後方勤務要員養成所

提供: Yourpedia
移動: 案内検索

後方勤務要員養成所(こうほうきんむよういんようせいじょ)は、1938年8月頃に陸軍省によって東京九段愛国婦人会本部別館に開設された諜報・謀略要員の養成機関。陸軍中野学校の施設・組織が整備されるまでの過渡的な組織として設置された。養成所長は陸軍省兵務局付だった秋草俊中佐。同年1月に陸軍予備士官学校の出身者から採用された第1期生は、平時における海外での長期の 秘密戦や旧満州中国での特務機関活動を想定した教育を受け、また中野の施設の整備や建設にも携わった。翌1939年4月に組織は九段から中野へ移転した。

設置の経緯[編集]

1937年の暮、陸軍省軍務局軍事課長の田中新一大佐が同省兵務局付の秋草俊中佐、福本亀治中佐と参謀本部第8課の岩畔豪雄中佐を招請して協議し、相手国に対して積極的に諜報・宣伝・防諜工作を行うための要員を養成する機関を、陸軍省が中心となって開設することになった[1]

建設委員に任命された岩畔、秋草と福本は、兵務局兵務課室内に委員会を設置し、組織や設置場所、設備、教育内容等について検討を進めた。また満州鉄道守備隊から伊藤佐又少佐が訓育主任に着任した。[1]

用地は中野電信隊跡地に決まったが、校舎の増改築などに時間がかかるため、臨時の教育場として、九段愛国婦人会本部の別館を1939年3月末まで借用することになった[2]

開設[編集]

組織名は勅令で「後方勤務要員養成所」と決められ、1938年1月に陸軍予備士官学校の出身者から第1期生が採用された[3]

1938年8月、秋草が養成所長に就任[4]

愛国婦人会の別館入口には「陸軍省分室」の看板が掲げられていた。教育施設や内容は順次整備された。教官は、陸軍省や参謀本部の関係各課から派遣されて講義を行い、九段以外の場所で外部の講師の講義を聴くこともあった。[3]

教育内容[編集]

後方勤務要員養成所時代の教育内容は、平時における秘密戦、特に海外での長期任務と、旧満州中国の特務機関における活動を想定していた[5]

中野校舎の建設[編集]

養成所の1期生は、中野の旧建物の清掃・改造や、新校舎の配置・改築等にも携わった。本部校舎の新築と旧隊舎の改築の設計は、1期生の山本政義中尉が行った。[3]

中野移転[編集]

中野の校舎の整備が進んだため、九段から中野への移転が決まった。1期生と同様にして幹部候補生隊の出身者から第2期生を採用することになり、(1939年1月頃?)東京・大阪の偕行社などで選考が行われた。[3]

1939年4月、九段の施設の借用期間が終了したため、養成所の第1期生は中野に移り、新施設が未完成だったため、軍用鳩教育施設の改造校舎で教育を受けた。[3]

1939年12月に第2期生が新たに入所し、長期学生は第1期生と同じ改造校舎で、短期学生は新築の校舎で教育を受けた。改造校舎はその後も2年間、長期学生の校舎として使用された。[3]

学生の種類[編集]

後方勤務要員養成所の学生は、甲、乙、丙の3種に分類されていた。[6]

甲種[編集]

中野学校令の制定前に、陸軍士官学校出身者で中野学校に入学を命じられた学生[6]

  • 1甲(中野0.5期生[7]) 5人[8]
  • 2甲(中野1.5期生[7]) 13人[8]

乙種[編集]

予備士官学校卒業生。中野学校令の丙種学生の前身にあたる[6]

  • 1期生 18人[8]
  • 乙I長乙I短(2期生[9]) 40人、67人[8]
  • 乙II長乙II短(中野1期生[9]) 32人、105人[8]

特別長期学生[編集]

乙II短から選抜された学生18人および乙I短などで、外地に勤務した後、選抜されて中野学校に再入学し、1941(昭和16)7月から1942年(昭和17)3月まで教育を受けた5人の学生[6]

丙種[編集]

中野学校令にいう戊種学生(下士官候補者隊出身者を試験により採用した学生)に相当[6]

  • 丙1(2期生[9]) 49人[8]
  • 丙2(中野1期生[9]) 78人[8]

付録[編集]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 中野校友会 (1978) 中野校友会(編)『陸軍中野学校』中野校友会、JPNO 78015730