オドン・アロンソ

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オドン・アロンソ・オルダス(Odón Alonso Ordás, 1925年1月28日 - 2011年2月21日)は、スペイン指揮者作曲家[1][2]

ラ・バニェサの出身。地元の合唱団やオーケストラの指揮をしていた父オドン・アロンソ・ゴンザレスに音楽の手ほどきを受け、1940年から1948年までマドリード音楽院に通いつつ、カフェでピアノを演奏して実地的に演奏経験を積んだ。音楽院ではエンリケ・アロカにピアノを師事している。音楽院を卒業後はマドリード大学で哲学と文学を履修しつつ、ピアノ奏者として活動した。1950年にスペイン国立放送室内合唱団の指揮者となり、1952年にはスペイン国立放送所属のオーケストラの指揮も任されるようになった。ただ、本格的に指揮法を学んでいなかったため、1953年にザルツブルクのモーツァルテウム音楽院のイーゴリ・マルケヴィチの指揮講習を受講。1955年にはシエナ音楽院でパウル・ファン・ケンペンの指揮法のレッスンも受け、ナポリでゴッフレド・ペトラッシの《ドン・キホーテの肖像》を指揮して成功を収めている。1956年から翌年まで、マドリードのサルスエラ劇場の音楽監督を務めた。さらにアタウルフォ・アルヘンタ奨学金を受けて1958年から翌年にかけてウィーンに遊学し、クレメンス・クラウスハンス・クナッパーツブッシュ等の謦咳に接した。1960年からマドリード・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に就任し、スペイン内外の作曲家の新作の紹介を熱心に行った。1965年にスペイン放送交響楽団が創設されると、マドリード・フィルハーモニー管弦楽団の活動が低迷することとなり、1968年にエンリケ・ガルシア・アセンシオと共同という形でスペイン放送交響楽団の首席指揮者に転任し、1984年まで務めた。任期中の1976年から1986年までマドリード国立特別声楽音楽院の教授としてオペラ等の指導を行った。1986年から1992年までプエルトリコ交響楽団とカザルス音楽祭の音楽監督、1989年から1996年までマドリード・クラシカ管弦楽団の指揮者、1995年から1999年までマラガ市立管弦楽団の音楽監督をそれぞれ歴任。1993年にソリアの秋季音楽祭が新設された際には音楽監督となり、亡くなるまでその音楽祭に関わった。作曲家としては、ホアキン・ルイス・ロメロ・マルチェントとフェルナンド・ソレルの共同監督による1955年の映画『エル・コヨーテ』、ペドロ・ラザガ監督による1955年の映画『囚人のロープ』、レオン・クリモフスキー監督による1956年の映画『ハネムーン旅行』、ロメロ・マルチェント監督による1956年の映画『コヨーテの正義』と1959年の映画『フラノとメンガノ』、ジェス・フランコ監督の1966年の映画『スパイの住居』と1971年の映画『恍惚の悪魔アカサヴァ』等のサウンドトラックを担当した。

マドリードにて没。

脚注

  1. アーカイブコピー - インターネット・アーカイブ
  2. アーカイブコピー - インターネット・アーカイブ