妹尾義郎

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妹尾 義郎(せのお ぎろう、1889年12月16日 - 1961年8月4日)は、日本の宗教活動家。1909年に病気のため旧制一高を中退したあと、郷里である広島県東城小学校で代用教員をする中で日蓮宗に入信。1918年に上京して本多日生統一閣に学び、第1次世界大戦後の不況期に労働問題など社会問題への関心を深め、1919年11月に大日本日蓮主義青年団を発足させた。

大正から昭和への移行期には、小作争議の調停に立会い、汎民族運動水平社運動に共鳴して、各地の学校で社会改造への日蓮主義の積極的な関与を訴える講演活動を展開。次第に国家主義資本主義への批判を強め、1930年に日蓮主義青年団を退団。1931年に超宗派的な新興仏教青年同盟(新興仏青同盟)を発足させ、委員長に就任した。

満洲事変以降、日本が戦争へ傾斜していく中で、反戦・反ファッショ運動、無産運動水平社運動に積極的に関与し、地方への支持を広げたが、機関誌が発禁になり、同盟構成員が逮捕されるなど、弾圧を受ける。1936年の2.26事件の後、自身も長期間逮捕・拘禁され、1937年10月に新興仏青同盟は解散を命じられた。

1939年に仮釈放され、その後は皇運扶翼会の活動に参加するなどした。1940年の控訴審判決で治安維持法違反により懲役3年の実刑判決を受け、同年12月から収監される。1942年に結核の症状悪化により仮出所を許され、そのまま自宅療養生活に入る。

戦後、疎開先だった長野県南安曇郡を拠点とし、1948年に仏教社会同盟を結成。再軍備反対・反戦を志向し、宗教的な社会変革を訴え、各地で講演活動を行った。1951年に平和推進国民会議議長などに就任し、1953年に中国からの日本人同胞帰国事業と華人労務者遺骨送還事業に関連して2度訪中した。

経歴

生い立ち

1889年(明治22)12月16日(戸籍上は翌年1月26日)広島県奴可郡東城村字東城(比婆郡東城町下本町)の旧家で、父・為次郎と母・ハルの間に、10人きょうだいの4男として生まれる[1]。家は代々酒造をしていたが、大正期に旅館業に転じた[2]。仏教の宗派は浄土真宗だった[3]

東城小学校から高梁中学へ進学し、卒業後、旧制第一高等学校英文科に入学[4]新潟の校長に私淑する[5]河合栄治郎神川彦松賀屋興宜高木八尺河上丈太郎矢代幸雄薬師寺志光河相達夫らと同級生だった[6]

闘病と入信

1909年(明治42)、2年生の秋、結核と胃腸疾患を煩い、重症化したため、一高を休学して郷里へ戻り、岡山県立病院で療養[7]

1910年(明治43)9月、体調不良や家業の都合により、一高を退学し、母校・東城小学校の代用教員となる[7]。豆腐商・松崎久太郞のすすめにより日蓮宗に入信し、療養生活をしながら信仰を深める[7]。一方で、代用教員時代には聖書を読み、讃美歌を歌いながら生徒やクリスチャンの教師と運動場を歩くこともあった[8]

1913年(大正2)、代用教員を辞職して、東亜同文書院に再度進学[9]。しかし症状が再発し、退学して帰郷[10]

1914年(大正3)、小康を得て台湾へ渡り、専売局に就職[8]。しかし、盲腸炎腸カタルを併発し、帰郷[8]。療養中に肋膜炎を発病し、衰弱する中、身延山参詣を思い立って回国巡礼の旅に出る[8]

1915年(大正4)10月、旅の途中で総社釈尊孤児院を訪れ、院主の日研上人の勧めで同所に滞在して孤児たちの臨時の教師をつとめ、同年12月に得度して学応を名乗る[11][8]。この頃、法華経日蓮の伝記の読解に努める[5]。養生のため油木温泉で湯治生活をし、湯治場の主人が国柱会の信者であったことから、田中智学の『国柱新聞』を読むようになる[12]

1917年(大正6)、東城で「日蓮主義鑽仰会」を組織[5]。同年、仏教者として身を立てることを決意し、田中智学に師事することを考えて、大阪在住の国柱会幹部・中平清次郎を便り、田中への紹介状を得る[13]

大日本日蓮主義青年団

1918年(大正7)3月、田中智学を頼って上京するも面会を謝絶され[14]、師事を受け入れられた本多日生に私淑して、統一閣で日蓮主義の習得と実践に励む[15]。この頃の妹尾は、日生の皇室中心主義、国家至上主義的な思想や、仏教統一論の影響を強く受けていた[16]

第1次世界大戦後の不況にあって、労使問題への関心を深め、統一閣で子供向けの日曜学校を開くなど、社会運動的な実践を志向。1919年11月に小林智道若林不比等らと大日本日蓮主義青年団を発足させ、1920年9月に機関誌『若人』を創刊した。[17]

1920年(大正9)、東城小学校の代用教員時代から交際していた、同校教員の斎藤文代と結婚。同年12月に長男・鉄太郎誕生。[18]

1921年(大正10)1月に著書『光を慕ひて』発刊。地方で日蓮主義青年団の組織化が進む。同年、山梨県や長野県で伝道のための講演を行い、同年末から翌年にかけて『若人』普及のため朝鮮・満洲を旅行。[18]

1923年(大正12)頃から各地で水平社運動小作争議が発生。1924年に、特に小作争議が頻発した山梨県で、鏡中条稲穂村の争議の調停に立ち会う。アンリ・バルビュッス『光明(クワルテ)』や細井和喜蔵女工哀史』などを読んで、小作農・労働者救済志向を強め、ロマン・ローランの『ガンジー伝』を読んで求道的態度に感銘を受ける。[19]

1926年(大正15・昭和元)、朴烈事件や天皇行幸に伴う朝鮮人・水平社同人への弾圧強化、浜松日本楽器の労働争議、安部磯雄社会民衆党結成などを受けて、社会改造への日蓮主義の積極的な関与を志向[19]。1927年から1928年にかけて、各地の学校で講演活動を続ける[19]。従来の資本主義に対する批判色を強め、国家主義や単なる博愛主義を批判するようになり、支持者だった資本家層の幹部が離反し始める[19]

7月3日 雨

午前9時半から11時まで倉敷紡績万寿工場で講演した。多数の女工さんたちに神妙に労働せよとのみ、いふことの心苦しさを感じる。もし神妙にはたらくなら、それは資本家には何よりも好都合なお説教であらうけれども、さうしたことをのみ叫ぶにはわしの心もあまりに社会正義に敏である。(…)あの女工さんたちの前に立って、頭があがらぬやうな気がした。ほんとうに命がけの労働だ、そのおかげでわしらは生きてゐるのだぞ。

妹尾義郎 1927年(昭和2)7月3日の日記の中で[20][21]

1930年(昭和5)、『若人』2月号の「巻頭言」で、高松宮が百万円で新邸を造営したとの新聞報道を引き合いに、建国の理想の賛美に疑問を呈したことや、掲載論文「信愛は斯く動く」、「求道日記」の筆致が反資本主義的だったことについて、日蓮主義青年団を財政面で支援していた実業家・上田辰卯から批判を受け、同団の退団を決意[22][23][24]

新興仏教青年同盟

1931年(昭和6)4月、超宗派的な仏教運動集団として新興仏教青年同盟を発足させ、委員長に就任[22]。体制仏教を批判したため迫害を受け、また財政面での有力な支持者を失い、窮乏する[22]

1932年(昭和7)、前年の満州事変勃発、同年の上海事変を受けて、同盟の機関誌『新興仏教』で反戦を訴え、しばしば発禁になる。同盟員の中に共産主義運動による逮捕者が出る。[22]

1933年(昭和8)2月、同盟の理論的支柱となったパンフレット『社会変革途上の新興仏教』発行。林霊法山本清嗣辻本英太郎辻孝平谷本重清らの中央委員や地方支部幹部が積極的に活動して同盟への支持を広げ、会員は反ファッショ無産運動、水平社運動に積極的に参加した。[25]

1934年(昭和9)、同盟で「平和のための講演会」を開催。加藤勘十高野実ら無産運動関係者との連携が深まり、同年9月に東交ストを支援して、亀戸署に拘禁される。1935年に加藤勘十がアメリカ労働総同盟の招待を受けて渡米することになり、旅券下付のための保証金1,500円を用立て、『労働雑誌』の編集責任者となって刊行と資金繰りを支援。仙台や岡山で無産系県議の選挙応援をし、自身も衆議院への出馬を勧められるが謝絶。特高や憲兵の監視を受ける。[26]

弾圧と転向

1936年(昭和11)2月の2.26事件の後、同月29日に加藤勘十や仏青同盟員の松浦武雄とともに目白署に逮捕され、1ヶ月余り拘禁される[27]

同年5月、反ファッショ人民戦線(無産団体協議会)に同盟全体として参加。同年6月、妹尾は東京府会議員選挙に立候補するも、落選[27][28]

同年12月7日早朝、妹尾が発行責任者の1人となっていた『労働雑誌』に関連して、治安維持法違反容疑で目白署に検挙される[28][27]。以後、1938年(昭和13)12月14日の保釈まで、2年余にわたり留置・拘禁される[27]。 この間、1937年暮に同盟本部の幹部12人が検挙され、翌年5月にかけて、同盟本部・支部の幹部や機関誌の購読者など約200人が検挙された[29]

1939年(昭和14)5月30日から1審の公判開始。1933年1月の同盟の第3回全国大会に妹尾が提出した議案に私有財産制の趣旨が盛り込まれており、同盟がそれを方針として採択したことが治安維持法違反にあたるとして、同年8月に東京地裁で妹尾が懲役5年、林霊法と壬生照順が懲役3年の実刑判決を受けた。[30][31]

同盟関係者は、逮捕者のうち100人余が起訴され、地方では一審で実刑判決を受けて服役する者も出たが、妹尾らは控訴して争った[31]

検挙後の妹尾の日記には、それ以前の時期とは一変して、国策順応、国体讃美の文章が書き連ねられるようになる[32]

この間、1939年9月に、内山若枝日高輝忠の訪問を受け、内山から裁判の弁護士を紹介されるとともに、翌1940年の紀元節をメドに発足が予定されていた皇運扶翼会への参加を促される[33]。1940年2月11日に行われた同会の結成式や、同年3月上旬に同会主催で鎌倉光明寺の「禊道場」で行われた荒行、その後引き続き東京・東伏見で行われた講習に参加[34]。しかし扶翼会総裁・中島知久平の講話を聞いて神道以外の宗教への不寛容を難点とした[35]

控訴審では、1審の検事調書作成時に妹尾に対する自白の強要があり、私有財産制の否定を同盟の方針には採択していなかったとして争ったが、1940年11月2日の東京控訴院の判決で、妹尾は3年の実刑判決を受け、上告はせずに同年12月9日から収監された。林・壬生は執行猶予となった。[30][31]

獄中で結核のため喀血し隔離された後、1942年(昭和17)7月に急性肋膜炎を併発し重症となったとして仮出所を許され、東大病院分院に入院[36]。同年9月に退院した後、仮出所のまま自宅で療養する[36]。回復後、上田辰卯の経営する工場で、工員や勤労動員学徒のための講話をする仕事を委嘱される[37]

1943年(昭和18)12月、長男・鉄太郎が学徒出陣。翌年、次男・孝も入隊する。1945年3月、東京大空襲に遭う。同年7月、長野県南安曇郡に疎開。[38]

戦後

1946年(昭和21)、農園つきの家を求めて南安曇郡小倉村へ移住。講演で次第に多忙となり、同年12月には林霊法、壬生照順らと「新宗教同盟」を結成。1947年(昭和22)3月、娘・妙子が結核のため死去。[39]

1948年(昭和23)、仏教社会同盟を結成し、委員長に就任[40]。翌年までに全国的な仏教改革の新連盟も結成され、戦前の同志だったJ・ブリンクレーと各地で講演[40]。この頃発生した、下山事件三鷹事件松川事件などの一連の事件を革新系弾圧のための陰謀ととらえ、日本社会党への入党を考える[40]

1950年(昭和25)6月、朝鮮戦争が勃発。再軍備の動きに反発し政治参加を考えるが、宗教的な社会変革に専念し、各地で講演活動を行う[40]

1951年(昭和26)8月、平和推進国民会議議長。日中友好協会東京都連合会長、日朝協会会長などを引受ける。破壊活動防止法治安維持法の復活とみて反対運動を推進。[41]

1953年(昭和28)、3月、在中国同胞帰還出迎えのため、同年7月に戦時中花岡鉱山で死亡した抑留中国人の遺骨送還のため、中国を2度訪問。2度目の訪中では、日中友好協会を代表して、戦時中に宗教者として抵抗に徹し得なかったことを懺悔し謝罪し、友好への新しい道を開こうとする声明を発表した。[42]

晩年

帰国後、胸部疾患が悪化し、その後は療養生活を送る。1956年3月に松本市城山の国立療養所に入院。入院中の1959年12月に秘かに共産党に入党。1961年3月18日に退院。同年7月上旬から長野県下小倉の家に病臥した。[43]

1961年8月4日に自宅で死去。享年71。同月11日に松本市の竜興寺で告別式が行われた。[43][44]

著作物

著書

  • 1921年 『光を慕ひて』
    • 改版:中央出版社、1925年、NDLJP 983422 (閉)
  • 妹尾 (1974a) 妹尾鉄太郎・稲垣真美(編)『妹尾義郎日記 第1巻』国書刊行会、1974年、JPNO 73020137
  • 妹尾 (1974b) 妹尾鉄太郎・稲垣真美(編)『妹尾義郎日記 第2巻』国書刊行会、1974年、JPNO 73020138
  • 妹尾 (1974c) 妹尾鉄太郎・稲垣真美(編)『妹尾義郎日記 第3巻』国書刊行会、1974年、NCID BN01797570
  • 妹尾 (1974d) 妹尾鉄太郎・稲垣真美(編)『妹尾義郎日記 第4巻』国書刊行会、1974年、NCID BN01797570
  • 妹尾 (1974e) 妹尾鉄太郎・稲垣真美(編)『妹尾義郎日記 第5巻』国書刊行会、1974年、NCID BN01797570

雑誌記事

  • 大日本日蓮主義青年団『若人』1920年9月 - 1931年3月
  • 新興仏教青年同盟『新興仏教』1931年9月 - 1933年8月
  • 新興仏教青年同盟『新興仏教新聞』1933年9月 - 1937年12月

付録

脚注

参考文献

妹尾の著書については、#著作物の項を参照。