山田勇 (経済学者)
山田 勇(やまだ いさむ、1909年8月12日 - 1986年4月26日)は、日本の経済学者・統計学者。名古屋高商を卒業後、姫路商業学校の教員、横浜専門学校の助教授・教授を経て、1940年に東京商科大学東亜経済研究所の研究員に転任。日本内地の農村調査を行って1942年に『東亜農業生産指数の研究』(山田 1942 )を発表し、また内閣府統計局の嘱託となって家計調査を実施し、消費者物価指数の作成方法を考案した。
戦時中は、南方調査団に参加してマラヤで農村調査や家計調査を行い、1945年に昭南特別市に転属して昭南疎開本部で人口疎散の事務を担当した。戦後、多くの教員が戦争協力者として解任され、改組された後も一橋大学経済研究所に残り、研究所や、計量経済学会・理論経済学会などの学会の再建に携わり、産業連関分析など計量経済学分野の研究を行った。
1961年、『産業連関の理論と計測』により一橋大学経済学博士。1973年に同大学を定年退職した後は、南山大学や亜細亜大学で教鞭を執り、武見太郎の要請を受けて日本医師会が設置したメディコ・エコノミックス委員会の委員長を務めるなどした。
上記のほか著書に『計量経済学の基本問題』『経済の計量』『経済通論』(共著)など。論文多数。訳書にW.J.ボーモル『経済動学序説』(共訳)・J.E.ミード『経済成長の理論』(監訳)など。
目次
経歴
生い立ち
1909年(明治42)8月12日生まれ[1]。幼少期に父親が死去し、兄とともに母方の伯父のもとで育てられた[2]。家は、大須観音から程近い名古屋市中区の前塚町にあり、「柏徳」という、住込の店員が10人ほどいる裁縫所を経営していた[3][1]。
名古屋市下の日置小学校を卒業後、中学校を受験し[4]、名古屋商業学校に進学。1927年(昭和2)同校卒。[1]
成績優秀だったため、無試験で、口頭試問のみで名古屋高等商業学校(名古屋高商)に入学。当初は自宅から通学していたが、2年生時に半年間寄宿舎に入り、その後(理由不詳で)1年間休学。この間に名古屋から岐阜へ転居した。名古屋高商時代の同期生に北川一雄がいた。[4]
1931年(昭和6)3月、名古屋高商を卒業[5]。卒業後、同校の産業物理学実験室の助手として学校に残る。[6][1]
姫路商業・横浜専門学校時代
1935年(昭和10)、推薦により姫路商業学校の教員(心得)となる[6][7]。1937年頃、日本統計学会に入会[8]。1938年3月に結婚し、男子2人をもうけた[9][1]。
1932年頃、横浜専門学校の久武雅夫教授にヒックス の論文の別刷を送ったことがきっかけで交信するようになり、久武の推薦により、1938年9月に横浜専門学校に転職[10][11]。はじめ助教授だったが、1939年4月に教授に昇進した[12][13][1]。
同校では、商業通論、商業算術、経済学、簿記、高等文官試験準備のための英語などかなり多くのコマ数を受け持った。研究面では、名古屋高商の産業調査室からの委嘱を受けて鉄鋼業の計量分析を発表。同校に講師として来ていた東京商科大学の中山伊知郎の面識を得た。[14]
東亜経済研究所時代
1940年、東京商科大学に東亜経済研究所が開設されることになった際に、研究員になることを引き受け[15]、同年6月に横浜専門学校を辞任して、東亜経済研究所に転任した[16][13][17][18]。
- 1939年に名古屋高商から東京商科大学教授・東亜経済研究所研究部長となっていた赤松要や、杉本栄一の推薦を受け、陰に中山の同意もあって転任が決まった[15]。
- 転任前に、久武の著書『商業数学』の改稿を依頼され、久武と共著で『企業計算の理論と実際』を出版した[19]。
東亜経済研究所では、赤松から生産指数の作成を研究課題として与えられ、ペンローズ 型の生産指数とは異なる、エッジワース 式の生産指数を考案。研究所統計部と協力して日本の内地の農産物についての生産指数を作成し、著書『東亜農業生産指数の研究』(山田 1942 )をまとめた。[20]
1941年2月、東京商科大学助手[13]。同年4月、杉本からの指示で、一時的に内閣統計局の嘱託となり、同局調査官の望月敬之と共に家計調査の立案を担当。山田は農家家計調査を担当し、望月は商工業家計調査を専任した。半年後(同年9月か[18])に成果物が統計局案として公表され、全国各地で説明会を開催したが、同年12月に太平洋戦争が始まったため、予算の関係で調査を1ヶ年行ったところで事業が中断し、施策に反映されることはなかった[22]。
- 望月の後年の回想によれば、杉本と山田は、家計調査を単純な標本抽出ではなく産業や地域によって層別分割して標本調査する方式を考案し、また家計調査の結果から消費者物価指数を作成して小売物価指数に置き換えることを提案した。1941年に実施された調査の結果は公表されず、物価指数や経済統計の整備統合の問題も開戦で立ち消えたが、戦後の総理府統計局の家計調査と消費者物価指数に「企画の精髄」は生きている、という[23]。
家計調査終了後、東京商科大学へ戻る[24]。この頃までに、横浜から高円寺へ転居[24]。
戦争時代
南方調査団
1941年12月の太平洋戦争開戦後、東亜経済研究所は南方軍政への協力を自主的に具申[25][26]。
- 「そのあと赤松、杉本、山中三教授を始め研究所教官が一室に集まって今後の研究方針を議論した。結局今後は静かに研究室に閉じ篭もるよりは、進んで軍の組織のなかに入って軍政に協力するとともに研究を進めることにしようと衆議が一決した。そのときたまたま高瀬学長の弟が参謀本部の中佐であった関係から同氏を通じて軍へ申し出たのである。小生は下っ端であったから、これに異論を唱えることはしなかったが、また別にその決定に不服でもなかった。」[26]
その後、山田は前記の著書(山田 1942 )の出版を進め、その後で「東亜共栄圏交易理論」と題した、多数のサイド・イクエーション(辺方程式)の均衡理論の論文(編注:未詳)を執筆した[27]。
1941年(1942年か)9月に東亜経済研究所の教官は軍に編入されることが決定した[27]。
- 「小生は研究所に勤務していたので、この南方行の要員になることは一応決心していたが、しかし出来ることなら東京で研究したいという気持ちが強かった。そこで自分の気持ちを大学の帰りに電車のなかで杉本先生に告げたとき、『君が行かなくて誰が行く』といわれて万事が決まった。」[28]
南方調査団の編成にあたっての班分けでは農業班の班長となり、業務計画を作成[29]。出発前に市ヶ谷の陸軍士官学校で軍から正式に出発を申し渡され、旅費と軍服、軍刀の買入許可書を受け取って九段で刀を購入した[30]。
1942年10月、東京商科大学助教授、補東亜経済研究所所員[13][18]。
同年11月、南方総軍軍政総監部調査部に配属され[18]、同年12月18日、赤松要、板垣與一ら30余人と共に神戸から安芸丸に乗船し、同月28日にシンガポール(当時の昭南特別市)に到着した[25][31]。
農村調査と家計調査
1943年になって農村調査が企画され、小田橋貞寿を団長とする調査団に参加して、山田秀雄、大野精三郎らと共にヌグリ・スンビラン州のクアラピラ で調査を行い、調査結果を「クアラピラ農村調査報告」として南方総軍に提出した[32][33]。
1944年には調査部のマライ軍政監部への転属に伴って異動し[34]、シンガポール・ペナンを調査地域として、マレー人、中国人、インド人の民族別の家計調査を実施した[35][36]。
昭南疎開本部
1945年には、赤松ら調査部の大部分は、タイピンからクアラルンプールへ移ったが、山田は統計係として現地の職員を多く雇用していた関係でシンガポールに残留[37]。1945年4月頃、統計係の職員とともにマライ軍政監部から昭南特別市の厚生課に異動になり、昭南疎開本部で疎開の事務を担当した[38][39][40]。
- 「シンガポールでは第7方面軍は小さくはなかったが司令官は土肥原大将から板垣征四郎大将へと代っていった。会食は小さな部屋で司令官を中心にして行われたので両大将をよく眺めた、ともに胴囲りの太い人物であった。時々われわれも訓練に狩り出され、戦車に布団爆雷を持ってそれに突っ込む練習をした。戦車といってもマラヤに殆んどなく大八車を代用した。これを現地人が遠巻きにして見ていた。敗戦の徴候はひしひしと眼にうつったのである。もはや戦局は好転する気配は全くない。第7方面軍の司令部へ行ったことがあったが、参謀は大きな声で『ハルマヘラが陥ちた』と叫んでいた。米軍はすでに飛石作戦に移り、パラオをおとし、サイパンも落とし、硫黄島から沖縄に迫っていた。」[37]
疎開本部では、英軍が1945年6-7月頃にウビン島 を占領してシンガポールに艦砲射撃を加えることを想定して、住民の中の希望者をマライ半島、スマトラ、ジャワに疎開させる仕事をした。軍から物資を調達して、若干の米と砂糖・塩、軍票を与え、全部で12-13千人の現地人を疎開させた。主な仕事は、住民からの申し出があったときに、マレー半島北部への輸送の手配をすることだった[41]。
- 「シンガポール滞在中、この時期が一番熱心に働いたときである。皆んなを送り出して水野君と家へ帰ったときは大いに疲れた。その間に小生の歯も抜け、頭髪が一層薄くなったものである。急に年を取った思いであった。」[42]
同年8月13日にジャワへ行く疎開者300人余を送り出した後で15日の終戦を迎え、疎開船が難破でもしたら戦犯になると気をもんだが、船は無事ジャカルタに到着した[43]。疎開本部は、終戦から半年ほど経ってから解散した[44]。
終戦
1945年9月6日に英軍がシンガポールに上陸した後、昭南特別市の職員は事務引き継ぎを行い、その後も英軍によって市庁舎への登庁を続けるよう求められていたが、集団で市内を逃れ、既にジュロン に集められていた一般の在留日本人に合流した[45]。ジュロンでは英軍に提出する書類の翻訳などをしたが、時間が余っており、ラッフルズ・カレッジの図書館から持ち出していたヒックスのValue and Capitalを読んで勉強した[46]。
- 帰国後、赤松あてに戦時中ラッフルズ・カレッジから持ち出した本を返すようにと要求があったが、どうすることも出来なかった[47]。
半年ほど経った後に帰国命令が出たため、1946年4月に[18]、鳳祥丸に乗船し、4月13日に広島の大竹港に到着[48]。東京・国立へ戻った後、家族が姫路で暮らしていることを知り、姫路へ移動して家族と再会。神戸で復員の手続きをした[49]。
東京に戻り、大学が用意した(立川にあった)資材廠の宿舎で生活。経済安定本部に出入りして多少の謝金を受け取っていた。有沢広巳からラスパイレス式とは何のことか質問を受けた。生活に困窮し、本や衣服を売り、庭を耕して芋を植え野菜を育てた。学校に行っても仕事がなかったため、家で原稿を書きため、後年(1949年)に『計量経済学の基本問題』(山田 1949a )、『近代統計概論』(山田 1949d )、『経済の計量』(山田 1949b )、『スライディング・スケール』(山田 1949c )を出版した。[50]
経済研究所の再建
一橋大学では、大学が自主的に行った適格審査での不合格者は少なかったが、嘱託職員からの批判を受け、1947年に上原専禄学長・大塚金之助研究所長の指示により、小田橋以下の教授・助教授・助手が辞職・降格処分を受け、嘱託職員も多くが辞職したが、山田は改称した経済研究所に残され、上原と大塚から再建を託された[51]。(1949年頃)学長が上原から中山伊知郎に交代した後、都留重人が研究所長に着任し、山田は統計部門の主任となって都留を補佐し、教授1人(都留)、助教授1人(山田)のみとなっていた研究所の人事の補充を進めた[52]。また『一橋論叢』とは別に研究所の機関誌として『経済研究』(岩波書店)を創刊し、都留の尽力があってサムエルソン やスウィージー の論文を掲載した[53]。
1947年の春に、進駐軍として極東裁判に出席するため来日した、当時コウルズ・コミッション の常任理事で、エコノメトリック・ソサイエティ (計量経済学会)の副会長だったW・B・シンプソンの歓迎会に出席し、シンプソンから数冊の書物の寄贈を受けた[54]。また1949年頃、進駐軍の中尉として来日していたブロンフェンブレナー が研究所を訪問し、その後、研究所で講義を受けた[55]。
『経済研究』と前後して東洋経済で創刊された『理論経済学』の編集委員となったが、『経済研究』との兼務がよくないという都留の意向で、編集幹事は安井琢磨に交代した。[56]
1947年に中山伊知郎の主宰で(財)統計研究会が発足した際には、研究と経営の両面で中山を支援し[8]、同会の指数研究部会の主査をつとめた[57][18]。
学会の再建
1949年頃に学会が復活し、理論経済学会と計量経済学会の設立準備を支援。1950年から開始された学会の立案、報告、会計、大会準備をほとんど1人で行った[59]。
また統計学会も同時期に再出発し、同様に運営を取り仕切った[59]。
1950年6月、一橋大学東京商科大学教授に昇進[63][13][59]。同年度から経済研究所が学部学生向けに開講したゼミナールで計量経済学の講義を担当。受講した学生とT. ホーヴェルモー の『計量経済学の確率的接近』の読書会を開き、後年同書の訳編を刊行した(山田 ほか 1955 )[64]。
昭和20年代後半(1950年 - 1955年頃)新宿区の矢来町に居住[65](公務員住宅のアパート[66])。
米国の大学歴訪
1950年初に経済安定本部調査課長の大来佐武郎からガリオア資金 での訪米の誘いを受け[67]、翌1951年3月10日から3ヵ月間、文部省からの命を受けて、米国へ出張[13][68]。貨物船に乗船し、13日間かけてロサンゼルスに到着。その後汽車に乗り、サンフランシスコを経由して、3月の終わり頃、シカゴに到着した[69]。
出張の主目的地はシカゴ大学で、シンプソンからの招待を受けて、エコノメトリック・ソサイエティの本部があったコウルズ財団に1ヶ月ほと滞在し、週1回の研究会に出席し、物価指数についての報告をした[70]。
その後、同年5月頃、ケンブリッジに移動して1週間ほど滞在し、シンプソンの紹介を受けて、ハーバード大学の教授だったレオンチェフ を数回訪問し、レオンチェフ・モデルについて話を聞いた。また故人となっていたシュムペーター の夫人と会う機会があり、その後、MITではサムエルソンと話をする機会があって、都留の話題が出た。サムエルソンからは、MITに就職していたソロー を紹介された。[71]
ニューヨークのコロンビア大学では、ヌルクセ 、ヴィカーリー 、バーグソン に会った[72]。63番街にあったNBER を訪問し、所長のA. F. バーンズ 、山田と会うためにエール大学からやって来たクズネッツ と面談した[72]。クズネッツは、山田を山田雄三と勘違いしていた[72]。ニューヨークでスウィージーの講演会を聴講。またプリンストン大学のモルゲンシュテルン を訪問し、ボルチモアのジョン・ホプキンス大学へ行き、ペンローズの家を訪問した。[73]
最後にロサンゼルスへ戻ってスタンフォード大学を再訪した際に、アロー と会う機会があった[74]。その後、UCLAを訪問し、乗船してハワイ経由で帰国した[74]。帰国後、海外視察の報告をし、帰朝記事を『経済研究』(山田 1951 )と『季刊理論経済学』(山田 ほか 1951 )に掲載した[75]。
帰国後、学会の国際化のためエコノメトリック・ソサイエティの日本支部を計量経済学会内に設置することを起案し、学会にはかったが、森嶋通夫や安井琢磨ら京都大学などの人士が別に国際会議を計画しているとして反対し、不調に終わった[76]。この一件以来、山田は森嶋の意見を無視するようになり、日本の学会にあまり好意を持たなくなったといい、産業連関分析の取りまとめに専念するようになった[77]。
他大学での講義
1951年10月から、東京大学経済学部講師(1952年3月まで)[78]。
新制の大学院制度が開始された頃、多くの私立大学の大学院経済学研究科から乞われて出講[79]。中央大学や早稲田大学の大学院で計量経済学の講義をした[80]。この頃、中央大学大学院で砂田吉一、早稲田大学大学院で小野俊夫や島久代が山田の講義を受講した[81]。
産業連関分析
1953年4月、一橋大学教授(研究所)に配置換え。同年、統計研究会「投入産出部会」の主査となる(1962年3月まで在任)。[78]
1960年4月、日本学術会議「計数装置特別委員会」委員解嘱。同年8月、内閣経済審議会専門委員。[82]
1961年に学位請求論文『産業連関の理論と計測』(山田 1961 )を出版。英文版Theory and Application of Interindustry Analysis(Yamada 1961 )が紀伊国屋書店から刊行された。[82]
同年9月初にジュネーブで開催された「投入産出分析国際会議」に理論経済学会の代表として出席[77][83][82]。同年11月、一橋大学経済学博士[13][82]。
1967年、同大学経済研究所長(-1969年)、同大学評議員[13][8]。同年2月より同大学経済研究所日本経済統計文献センター長[13]。
晩年
1973年3月、一橋大学を定年退職[84]。同年4月 南山大学大学院経済学研究科教授[85]。
1974年4月 亜細亜大学経済学部・同大学院経済学研究科教授[85][13][86]。同大学では、戦時中に南方調査団に同行した板垣与一が同僚になった[87]。大学に、ベックマン、ゾーネンシャイン、ゼックハウザー らの学者を招請し、ベックマンと佐藤隆三の共編で『山田勇記念論文集』が編纂された[88]。
就任早々学部長に選出されたが、健康上の理由で辞退。1977年10月から1980年9月まで経済学研究科委員長を務めた。[89]
同月、日本医師会の会長だった武見太郎の招請を受けて、同会「医療経済研究委員会」の顧問となる[90]。
1975年1月 日本統計学会会長[13]。第43回日本統計学会総会の会長就任講演では、指数論の歴史的展開について講演した(山田 1976 )[91]。
同年、東京で開催された世界医師会の学術集会「医療資源の開発と配分」の医療経済学的アプローチの分科会の座長を務め、これに継続して1976年7月に日本医師会が設置した「メディコ・エコノミックス委員会」の委員長を務めた[92]。
1977年7月に開催された「医療資源の開発と配分」の第1回フォローアップ会議の座長を務める予定だったが、最終日前日に急性胃腸炎で入院[93]。
その後、北里大学病院に入院したことや[94]、下谷病院にかかっていたことがあり[95]、胃の出術を受けて成功した[96]。
1981年 - 1982年頃、東京・日野市の花輪病院で入退院を2,3度繰り返した[97]。
日本医師会の会長を退任した武見が創設した生存科学研究会のメンバーとなり、1985年10月の研究会が最後の出席となった[98]。
1986年3月、亜細亜大学を定年退職[85][99]。同年4月、同大学非常勤講師[85]。同月26日、心不全のため花輪病院で死去、享年76[100][101]。
栄典
- 1973年4月 一橋大学名誉教授[13]。
教え子
戦後、一橋大学時代の教え子に、藤野正三郎、江見康一、松田芳郎、高橋一、筑井甚吉らがいる[102]。
趣味・人柄
酒類は苦手だったが、煙草とコーヒーが好きで、戦後、新しくできた喫茶店を見つけると長時間入店して議論をしていた[103]。
- 「『今日はこれまで、コーヒーでも飲みにゆこう』。経済研究所の裏の塀をのり越え富士見通りの喫茶店へ授業のあと、よく行ったものでした。喫茶店で本当においしそうにコーヒーを飲む先生の姿が今でも目に浮かびます。[91]」
- 1956年(昭和31)頃、セミナーの輪読の後、国立駅の隣にあった「エピキュール」という喫茶店に学生と立ち寄るのが恒例になっており、セミナーのない日も学生が店の前で山田を待伏せして支払いだけをお願いしたことがあった[104]。
- 1954年頃、早稲田大学の大学院経済学研究科で計量経済学の非常勤講師をしていたときも、講義の後に早稲田界隈の喫茶店で学生と議論をしていた[81]。
「学会関係の仕事でお逢いする先生方のうち、昔、山田先生から授業を受けた方は、異口同音に、授業の厳しさを言う。だが山田先生の講義や演習指導の準備に対する周到さを知れば、授業を受ける側のあいまいな態度、あるいは判ったようなふりに対して、山田先生は決して妥協をされなかった、ということであるだろう。むしろ山田先生のそうした姿勢は、教壇に立つ人間としては学ぶべき事柄であるだろう。[105]」
- 亜細亜大学経済学研究科の教授時代、ゼミの討論の後で、「討論とは真剣勝負だ、切り倒されないよう常に精進しなさい」といっていた[105]。
- 同じ頃、ゼミが始まり、報告者が報告をはじめて間もなく「今日はここまで」といってゼミを打ち切ることがしばしばあり、「君たちはここに何しに来たのか。この研究室では切るか、切られるかの真剣勝負だ。私に袈裟がけに何回切られたか、わかるか。早く私を切るぐらいの発表をしなさい」と厳しく言われた。ゼミ生たちは始業時間が近づくと緊張していた(同様の回想2件)[106]。
1960年 - 1965年頃(昭和30年代後半)、毎週末(浅草)奥山劇場の浅香光代一座の舞台のテレビ中継を欠かさず視聴し、しばしば家族と浅草の劇場や仲見世へ出かけた。映画鑑賞も好きだった。晩年までパチンコを好んでいた。[105]
著作物
著書・編著・共編著
- 山田 (1942) 山田勇『東亜農業生産指数の研究 ‐ 内地・朝鮮・台湾の部』〈東京商科大学東亜経済研究所叢書 1〉日本評論社、NDLJP 1716696
- 久武 ― (1943) 久武雅夫・―『企業計算の理論及方法』巌松堂書店、NDLJP 1067767
- ― (1949a) ―『計量経済学の基本問題 - 経済構造の統計的分析』中文館書店、1949年1月、NDLJP 1154572
- ― (1949b) ―『経済の計量』〈叢書経済理論と統計 3〉実業之日本社、1949年3月、NDLJP 1158295
- ― (1949c) ―『スライディング・スケール』〈新労働文庫 5〉中央労働学園、1949年5月、NDLJP 2388376
- ― (1949d) ―『近代統計概論』春秋社、1949年6月、NDLJP 2388376
- ― 江見 (1951) ―・江見康一『経済通論』春秋社、NDLJP 3009249
- ― (1953) ―『最大利潤の原理と計算』春秋社、NDLJP 3017117
- 増補版:春秋社、1962年、NDLJP 3017184
- ― (1957) ―『経済予測の問題』東洋高圧[107]
- ― (1961) ―『産業連関の理論と計測』勁草書房、NDLJP 3010749
- 英文版:― (1961) Yamada, Isamu, Theory and Application of Interindustry Analysis, Kinokuniya Bookstore, 1961,JPNO 22253397
- ― (1963) ―『経済・経営の計画と予測 - やさしいリニアー・プログラミング』勁草書房、上巻:NDLJP 3015168 下巻:NCID BN10920474
- ― ほか (1963) ―ほか『例解経済学』白桃書房、NDLJP 3009240
- ― (1987) ―「第I部 経済学と私」故山田勇先生追想文集編集世話人会(編)『理論と計量に徹して‐山田勇先生追想文集』論創社、1987年4月、NCID BN05592015、pp.9-139
訳書
- 山田 ほか (1955) 山田勇ほか(訳)、T. ホーヴェルモー(著)『計量経済学の確率的接近法』岩波書店、NDLJP 3007656
- ― 藤井 (1956) ―・藤井栄一(共訳)ウィリアム・J・ボーモル(著)『経済動学序説』東洋経済新報社、NDLJP 3008566
- ― (1964) ―(監訳)J.E.ミード(著)『経済成長の理論』ダイヤモンド社、NDLJP 3008098
- ― 家本 (1969) ―・家本秀太郎(共訳)W.W.レオンチェフ(著)『アメリカ経済の構造 ‐ 産業連関分析の理論と実際』東洋経済新報社、NDLJP 3024480
論文・雑稿
- 論文多数[108]。追想文集収載の著作目録(略年譜 1987 232-245)を参照。
- 山田 (1951) 山田勇「アメリカ計量経済学界の中心課題」『経済研究』vol.2 no.4、1951年10月、pp.318-321、DOI doi.org/10.15057/25226
- ― ほか (1951) ―、千種義人、古谷弘、巽博一、篠原三代平(述)「アメリカ計量経済学の新動向」『季刊 理論経済学』vol.2 no.4、1951年11月、pp.223-235、DOI 10.11398/economics1950.2.4_223
- 山田 (1987 81-116)にも収載あり。
- ― (1976) ―「日本統計学会会長就任に際して」日本統計学会『日本統計学会誌』vol.6 no.2 pp.1-4、DOI 10.11329/jjss1970.6.2_1
関連文献
- 江見康一「統計学」一橋大学学園史刊行委員会(編)『一橋大学学問史』一橋大学、1986年、JPNO 87012067
付録
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 略年譜 1987 226
- ↑ 追想文集 1987 222
- ↑ 山田 1987 11-13
- ↑ 4.0 4.1 山田 1987 13-15
- ↑ 亜大紀要 1986 156は、1928年3月に卒業、としている。
- ↑ 6.0 6.1 山田 1987 14-16
- ↑ 略年譜 1987 226。1936年3月、同校教諭(同)。
- ↑ 8.0 8.1 8.2 8.3 追想文集 1987 155
- ↑ 追想文集 1987 153
- ↑ 山田 1987 16,136
- ↑ 追想文集 1987 152-153
- ↑ 山田 1987 16-17
- ↑ 13.00 13.01 13.02 13.03 13.04 13.05 13.06 13.07 13.08 13.09 13.10 13.11 亜大紀要 1986 156
- ↑ 山田 1987 16-17,136
- ↑ 15.0 15.1 山田 1987 17
- ↑ 山田 1987 18は、同年9月のこととしている。
- ↑ 山田 1987 136
- ↑ 18.0 18.1 18.2 18.3 18.4 18.5 18.6 略年譜 1987 227
- ↑ 山田 1987 17。久武 (1943 )の異版本か。
- ↑ 山田 1987 18-19
- ↑ 山田 1987 19
- ↑ 山田 1987 21,22
- ↑ 追想文集 1987 156-158
- ↑ 24.0 24.1 山田 1987 21
- ↑ 25.0 25.1 板垣 山田 内田 1981 119-120
- ↑ 26.0 26.1 山田 1987 22-23
- ↑ 27.0 27.1 山田 1987 23
- ↑ 山田 1987 24
- ↑ 山田 1987 24-25
- ↑ 山田 1987 25-26
- ↑ 山田 1987 27-29
- ↑ 板垣 山田 内田 1981 123-124
- ↑ 山田 1987 32-33
- ↑ 板垣 山田 内田 1981 121
- ↑ 板垣 山田 内田 1981 124-125。同書は、マラッカを調査対象地域に含めている。
- ↑ 山田 1987 35。同書は、調査部が馬来軍政監部に移されたのは、1945年になってから、としている。
- ↑ 37.0 37.1 山田 1987 39
- ↑ フォーラム 1998 38
- ↑ 板垣 山田 内田 1981 135-136
- ↑ 山田 1987 39-40
- ↑ 山田 1987 41
- ↑ 山田 1987 41-42
- ↑ 山田 1987 42
- ↑ 山田 1987 43
- ↑ 山田 1987 45-47
- ↑ 山田 1987 47-48
- ↑ 山田 1987 48
- ↑ 山田 1987 48。同書は年次を1945年としている。
- ↑ 山田 1987 50
- ↑ 山田 1987 50-52
- ↑ 山田 1987 53-55
- ↑ 山田 1987 56,138
- ↑ 山田 1987 57
- ↑ 山田 1987 58,74-75
- ↑ 山田 1987 58
- ↑ 山田 1987 59
- ↑ 追想文集 1987 188
- ↑ 亜大紀要 1986 156は、年次を1945年としている
- ↑ 59.0 59.1 59.2 59.3 山田 1987 60
- ↑ 日本経済学会 (2014) 日本経済学会 日本経済学会小史 2014 [ arch. ] 2016-09-14
- ↑ 日本経済学会 (2014) 日本経済学会 日本経済学会小史 > 日本経済学会史編纂資料 > 歴代会長・常任理事・理事メンバー一覧 > 1969年度から2009年度 pdf 2014 [ arch. ] 2016-09-14
- ↑ 亜大紀要 (1986 156)では、理論・計量経済学会理事、としている。
- ↑ 略年譜 1987 228。東京商科大学は、1949年5月に一橋大学東京商科大学と改称していた(同)。
- ↑ 追想文集 1987 176-177
- ↑ 追想文集 1987 177
- ↑ 追想文集 1987 182
- ↑ 山田 1987 60。同書は年次を1951年初としている。
- ↑ 山田 1987 60,81,82
- ↑ 山田 1987 82
- ↑ 山田 1987 61,75
- ↑ 山田 1987 61-62,80
- ↑ 72.0 72.1 72.2 山田 1987 63
- ↑ 山田 1987 65
- ↑ 74.0 74.1 山田 1987 65,80
- ↑ 山田 1987 65,78
- ↑ 山田 1987 67-68
- ↑ 77.0 77.1 山田 1987 68
- ↑ 78.0 78.1 略年譜 1987 228
- ↑ 追想文集 1987 209-210
- ↑ 追想文集 1987 196-202,209-210
- ↑ 81.0 81.1 追想文集 1987 198-202
- ↑ 82.0 82.1 82.2 82.3 略年譜 1987 229
- ↑ 追想文集 1987 2。同書は、日本学術会議の代表、としている。
- ↑ 追想文集 1987 142
- ↑ 85.0 85.1 85.2 85.3 略年譜 1987 230
- ↑ 板垣 山田 内田 1981 115
- ↑ 追想文集 1987 205-207
- ↑ 追想文集 1987 175
- ↑ 追想文集 1987 207
- ↑ 追想文集 1987 162-163
- ↑ 91.0 91.1 91.2 追想文集 1987 184
- ↑ 追想文集 1987 160-161,163
- ↑ 追想文集 1987 163-164
- ↑ 追想文集 1987 165-166
- ↑ 追想文集 1987 168
- ↑ 追想文集 1987 175-176
- ↑ 追想文集 1987 178,190
- ↑ 追想文集 1987 164
- ↑ 小川 1986 144は、同大学教授を辞職、としている。
- ↑ 略年譜 1987 231
- ↑ 小川 1986 144
- ↑ 追想文集 1987 176-178,178-180,182-184,184-185
- ↑ 追想文集 1987 150,191
- ↑ 追想文集 1987 186
- ↑ 105.0 105.1 105.2 追想文集 1987 210
- ↑ 追想文集 1987 215-216,217-219
- ↑ 略年譜 1987 232
- ↑ 亜大紀要 1986 157
参考文献
- フォーラム (1998) 「日本の英領マラヤ・シンガポール占領期史料調査」フォーラム(編)『日本の英領マラヤ・シンガポール占領 1941~45年 インタビュー記録』〈南方軍政関係史料 33〉龍溪書舎、ISBN 4844794809
- 追想文集 (1987) 「第II部 追想の山田勇」故山田勇先生追想文集編集世話人会(編)『理論と計量に徹して‐山田勇先生追想文集』論創社、1987年4月、NCID BN05592015、pp.140-246
- 略年譜 (1987) 「第III部 略年譜・著作目録」故山田勇先生追想文集編集世話人会(編)『理論と計量に徹して‐山田勇先生追想文集』論創社、1987年4月、NCID BN05592015、pp.224-245
- 小川 (1986) 小川春男「山田勇先生の御退任を惜しんで、そして、御急逝を悼んで」亜細亜大学経済学会『亜細亜大学経済学紀要』vol.11 no.2、1986年9月、pp.144-146、NAID 40000090866
- 亜大紀要 (1986) 「山田勇先生略歴・主要著作目録」亜細亜大学経済学会『亜細亜大学経済学紀要』vol.11 no.2、1986年9月、pp.156-157、NAID 40000090868
- 板垣 山田 内田 (1981) 板垣与一・山田勇・内田直作(述)東京大学教養学部国際関係論研究室(編)「板垣与一氏・山田勇氏・内田直作氏 インタヴュー記録」『インタヴュー記録 D.日本の軍政 6.』東京大学教養学部国際関係論研究室、NCID BN1303760X、pp.115-168
- 家本 (1961) 家本秀太郎「書評 山田勇著『産業連関の理論と計測』」神戸大学経済経営学会『国民経済雑誌』vol.104, no.6、1961年12月、pp.85-91、NAID 110000441635