藤原銀次郎
藤原 銀次郎(ふじわら ぎんじろう、明治2年6月17日(1869年7月25日) - 昭和35年(1960年)3月17日)は、日本の実業家、政治家。戦前の三井財閥の中心人物の一人で王子製紙社長を務め「製紙王」といわれた。その後貴族院議員に勅選され、米内内閣の商工大臣、東條内閣の国務大臣、小磯内閣の軍需大臣を歴任した。
経歴[編集]
明治2年(1869年)6月17日、長野県上水内郡安茂里村(現在の長野市)に藤原茂兵衛の三男として生まれる。父茂兵衛は農業の傍ら藍問屋を営み安茂里村一番の財産家といわれた。明治18年医者になることを条件に上京したが、医学の道には進まず明治22年(1889年)慶應義塾を卒業する。慶應義塾卒業後、先輩で時事新報の伊藤欽介に相談して松江新報に入社、主筆となる。松江新報が経営不振に陥り解散寸前となったため、藤原は申し出て会社を引き受け社長兼主筆となるが、新聞用紙の調達に苦心し、結局経営に行き詰まり新聞記者を辞めて帰京した。
明治28年(1895年)同郷で慶應義塾の先輩に当たる鈴木梅四郎に勧められて三井銀行に入社する。同期には後に蔵相となる池田成彬がいる。大津支店を皮切りに、東京深川出張所長となり営業成績を上げる。明治30年(1897年)三井が経営する富岡製糸場支配人となる。支配人としては、工員の賃金を出来高払い制にして工員間の不満解消に努めた。
明治31年(1898年)王子製紙で経営陣の対立からストライキが起こると、臨時支配人に就任。富士製紙から熟練工を引き抜きや古参社員の重視などでストライキを収めた。明治32年(1899年)三井物産に移り同社の上海支店次長、同支店長、木材部長などを務める。明治44年(1911年)王子製紙専務に就任する。当時の王子製紙は経営不振で赤字続きであった。藤原は物産時代の部下であった高島菊次郎、足立正などを登用し、さらに社内の人材発掘に努めた。欧米の機械製造会社と特別契約を結び機械の購入の代替として王子製紙の海外研修生に対する見学・視察を認めさせた。また、静岡気田、中部両工場の閉鎖や苫小牧、王子両工場を生産拠点とした。この時には三井銀行から資金を一切調達せず、紙問屋に対して王子の実情を訴え、手形決済を早くすることで資金を得、苫小牧工場の増設と60%の増資を実現した。藤原は社員教育にも力を入れ、工場の火災予防を推進した。
昭和4年(1929年)貴族院議員に勅選される。昭和8年(1933年)王子製紙、富士製紙、樺太工業の三社合併を実現し、資本金1億5000万円、日本国内のシェア90%を持つ巨大製紙企業を出現せしめた。藤原は新生王子製紙の社長に就任し「製紙王」の異名を取るようになる。
昭和13年(1937年)社長を退き会長となる。同年私財800万円を投じて、人材育成を目指して横浜に藤原工業大学(昭和19年に慶應義塾大学工学部となる)を設立した。開校式は藤原の70歳の誕生日であった昭和14年(1938年)6月17日であった。
昭和15年(1940年)米内光政内閣の商工大臣に就任する。昭和16年(1941年)産業設備営団総裁、昭和17年(1942年)海軍顧問、内閣顧問を経て、昭和18年(1943年)東條英機内閣の国務大臣に就任する。昭和19年(1944年)東條内閣が倒れ、小磯國昭内閣が成立すると軍需大臣に転じる。
戦後、上記の経歴によりGHQ(連合国軍総司令部)によりA級戦犯の容疑を受けるが、指定されずに済む。その後、静謐な生活を送り、昭和34年(1959年)数え90歳を記念として藤原科学財団を設立し、同財団に1億円を寄付し藤原賞を設ける。
昭和35年(1960年)3月17日脳軟化症のため死去。90歳。
関連[編集]
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