初代江戸家老を務め、関ヶ原の戦い後には徳川家との折衝役を務めた千坂景親(対馬)や元禄赤穂事件(忠臣蔵)の際に父吉良義央の援軍として出兵しようとした藩主上杉綱憲を押しとどめたという江戸家老千坂高房(兵部)(ただし実際には事件の前に死去、詳細は高房の項目を参照)、上杉鷹山の藩政改革の折に七家騒動で処分された奉行千坂高敦(対馬)らがいる。(養子等による家督相続も挟まれている為、直接の血縁では無い)
幼少時代は病弱で、学問も弟に劣るといわれたが、成長するに従いその才能を発揮し、19歳の時に藩校・興譲館の定詰勤学生に選ばれた。その後、藩主上杉斉憲の洛中警備に父の高明(伊豆)と共に従い、京周辺における時勢の急転に奮起した。やがて帰国した高雅は興譲館の助読となり、25歳で学頭となった。元治元年10月(1864年)に家督相続。
そのころ彼は幕府の攘夷論を非とし、藩の軍政の中枢に参加していたが、慶応3年11月14日(1867年12月9日)に27歳という異例の若さで奉行職に抜擢された。彼の軍政改革は一戸一兵、一兵一銃の装備、大小具足を廃し、横浜から一万挺の鉄砲を購入して訓練したことである。慶応3年正月には薩長方に従い、3000人を率いて上洛、弾薬の海上運搬も行ったが、その後薩長軍の軍事討幕の方法に憤激し、白石会談後しばらくして、佐幕に藩論を統一した。
慶応4年4月5日(1868年5月16日)に米沢藩軍事総督に就任。戊辰戦争で米沢藩は上杉家の旧領である越後・出羽庄内方面の防衛を担当することになり、高雅は始め庄内攻撃の為に新庄に向かった新政府軍別働隊を攻撃する為に出陣するが、新政府軍は街道を封鎖して秋田に逃走したため、高雅率いる軍が到着した時には既に新政府軍は秋田に去った後であった。この後高雅は出羽方面軍の指揮を本庄昌長(出羽)に引き継ぎ、越後方面軍の指揮を取ることとなる。6月13日(7月21日)には奥羽越列藩同盟軍の越後方面軍総督となり、参謀の甘粕継成(備後)、仮参謀の斎藤篤信(主計)、長岡藩総督の河井継之助らとともに新政府軍と戦う。しかし7月29日(9月15日)に新潟の防衛を担当していた高雅と同じ奉行職の色部久長(長門)の戦死を受け、越後から撤退する。米沢藩は9月10日(10月14日)に新政府軍に降伏し、戦後は反乱首謀者として名乗り出るが、藩では高雅を救うために戦死した久長を反乱首謀者として届け出た。
明治期
明治2年(1870年)の版籍奉還に伴い、知藩事上杉茂憲ら米沢藩首脳陣から大参事就任を要請されるが、戊辰戦争で自分の指導力の無さを自覚したのか就任を一旦は拒否する。明治5年(1873年)、養蚕製糸調査のため上杉茂憲に随行して仏・伊に留学し、翌年帰国。その後明治新政府に戦後の態度と才略が認められ、内務省に出仕して大久保利通の下で働いた。この間茨城県の地租改正反対暴動の鎮圧に当り、1877年(和暦??年)の西南戦争では怨み重なる薩摩への復讐として、元会津藩家老の山川浩とともに最前線で軍隊を指揮した。1879年(和暦??年)以降は石川県令・岡山県令を歴任した。退官後は実業界に入り、両羽銀行、宇治川水電、横浜倉庫などの重役を務めた。1894年(和暦??年)に勅選の貴族院議員となった。1912t年(和暦??年)に死去、享年72。墓所は山形県米沢市の日朝寺。家督は次男の千坂智次郎が継いだ。
逸話
- 高雅が「先祖の千坂高房(兵部)は元禄赤穂事件に関わった」と広言したため、高房は実際には赤穂浪士の吉良邸討入り前の元禄13年(1700年)に死去していたにも関わらず、大佛次郎の「赤穂浪士」などに取り上げられ、忠臣蔵の映画や小説などで上杉家の知恵袋として高房が登場するようになったという。ちなみに実際元禄赤穂事件に関わった当時の米沢藩江戸家老は色部久長(長門)の先祖の色部安長(又四郎)である。千坂氏は江戸時代に上杉家筆頭家老の地位にありながら、上杉鷹山による藩政改革のおり、当時の当主千坂高敦が七家騒動でその改革に反発したため、それを挽回しようと広言を吐いた、という背景があるようである。
親族
関連項目
参考文献
- 「三百藩家臣人名事典 1」新人物往来社