阿部知子
この項目では、政治家について説明しています。女優については「阿部智子」をご覧ください。 |
衆議院議員 阿部 知子 | |
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1948年4月24日((2024-1948)+((11-4)*100+(25-24)>=0)-1歳) | |
東京都目黒区 | |
東京大学医学部卒業 | |
生年月日 | 医学士 医師免許 |
出生地 | 千葉徳洲会病院院長 |
出身校 | 厚生労働委員会 予算委員会 国際テロリズム・イラク人道復興支援特別委員会 |
学位/資格 | 無 |
前職 | 比例南関東ブロック |
所属 | 4回 |
世襲 | 社会民主党 |
選挙区 | 政策審議会長 |
当選回数 | 衆・第1議員会館303号室 |
所属党派 | http://www.abetomoko.jp/ 衆議院議員 阿部知子 |
党役職 | |
部屋番号 | |
Website | |
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阿部 知子(あべ ともこ、1948年4月24日 - )は日本の医師・政治家。社会民主党所属の衆議院議員。 神奈川12区(藤沢市・高座郡寒川町)・比例南関東ブロック選出、4期目。東京大学医学部卒業。
小児科医師で、神奈川県では県医師会からの公認を得ている。当選後も、『湘南鎌倉総合病院』の小児科で、月1回、非常勤の勤務医として、外来を担当している。
2005年の衆院選では自由連合から推薦を得た。2009年衆院選では国民新党からの推薦も得たが、民主党との候補者調整が不調に終わり、小選挙区(神奈川12区)では、47,538票と当選を逃し、比例南関東ブロックからの復活当選となった。趣味は、食べることと料理。
目次
経歴・活動
1948年東京都目黒区に生まれる、未熟児で体が弱く幼稚園に行けず。お茶の水女子大学附属高等学校を経て、1974年東京大学医学部卒業(東大紛争の最中に入学し社会主義同盟に参加していた)。1977年~稲田登戸病院小児科。1980年~国立小児病院神経科。1983年~東京大学医学部附属病院小児科。1993年~1994年米国メイヨークリニック疫学部に留学。1999年~2000年千葉徳洲会病院院長。2000年~湘南鎌倉総合病院非常勤勤務(新生児から思春期の子どもを診療)。
八代英太、田英夫らが結成したミニ政党「平和と民主運動」、その後横浜市議会などに議席を持つ「市民の党」に加わる。2000年6月第42回衆院選に神奈川12区から社会民主党公認で、比例南関東ブロックで初当選した。
社民党現職議員の中では政策審議会長で執行部の一員ではあるものの、民主党との合併に積極的であった。2007年11月の社民党党首選告示に際しては、唯一の立候補者であった福島瑞穂の推薦人に大半の党所属国会議員が名を連ねる中、阿部は推薦人にならず、「護憲のみに偏重した現在の党の活動は改めるべき」と注文をつけた。
現在も小児科の非常勤勤務医として医療に携わっているため、『医師不足』問題や、高齢者医療(後期高齢者医療制度)などに対して積極的な発言を行っている。その主張は以下の著作に詳しい(2008年刊『赤ちゃんを産む場所がない!?』、2008年刊『どうなる!? 高齢者の医療制度』同党の保坂展人議員との共著)。
戦没者の遺骨収集
戦没者の遺骨収集事業について関心を持ち、海外での遺骨収集事業に参加している。これまで、遺骨収集のためモンゴル、インドネシア、フィリピンなどを訪問している。この活動を通じ、自民党議員にも知己が多い。戦後60年を経過してなお、海外に多くの戦没者遺骨が放置され、祖国への帰還が進んでいない現状に強い問題意識を持ち、厚生労働委員会において繰り返し質問を行う一方、遺骨収集事業に政治が責任と決意を持つべきという考えから、遺骨収集推進のための特別措置法の策定を提唱している。
主な現在の役職
- 社会民主党政策審議会長
- 衆議院予算委員会委員
- 厚生労働委員会委員
- イラク支援特別委員会委員
2007年12月の社民党の役員選考委員会で、福島党首は阿部を執行部から外し、辻元清美(前政審会長)を再び政審会長に起用する考えであったが、辻元が固辞したため、結局阿部を政審会長に留任させた[1][2]。
政治的主張
臓器移植法
医師・小児科医の経験から、臓器移植法の改正とくに河野太郎議員などが積極的に推進した『本人の同意を必要としない臓器摘出』を可能にする改正案には反対し、その対案として提出された「臓器の移植に関する法律の一部改正法案」の議案提出者となった。 自身のホームページで、『私たち医師は、学生時代にまずこの献体された遺体を解剖させていただく時に、人の身体の尊厳と遺志に自ずと手を合わせる。人の身体は物ではない。』と、自らの体験を述べ、脳死は人の死ではなく、臓器提供については『本人の同意が前提』との立場を採っている。
対北朝鮮
北朝鮮による日本人拉致問題に関し社民党に対する批判が高まった中、阿部と横光克彦は、「当時の日本社会党と北朝鮮との過去の関係について検証し、国民に説明と謝罪をすべき」「北朝鮮に経済制裁すべき」等と主張した。この主張には土井たか子・渕上貞雄・福島瑞穂・保坂展人・辻元清美などが反対した。その後、拉致議連への入会を申し出たが、拉致被害者家族会の社会民主党に対する疑念と不信を理由に拒否された。2002年10月には田嶋陽子・大渕絹子両参議院議員が北朝鮮による日本人拉致問題をめぐる一連の社民党の対応を批判し、阿部もこれらの批判に賛同はしたものの、田嶋・大渕のように離党には踏み切らなかった。
阪神大震災と自衛隊に関する発言
メールマガジン第253号「国民保護は地方自治から」の中で、1995年に起きた阪神大震災において「国民を災害から守ることを任務とされているはずの自衛隊が、国による命令を受けて救援に向ったのは、数日を経て後のことであった。」と発言した。この発言に対し「社会党の連立政権だったにも関わらず、どうしてそんなことが言えるのか」といった批判の声が出た(※ 当時、阿部は社会党の議員ではなかったが)。自身のホームページで「たくさんのご意見をちょうだいして」と題し、「事実認識の あいまいさに起因する部分もあった」と釈明した。[3]
その他
- 2004年12月24日、阿部の公設第1秘書(当時)だった男性に、勤務先の国立機関の上司にセクシャルハラスメントの被害を受けていたことについての相談中に、性的暴行を受けた女性が元秘書と阿部に慰謝料1億円を求める訴訟を起こした。女性側は元秘書から2001年9月から、2002年4月の間、複数回性的暴行を受け、阿部にも相談したが取り合ってもらえなかったと主張。女性は2003年3月、元秘書を強姦致傷罪の疑いで警視庁に告訴。「加害はもちろん、セクハラ被害救済に深く関与していながら見殺しにした、阿部議員らを許すことはできない」としているが、元秘書は「大変心外だ。名誉毀損での反訴や刑事告訴も検討したい」とし、阿部事務所側も「訴状を見ておらず、コメントできない」としている[5]。
著書
- 『死を看とる心 / 樹心の会』-- 永田文昌堂, 1986
- 『見てわかる0~12か月赤ちゃん育児book』 --成美堂出版, 1998
- 『思春期外来診療室』 -- 学陽書房, 1998
- 『子どもがかかりやすい病気の事典』-- 中央公論社, 1999.
- 『眠れない夜はお母さんそばにいて』 -- ゆみる出版, 2000.12
- 『いのちの危機に』-- ゆみる出版, 2002
- 『どうなる!?高齢者の医療制度』保坂展人との共著. -- ジャパンマシニスト社, 2008
- 『赤ちゃんを産む場所がない!?』 -- ジャパンマシニスト社, 2008
外部リンク
脚注
- ↑ 中日新聞 2007年12月23日 http://www.chunichi.co.jp/s/article/2007122301000079.html
- ↑ 朝日新聞 2007年12月23日 [1]
- ↑ 2007年1月26日Jcastニュース
- ↑ 国会議員署名これまでと今後の展望 - 空港はいらない静岡県民の会
- ↑ 朝日新聞、産経新聞(共に関西版)2004年12月25日