逆コース
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逆コース(ぎゃくコース。reverse course)とは、1949年以後の日本における、「日本の民主化・非軍事化」に逆行する政治・経済・社会の動きである。この名前は読売新聞が1951年11月2日から連載した特集記事に由来する。
解説
第二次世界大戦で敗北した日本は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の支配下に入った。当初、GHQは「日本の民主化・非軍事化」を進めていたが、日本を反共主義の防波堤にしたいアメリカ政府の思惑でこの対日占領政策は正反対に覆された。
この意向を受けた第3次吉田内閣は戦前的な権威主義、中央集権に基づいた政策を採り、国民の反発を受けた。これ以後、1949年の中華人民共和国の誕生や、翌年の朝鮮戦争勃発以後に行われた公職追放指定者の処分解除とその逆のレッドパージにより、復古勢力の勢いが増した。
総司令官マッカーサー、民政局局長ホイットニー准将、局長代理ケーディス大佐は転換に反対したが、国務省が強硬に転換を迫ったという[1](当時の大統領はハリー・S・トルーマン、ドワイト・D・アイゼンハワー)。
主な動き
- 1948年:ケネス・クレイボーン・ロイヤル米陸軍長官、2月にジェームズ・フォレスタル国防長官の“日独の再軍備の方針について研究せよ”との指示を受け、答申「日本の限定的再軍備」を5月にフォレスタルへ提出。12月、A級戦犯のうち7人について判決に基づき死刑を執行するが、残りの者は減刑し釈放の方向に。
- 1949年:2月、統合参謀本部、ロイヤル答申に基づき日本に限定的ながらも再軍備を容認する方針を決定。この後1951年まで、A級戦犯の減刑と釈放や、公職追放者の追放解除が実施された。
- 1950年:朝鮮戦争勃発。警察予備隊の創設(再軍備)、レッドパージの開始。
- 1952年:警察予備隊の保安隊への改編と海上警備隊の新設(軍備増強)、破壊活動防止法の制定(治安維持法の姿を変えた復活)、公安調査庁の設置(特高警察の復活)、内閣調査室設置(現内閣情報調査室。情報機関の復活)
- 1953年:軍人恩給・栄典制度復活、公職追放解除者への戦前・戦中の国家への貢献による叙勲、教科書検定権限の文部大臣への一元化
- 1954年:保安隊と海上警備隊の自衛隊への改編(軍備増強)、警察法(旧警察法を全面改訂し国家地方警察廃止、代わりに警察庁を設置して都道府県警察本部を中央集権化)と教育二法を制定(義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法と教育公務員特例法一部改正法。教育公務員の政治的意思表明を禁止)。
- 1955年:自由民主党結党(保守合同)及びこれに対するCIAの支援、憲法改正の動き、過度経済力集中排除法の廃止(財閥系企業の復活)
- 1956年:教育委員公選制から任命制への転換、憲法調査会法成立
- 1958年:警察官職務執行法改正案が提出(警察官による令状なしの予防検束などを規定したが、「デートもできない警職法」と揶揄され、廃案になった)
- 私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独占禁止法)の緩和
- 右翼団体の復活
作品
- 映画