創政会

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竹下登を会長に田中派内に派中派を結成。「創政会」と称した。砂防会館別館で発会式を終え、事務所を出るメンバー=1985年2月7日

創政会(そうせいかい)は、会長を竹下登に据えて結成された田中派内の勉強会であり派中派。創政会の名は竹下が発行していた機関紙『創政』から取られた。

結成は1984年に起こった二階堂擁立劇後の年末とされているが、その萌芽は田中派のオーナーである田中角栄ロッキード事件による逮捕の後に、世代交代論者の金丸信が竹下を支えて派閥をまとめようとしたことに起因している。

経緯[編集]

1984年当時、田中派は121名を抱える党内最大派閥であったが、膨張を続けていたために派内での風通しが悪くなったばかりか田中退陣の後10年を経ても自派閥から首相候補を出さないという閉塞的な状況に陥っていた。それは角栄が自派閥から総裁候補を送り出すことによって自らの影響力低下を恐れたためであったが、いつまでも後継者を決めない態度に加え、当選回数の浅い後藤田正晴や外様といわれる他派閥から移籍してきた議員を重用することなどにより、竹下を担ぎ上げようとする若手を中心に不満がたまっていた。

その状況の中で中曽根退陣を画すグループが田中派の大番頭である二階堂進を担ぎあげようと画した二階堂擁立劇が起こった。擁立劇自体は田中の反対により頓挫したが、田中の派内での統制力は弱体化した。一方で竹下を支持しながらも派内擁立の意味では二階堂を容認した若手の間で焦りが生まれ、それを見た金丸が立ち上がったことで事態は急速に進行し始めた。勧誘は徹底的に秘密裏に進められ、参加者同士でありながらお互いの秘書にまで秘密にする議員が現れるほど徹底していた。結成直前の参加希望者は81名を数え、当時の田中派の3分の2にもなろうかという勢いだった。しかし、当初は容認の構えを見せていた角栄が、勉強会は見かけで実は派中派であることに気づくと、猛烈な巻き返しを図り、切り崩し工作は結成当日まで行われた。切り崩しの結果、参加希望者はどんどん脱落し、結局参加希望者は当初の81名から40名と半減したが40名という数は当時の総裁立候補に必要な50人に後10名足りないだけの数であり、角栄も無視できない存在になった。(これを角栄秘書の早坂茂三は双方痛み分けの芸術的な数字と語っている)。 当初はホテルで設立総会をする予定であったが派内の調整で、竹下側は表向きはあくまで派内勉強会ということであったため了承し、結成は田中派が入る砂防会館別館で行われることになった。

結成後、田中邸を訪れた竹下に、角栄は同心円で行こうと伝え、竹下も了承。双方が収束の落としどころを探っていた矢先に、角栄は脳梗塞で倒れてしまう。角栄が倒れたことによって世代交代の流れが出来たこともあり、総選挙前の1986年4月25日、54人を数えたところで創政会は解散した。その後、田中派は竹下を推す勢力と派閥会長の二階堂進の勢力との対立を経て、経世会(竹下派)へと変化して行くことになる。

各人による評[編集]

一連の動きで角栄が最も心を痛めたのは、小沢一郎梶山静六羽田孜など子飼の弟子が弓を引いたことであった。この事で角栄は深酒になりやがて脳梗塞で倒れることになるのだが、田中派外様の代表格である田村元はこれを「創政会卒中」と周囲に漏らしている。

一般的には田中支配転覆のクーデターに見られがちな創政会の結成であるが、小沢一郎はオヤジと慕う田中に弓を弾く気はなく、竹下を一時的に後継者に指名すればそれでよかったとも述べている(立ち上げの前日一晩泣き明かしたという)。梶山静六は派内後継者を決めればそれでよく、田中支配を続けることに反対ではなかったという。羽田孜なども同様のことを言っている。また後藤田正晴は、角栄が倒れることがなければ、いずれ必ず機会を見てつぶされていただろうと語っている。

関連項目[編集]

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