55年体制
55年体制(ごじゅうごねんたいせい)とは、日本において自由民主党と日本社会党が二大政党として君臨し、政治を行っていた体制。1955年にこの構図が成立したためこう呼ばれる。
初出は政治学者の升味準之輔が1964年に発表した論文「1955年の政治体制」(『思想』1964年4月号)である。
体制成立の背景
太平洋戦争後、無産政党(日本社会党や日本共産党等)が合法化される一方で、同時に、保守政党が乱立する事態が発生した。1951年に日本社会党が、日本国との平和条約と日米安全保障条約(安保)に対する態度の違いから、右派社会党・左派社会党に分裂していたが、保守政権による「逆コース」や改憲に対抗するために、「護憲と反安保」を掲げ、1955年に社会党再統一を果たした。この日本社会党の統一に危機感を覚えた財界からの要請で、当時あった日本民主党と自由党が保守合同して自由民主党が誕生し、保守政党が第一政党となった。そして、ここに、「改憲・保守・安保護持」を掲げる自由民主党と、「護憲・革新・反安保」を掲げる日本社会党の二大政党体制、55年体制が誕生した。
55年体制の定義は与党の自民党と野党の社会党という構図、自民党と社会党が対立している構図、自民党が第一党で社会党が第二党という構図など諸説あるが、一般的には第一与党の自民党と第一野党の社会党という構図が有力である。
1955年当時の国際情勢はアメリカ合衆国とソビエト連邦による冷戦体制だったので、55年体制も冷戦という国際社会に合わせた日本の政治構造(「国内冷戦」)であると指摘する意見がある。
一と二分の一の確定
自由民主党は押し付け憲法論を主張、自主憲法制定を党是に定めた。1958年の第28回総選挙では互いに過半数にのぼる候補を立て、真っ向から争った。投票率76.99%は男女普通選挙になってからでは最高の記録であり、二大政党制への国民の関心の高まりを示したものといえた。その結果、定数467で自由民主党287議席(他、追加公認11)、日本社会党166議席(他、追加公認1)となり、二大政党の公認候補だけで97%の議席を占めた。これは総選挙最高峰の記録である。しかし、議席数は追加公認を含めると、自由民主党が1議席を減らしただけの圧勝であり、日本社会党は7議席を増やしたものの、護憲に必要な3分の1の議席を確保したに留まった。
このように、二大政党制といっても、選挙と国会での比率では自由民主党と日本社会党の勢力比率は2:1であった。そのため、「一と二分の一政党制」とも呼ばれる。保守と革新が2:1の比であったのは、1947年、保守分裂のため社会党が第一党になった第23回総選挙で既に現れていた。
55年体制は自由民主党から日本社会党への政権交代が実現できない一方、保守政党は憲法改正のための3分の2以上の議席は確保できなかったことから、政権交代と憲法改正のない体制とされる。
また、戦後しばらくは、いわゆる諸派・ミニ政党がしばしば議席を獲得していた。しかし、55年体制以降は参議院では一時的にミニ政党が進出した時期もあるが、衆議院で議席を獲得することはほとんどなくなった。
日本社会党の衰退
1960年代に入ると国民に新憲法が定着し、自由民主党の議員も改憲にはこだわらない議員が主流となった。憲法調査会(第一次)が終了したのもその流れであった。こうして、「保守本流」と呼ばれる議員達を中心に、安全保障面をアメリカに依存し、国防費の分を経済政策に当てることにした政策が採られることになった。これによって、「護憲と反安保」を掲げる日本社会党は糾弾相手の陰が薄くなることになってしまった。
国民も「安保」体制を受け入れ始めた1960年代にあって、日本社会党はイタリア共産党に端を発する構造改革論を導入し対応しようとしたが、議会を軽視し、社会主義革命にこだわる左派によって葬られた。その後は左派主導の下、「護憲と反安保」にこだわり続けることで支持基盤を失っていった。
その上、日本社会党は支持基盤を労働組合に絞るようになり、1960年代末期以降、総選挙の度ごとに候補者を減らす消極策を取るようになった。こうして政権獲得の意欲を失い、選挙の度ごとに勢力を衰退させ「長期低落傾向」と呼ばれるようになる。さらに、野党勢力は、その後、民社党・日本共産党の伸張、公明党の結成と分裂がおこり、一党をもって自由民主党に対抗出来る政党は皆無となった。
自由民主党の勢力はかげりを見せ始めたが、日本社会党も歩調を合わせるかのように議席を減らした。さらに、1989年秋の東欧革命から1991年12月のソ連崩壊により、「社会主義は死んだ」「自由主義・資本主義は勝利した」という反共主義者の宣伝が世界を席巻し、東欧革命やソ連崩壊による共産党政権の崩壊も、その勢力減退に拍車をかけた。
自由民主党の失墜と55年体制の崩壊
このまま、自由民主党の与党体制が続くかに思えたが、汚職が続出し政治不信を招き始めた。さらに、派閥間勢力の均衡が田中角栄によって崩され、自由民主党自体が混乱していった。1983年衆院選では自民党が敗北し、新自由クラブと閣内連立して自民党単独政権が一旦終焉(1986年選挙で自民党が勝利し再び自民党単独政権となる)。さらに、バブル崩壊とそれにともなう経済不振に、なおやまない政治不信が自由民主党の支持を低落させた。
日本社会党は土井たか子ブームなどにより一時的に勢力を回復したが、やがて、長期低落傾向に復する。自由民主党の失墜と、にも関わらず、それに取って代わる実力を持たない日本社会党の不振は体制への不満と無力感を著しく高め、無党派層、そして政治そのものへの無関心層の増大を生んだ。
さらには、1988年のリクルート事件や1992年の東京佐川急便事件により、国民の政治不信が頂点に達し、追い討ちをかけるかのように、宮沢内閣の政治改革関連法案の廃案に反発した自由民主党議員が大量に離党、羽田孜・小沢一郎らによる新生党や武村正義らによる新党さきがけが結党するに至った。その結果、1993年の衆議院選挙で自由民主党は大幅に過半数を割り込む結果となった。また、日本社会党も惨敗した。
それに対し、自由民主党離党者による新生党・新党さきがけ、細川護熙が代表であった日本新党、さらに公明党・民社党が躍進、宮沢内閣は総辞職に追い込まれた。野党は日本新党の細川を首相とすることで合意、自由民主党との連携を模索した日本社会党・新党さきがけも受諾。1993年8月に細川内閣が成立し、自由民主党は下野となった。
ただし、55年体制の定義の違いにより正式な体制崩壊の時期には諸説あり、上記の細川政権が発足した1993年8月の他、自民党と社会党が連立して自社さ連立政権が発足した1994年6月、衆議院第二政党が社会党に代わり新進党となった1994年12月もあげられる。
55年体制の評価
作家の塩野七生は55年体制をローマ共和国の元老院に例えて評価している[1]。
関連項目
脚注
- ↑ 塩野七生 『痛快!ローマ学』 pp182-184、集英社、2002年。