陸軍中野学校

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陸軍中野学校(りくぐんなかのがっこう)は、1940年日本陸軍が東京・中野に開設した秘密戦要員の養成機関。予備士官学校出身者などを採用し、占領各地の特務機関などに配置する要員を養成した。戦局の悪化を受けて、1943年8月に開設された二俣分教所ゲリラ戦における戦闘や幹部要員の教育を開始、1945年3月に本校は群馬県富岡に疎開したが、日本全土でのゲリラ戦を教育・訓練する総本山的な立場となり、戦争末期には日本本土被占領下でのスパイ活動を想定した教育も行った。1945年8月、終戦とともに閉校した。

沿革

設置の経緯

1937年に、陸軍省兵務局は、同局付となった秋草俊中佐、福本亀治少佐らに命じて防諜機関・兵務連絡機関を創設。同機関は信書の検閲・電話の盗聴・無線の探知・傍受などの活動を密かに行った。[1]

同年暮、同省軍務局軍事課は、秋草中佐、福本中佐、参謀本部第8課の岩畔豪雄中佐を招請し、相手国に対して積極的に諜報・宣伝・防諜工作を行うための要員を養成する機関の開設について協議。3人は建設委員に任命され、兵務局兵務課室内に委員会を設置し、組織や設置場所、設備、教育内容等について検討を進めた[2]

用地は中野電信隊跡地に決まったが、校舎の増改築などに時間がかかり、要員の養成を先行させるため、1938年に九段に臨時の教育場として後方勤務要員養成所が開設された[3]。1939年4月に養成所は中野の学校予定地に移転した[4]

後方勤務要員養成所では、平時における、特に海外に長期滞在しての秘密戦の従事者や、旧満州、中国における特務機関の従事者を想定した教育が行われた[5]

前期

1940年4月、兵務局付となった上田昌雄大佐は、中野学校の設立準備を命じられ、岩畔大佐と相談しながら、秘密戦の体系化と、要員教育のための教育課程を立案した[4]

上田大佐による秘密戦要員教員の基本的態度は、

  • 組織力の重視
  • 高度な科学技術の重視
  • 各要員の持つ専門的知識と資格の十分な活用
  • 人間養成

を旨とした[4]

1940年8月に「陸軍中野学校令」が制定され、北島卓美少将が初代校長に就任、上田大佐は幹事となった[4]。陸軍中野学校は、予算計上の都合で、陸軍兵器行政本部の直轄となった[5]。中野学校令の制定に伴い、教育内容も拡充された[6]

対米英開戦前の時期には、教育内容に占領地行政と宣伝業務が加味された[5]

中期

1941年(昭和16)10月に、中野学校は参謀本部の直轄となった[7]

1942年(昭和17)6月のミッドウェー海戦における敗北、1943年(昭和18)2月のガダルカナル島撤退を契機に日本軍は守勢に転じたため、参謀本部は正規武力戦を補う遊撃戦の展開にふみきり、同年8月に中野学校は、遊撃戦戦闘教令(案)の起案と遊撃隊幹部要員の教育を命じられた[5]

教令(案)は1944年1月に印刷・配布され、ゲリラ戦を想定した教育は、1944年(昭和19)[8]9月から1945年(昭和20)3月にわたって実施された[5]

1944年(昭和19)8月、二俣分教所(二俣分校)が新設され、遊撃隊幹部要員の教育が本格的に開始された[5]

同月頃、参謀本部は将来の日本における国土決戦を想定し、その準備のため中野学校に「国内遊撃戦の参考」の起案を命じた[5]。「国内遊撃戦の参考」は、1945年1月15日に印刷・配布され、要請に基づき教育内容も変更された[5]

後期

1945年2月に、日本本土の各軍(管区)司令官に「本土防衛任務」が付与された[5]大本営は、日本が組織的に戦争を続けられる期間は同年中頃が限度であり、以後はゲリラ戦的な作戦指導に移行することになると判断していた[5]

二俣分校では、全面的な遊撃戦の展開を想定して、「国内遊撃戦の参考」と別冊「偵察法、潜行法、連絡法、偽騙法、破壊法の参考」によって、本格的に遊撃隊幹部要員の養成が行われた[9]

1945年3月に中野学校本校は群馬県富岡に疎開した。中野学校は、秘密戦、特に遊撃全般の総本山的な立場となり、研究・教育・訓練を行った[9]

戦局が破局状態となってからは、その対応策として残置諜者(占領地に残されたスパイ)教育や通信科目を主とする教育を行った(6戊の頃から)[9]

戦争末期には、敗戦後の本土被占領地下における秘密戦を想定して、いわゆる泉部隊の構想も行われた[9]

閉校

1945年8月、終戦と共に中野学校本校と二俣分校は閉校した[5]

学生

中野学校の要員は、秘密戦に従事するため、型にはまらない予備士官学校の出身者から採用することが方針とされた[4]

1940年8月に制定された中野学校令は、学生を下記の5種に分類していた[10]

その他にも、必要に応じて臨時に遊撃戦の幹部将校や司令部情報勤務将校の養成のために入学を命じられた学生(臨時学生)などがいた[10]

学生の選考は、各種の専門知識を有していることや、精神的・肉体的な要件を基準として行われた。教育目的や任務の内容を伏して要員を選考し、入校を強要しない点が特徴的だった[11]

甲種

甲種学生は、中野学校の乙種・丙種の課程を経て、一定期間、秘密戦の実務を経験した優秀な将校に、高度な秘密戦の企画・遂行能力を付与し、その経験を基にして陸軍省や参謀本部の関係者と共に諸施策を立案できるようになることを目的とした。修学年限は1年。[10]

しかし、学校自体が短期間で廃止されたため、甲種学生制度は活用されなかった。[10]

なお、後方勤務要員養成所時代に採用された陸軍士官学校出身者で、中野学校に入学した学生は、1甲,2甲と呼ばれた[10]

乙種

乙種学生は、陸軍士官学校を卒業した大尉・中尉を主とし、そのほかに現役の各部将校を推薦により入校させたもの。修業年限2年。[10]

しかし、当時の情勢から、実際の修業期間は8ヶ月-1年ほどだった[10]

1乙(1941年入校)から5乙まで存続した[10]

丙種

丙種学生は、予備士官学校出身者を試験により採用した。修業年限2年。[10]

しかし、当時の情勢から、大部分の学生の実際の修業期間は8ヶ月-1年ほどだった[10]

後方勤務要員養成所時代の乙I長,乙I短,乙II長,乙II長の学生は、中野学校令の丙種学生の前身にあたる[10]

遊撃戦幹部要員としての二俣出身将校、情報教育、遊撃戦教育の出身将校は、いずれも丙種学生の範疇に属する[10]

特別長期学生

特別長期学生は、乙II短から選抜された学生18人および乙I短などで、外地に勤務した後、選抜されて中野学校に再入学し、1941(昭和16)7月から1942年(昭和17)3月まで教育を受けた5人の学生[10]

丁種

丁種学生は、中野学校の戊種学生出身の下士官を将校とするための制度。修業年限1年で、陸軍兵科における少尉候補者と同趣旨の制度だった[10]

しかし、終戦により制度は実現しなかった[10]

戊種

戊種学生は、下士官候補者出身者を試験により採用した。修業年限1年。[10]

しかし、初期の学生を除いて、実際の修業期間は6-8ヵ月だった[10]

各地の教導学校の中でも優秀な者を試験して採用した[11]

臨時学生

臨時学生は、特殊な目的を持って臨時に召集教育した学生。以下の事例があった。[12]

歴代校長

出典:中野校友会 1978 30,32。同書 pp.30-31,33に学校職員と教官の一覧を載せるが、省略する。

付録

脚注

参考文献

  • 中野校友会 (1978) 中野校友会(編)『陸軍中野学校』中野校友会、JPNO 78015730