平良兼

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平 良兼(たいら の よしかね、生年不詳 - 天慶2年(939年)6月)は、平安時代中期の武将平高望の二男(三男とする説も)で、母は正室「北家藤原良方女」、兄に国香、弟に良将、異母弟に良文らがあり、子に公雅公連公元らがある。桓武平氏の中心人物。武家平氏の実質的な祖の一人とされる。従五位下上総介

人物

父の高望王へ付いて坂東に下り、上総国武射郡屋形を本拠とした。弟良将の子の将門とはかねてから不仲であり[1]、舅の源護の息子らと兄の国香が将門と戦い敗死した際には不介入であったものの、弟(諸説あり)の良正が将門に敗れて援軍を求めてくると、それに応じて武力介入し、将門との対立の中心に立つようになる。父の仇であるはずの将門との和平路線を取る甥の貞盛を批判・説得して味方に引き入れ、下野を目指し出陣した。承平6年(936年)6月、良正・貞盛と共に下野国境にて将門と合戦になり数では圧倒的に勝るも敗れ、下野国府に退却。国府は包囲されるも、将門は包囲の一角を解きあえて良兼を逃した。

その後源護の告状よって、将門はに召喚され裁きを受ける事となるが、承平7年(937年)4月、朱雀天皇元服大赦で罪を許され5月に帰国。すると同年8月6日、良兼は将門の父「良将」や「高望王」など父祖の霊像を掲げて将門の常羽御厩を攻め、今度は将門を敗走させて常羽御厩を焼き討ちした(その際、朝廷の所有する栗楢院常羽御厩を焼き討ちにしてしまい、これが後に追捕の官符が下った原因の一つといわれている)。すぐさま兵を再編した将門に反撃されるも再びそれを退け、その際、密告のもと将門の妻子(つまり良兼の娘と孫)を捕らえて、これらを上総に拉致した。だが弟達[2]の手助けで9月10日に再び出奔し将門の元に戻ってしまう。

その後も将門との争いが続くなか、11月5日将門の訴えに応えた朝廷により武蔵安房上総常陸下野などの国々に良兼ら追捕の官符が下ってしまう。これにより将門と良兼は公的に立場が逆転し将門は力を得て勢い付いたものの、各地の国司は官符を受けても平一族と争うことを躊躇して動くこともなく、また官符が出された国々の実質統治者は平一族当人らである為に、何の効果もなかったと思われる。将門への私怨をつのらせた良兼は12月14日将門の駈使である丈部子春丸を買収して石井の営所の内情を探り夜襲をかけるも察知され逆襲を受け敗走。これ以降良兼の勢力は衰退し、天慶2年(939年)6月に病死した。

脚注

  1. 将門記』にある「女論」が原因とされる。『将門記』の原本は残っておらず、二つの写本があるもののいずれも冒頭部分が失われており確定は難しいが、将門の妻は良兼の娘との説がある。良兼と将門の関係を「舅甥ノ中既ニ相違フ」(=舅と聟、伯父と甥の2人の関係が、すっかり険悪になってしまった)とある。
  2. 『将門記』には「妾ガ舎弟等謀ヲ成シテ」とあり、公雅や公連とされている。また「既ニ同気ノ中ヲ背キテ、本夫ノ家ニ属ク。」(=肉親の仲をそむいて夫の家にその身を寄せることができた)とあり、さらに「譬エレバ遼東ノ女ノ夫ニ随イテ父ガ国ヲ討タシメルガ若シ」と楊貴妃玄宗になぞらえていることから、冒頭の「女論」も良兼の娘をめぐるトラブルで、将門と良兼の娘である妻の仲がきわめて綿密だったとみる説もある。

関連項目