西村琢磨

提供: Yourpedia
2020年4月29日 (水) 14:59時点における由亜辺出夫 (トーク | 投稿記録)による版 (wiki:ja:西村琢磨 2016年4月16日 (土) 12:01‎の 宇井木辺出夫 による版を転記)

(差分) ←前の版 | 最新版 (差分) | 次の版→ (差分)
移動: 案内検索

テンプレート:参照方法

西村琢磨
Nishimura Takuma.jpg
渾名
生誕地 日本の旗 日本 福岡県
死没地 パプアニューギニアの旗 パプアニューギニア マヌス島
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴 1910 - 1942
最終階級 陸軍中将
部隊
指揮
戦闘 仏印進駐マレー作戦スマトラ作戦
戦功
賞罰
除隊後 1942 - 1945 陸軍司政長官
1947 濠軍裁判での死刑判決により刑死

西村 琢磨(にしむら たくま)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将陸大(32期)卒で、砲兵科を専門とした。軍務局勤務が長く、1933年に五・一五事件軍法会議判士長を務める。1940年に印度支那派遣軍司令官として仏印に進駐、1941年には近衛師団長としてマレー作戦に参加。1942年の予備役編入後も陸軍司政長官としてビルマシャン州政庁長官などを務めた。1947年に英軍裁判でシンガポール華僑粛清事件、1950年に濠軍裁判でパリットスロン事件の責任を問われ、1951年濠軍裁判で死刑判決を受け、マヌス島で刑死。

経歴

福岡県出身。熊本陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、陸軍士官学校(22期)卒業。同期に、松井太久郎牟田口廉也がいる。

1910年 砲兵少尉野砲6附、1913年 同中尉、1919年 同大尉。

1920年 陸軍大学校(32期)卒。

1921年 軍務局附、1922年 軍務局課員。

1923年 関東戒厳司令部

1925年 砲兵少佐

1926年 兵本付

1927年 野砲3大隊長

1929年 由良要塞参謀

1930年 砲中佐、重砲校教官

1932年 兵本付兵務課員

1933年 参本課長。五・一五事件の時には、第一師団特設軍法会議判士長を務めた。

1935年 兵務課長

1936年8月 野戦重砲兵第9連隊長

1938年3月 少将、野戦重砲兵第1旅団長

1939年3月 東部防衛参謀長


1940年9月 印度支那派遣軍司令官として仏印に進駐

同年12月2日 陸軍中将

1941年6月24日 独立混成第21旅団長、同月28日 近衛師団長。

同年12月 第25軍の指揮下でマレー作戦参加。

1942年2-3月 シンガポール占領後、市郊外の掃討作戦を指揮。

同年 スマトラ作戦参加

同年 兵器本廠


1942年7月15日 予備役編入

1943年4月15日 陸軍司政長官に任命。

同年6月20日 ビルマシャン州政庁長官

1944年2月 蘭印スマトラ州知事[1]

軍事裁判

1947年、シンガポール華僑粛清事件で、市郊外の掃討作戦を指揮したとして英軍シンガポール裁判(第118号)で終身刑の判決を受ける。

1950年、濠軍マヌス島裁判(第2号)で、マレー作戦中ムアルの戦いEnglish版後のパリットスロンEnglish版での連合軍捕虜虐殺事件English版の責任を問われ、死刑判決を受ける。

1951年6月11日マヌス島で処刑。

辞世の句「責めに生き 責めに死すのは 長(おさ)たらむ 人の途なり 憾(うらみ)やはする」

家族

脚注

  1. 篠崎 (1978 50)では、ジャワマドラ州長官に転じて終戦となった、としている。
  2. 篠崎 1978 53

参考文献

  • 中田 (2011) 中田整一 [ 最後の戦犯死刑囚‐西村琢磨中将とある教誨師の記録 ] 平凡社新書 平凡社 2011-5
  • ウォード (2005) ウォードイアン 鈴木正徳 [ 将軍はなぜ殺されたか-豪州戦犯裁判・西村琢磨中将の悲劇 ] 原書房 2005-3 4562038799
  • 篠崎 (1978) 篠崎護 現代史懇話会 [ 西村中将の責任感‐戦犯裁判の陰に‐ ] 史 36 1978-4 48-53
  • 大西 (1977) 大西覚 [ 秘録昭南華僑粛清事件 ] 金剛出版 1977-4