三浦一郎
三浦 一郎(みうら いちろう、1904年12月1日 - 1975年6月13日)、三浦 大莧(みうら たいけん?)、三村 三郎(みむら さぶろう)は、日本の宗教活動家、右翼活動家。1920年に青森県から上京して西村大観の指導を受け、西村の死後、心王教本院の2代主監となる。1930年代初めに左翼活動から転向して右翼団体・勤王維新同盟を組織し、国家革新運動に参加。1933年7月の神兵隊事件の後、朝鮮半島へ逃れ、手あて治療をしながら皇学研究所(のち皇風社)を組織。1938年頃から皇道大本に傾倒。日本統治下の朝鮮で東学系の侍天教や世界紅卍字会京城道院にも関与し、朝鮮文人協会結成を支援した。戦後は大本の宗教法人・愛善苑の設立・運営に携わった。また1950年に日猶懇話会を設立し、日猶同祖論に関する著書を執筆した。晩年は明治鍼灸柔道整復専門学校で鍼灸・理学療法を学び、同校講師を務めるなど、東洋医学の研究・普及活動を行った。
経歴
生い立ち
1904年(明治37)12月1日、青森県南津軽郡大鰐温泉町字八幡で、父・三浦善助、母・あぐりの間に、次男として生まれる[1]。
1910年(明治43)、小学校に入学。この頃、父の蔵書の中にあった呪術の本を読み、書中にあった呪符を患部に貼り、その上に手を当てて「治療」する実験を試みる。また小学校6年生頃、金田万次郎という催眠術師の講演を聴いて「治療」に催眠術を応用し、呪符を使わずに手を当てるだけでも「治療」が可能だと信じるようになったという。[1]
小学校卒業後、王仁中学校へ進学。12歳の頃から父の影響で岡田式静坐法を毎日実施し、その後も、河合式強健法、肥田春充の強圧微動術、石塚左玄の玄米療法の本などを読む。また叔父の影響で日蓮宗を信仰して法華経を暗誦したり、禅の語録を読んだりしていた。[2]
心王教本院
1920年(大正9)、17歳の頃、西村大観の『心源術講義録』に惹かれ、西村の直接講習を受けるために上京。上京後は西村の住居に寄寓していたとみられ、大正12年9月の関東大震災の後、西村が心王教本院を創立した(東京都葛飾区)本田町篠原から日本大学文学部宗教科に通学。西村の養子となり、1928年(昭和3)に西村が没した後、遺言により心王教本院の2代主監となる。[3]
時期不定で、左翼活動を行っていたが、1929年 - 1930年頃、右翼に転向。「民間維新運動者の会合所」となっていた神田の道了堂に出入りし、皇道派の秦真次や大川周明と面識を得る。[4]
1930年(昭和5)10月、『生産機関を返上せよ』を出版。発禁となる。[5]
1931年(昭和6)3月、日本大学卒業とともに『奪還か奉還か、生産機関返上論』を公刊[6]。遠藤友四郎、長沢九一郎、大森一声、石渡山達らと面識を得て、遠藤が主宰していた雑誌『日本思想』で小磯国昭らを批判。大森や永井了吉らと勤王維新同盟を組織し、右翼国家革新運動に参加した。[6]
1930年 - 1931年頃、大本に興味を持ち始め、大本の教典である『大本神諭』に言及のある「九鬼大隅守」について研究[7]。
朝鮮半島へ
1933年(昭和8)7月、天野辰夫らの愛国勤労党から勤王維新同盟へクーデターへの参加の打診があったが、勤王維新同盟は参加を謝絶。クーデター計画が事前に漏れて未遂に終わった後(神兵隊事件)、神兵隊による報復をおそれ、心王教とその付属諸団体を自主的に解散して朝鮮半島へ避難した。[6]
京城府明治町2丁目(のち京城三坂通231)に転居し、手あて治療をしながら、「皇学研究所」を開いて国学の講義をした。のち、皇学研究所を「皇風社」に改組し、機関誌『皇風』を発行。[6]
1935年(昭和10)、今泉定助の紹介で、朝鮮軍司令官として赴任してきた統制派の小磯国昭を訪問し、以後厚遇を受ける。[6]
1938年(昭和13)頃から大本に傾倒し、京城から頻繁に日本に帰国して東京・大阪・神戸の大本関係者と交際。大本関係の文献を渉猟しながら、大本事件についての情報も収集した。[7]
1939年(昭和14)秋頃から、講演・執筆・読書を止めて、大本文献の読破に専念。朝鮮民族学研究会を設立し、大本の信者の散逸を防ごうとした(?)。[7]
また東学系の侍天教に関係し、1940年-1941年頃には世界紅卍字会京城道院に入信。朝鮮文人協会の結成を支援し、のち道院の責任院監、責任会監となった。[7]
1942年(昭和17)秋に、板垣征四郎や小磯国昭の肝煎りで「大東亜宗教圏」について道院の壇訓(扶乩)を仰ぐ催しが行われたときには、只左直道、金鎬顕らとともに新京の道院から張海鵬の一行を案内した[8]。
また朝鮮総督府の警察官講習所の講師や、逓信局の嘱託、京城中学院の先生を務め、神代史の関係では中里義美の主宰する神日本社の機関誌『神日本』に寄稿し、小寺小次郎を中心とする「神代文化研究所」の京城支所長を引き受けるなどした[9]。
1942年頃以降、朝鮮半島での事蹟は明らかでなく、1941年-1942年頃、帰国した日本で和歌山県を講演旅行したこと、竹内文書の裁判を大道重次と水戸まで傍聴しに行ったこと、大道が設立した立山道場の竣工式に九鬼隆治とともに出席したことなどがわかっている[10]。
同年頃、東京軍人会館で開かれた「太古史研究会」に出席[10]。
1942年-1943年頃、インド人工作に関与して日高みほ子とともに林銑十郎を訪問[10]。
1944年(昭和19)5月14日、内田文吉と共に警視庁に検挙され、東京神田錦町の警察署に留置される[10]。連日警視庁から特高警察が派遣され、(剣山問題を中心にユダヤ問題について取り調べを受け、)小磯国昭との関係について追及を受けたという[10]。同年7月20日に小磯に組閣の大命が下り、同月23日に小磯・米内連立内閣が成立した後、警視庁へ送られ、同年8月8日に釈放された[11]。
その後、兵庫県警察本部に検挙され、神戸の林田警察署に留置され、取調べを受ける。松本寅彦が保釈金を支払うなどして、約2ヶ月後に釈放される。その後、終戦直後まで、松本から生活費の支援を受けて生計を立てていた。[12]
戦後
戦後、1945年中に朝鮮半島から日本へ引揚げ、大本教団(愛善苑)の発足準備に参加[13]。愛善苑は1947年(昭和22)1月22日に宗教法人として発足し、三浦は大本の編集課長、史実編纂部長、大道場講師、教学部次長、大道場長、教学委員などを歴任した[14]。
また日猶同祖論者として、藤沢親雄の日猶関係研究会に参加。1950年(昭和25)に日猶懇話会を設立して日猶親善運動を行い、『世界の謎・日本とイスラエル』(1950年、日猶関係研究会)、『ユダヤ問題と裏返して見た日本歴史』(三村 1953 )などの著書を執筆した。[14]
1960年(昭和35)4月に発足した「大本70年史編纂会」に編集委員として参画。1964年(昭和39)に『大本70年史』上巻、1967年(昭和42)に同書下巻を発刊した[14]。
晩年
1965年(昭和40)4月に明治東洋医学院・明治鍼灸柔道整復専門学校の第2鍼灸科(夜間部)、1967年(昭和42)4月に、同学校の理療科に入学。同年9月に鍼灸科を卒業し、国家試験に合格した。[14]
1968年(昭和43)4月から、明治東洋医学院に講師として迎えられ、鍼灸科・柔整科で7年間にわたり「医学史」の講義をした[14]。
1969年(昭和44)3月、理療科を卒業し、国家試験に合格[14]。「伝統医学研究所」を創設し、東洋医学の臨床と研究、普及活動を行った[15]。同時期に、京都刑務所の教誨師を務めた[14]。
1975年(昭和50)6月13日深夜、亀岡で死去。享年72。[14]
著書
- 三浦 (1986) 三浦一郎『九鬼文書の研究 新装版』八幡書店、1999年、ISBN 978-4893502018
- 初版:八幡書店、1986年
- 三村 (1953) 三村三郎『ユダヤ問題と裏返して見た日本歴史』八幡書店、1986年
- 初出:日猶関係研究会、1953年
- 新装版:八幡書店、2000年、ISBN 4893500163
- -(1950) -『世界の謎 - 日本とイスラエル』日猶関係研究会、1950年
- 三浦(1939) 三浦一郎『皇道概要』皇風社本部(京城)、1939年[16]
- -(1938) -『皇典』皇風社本部(京城)、1938年、[16]
- -(1936) -『古事記の新鑑賞』会通社、1936年、NDLJP 1219510
- -(1935) 三浦一郎大莧『救済の大粥生命の雄叫び』皇風社(京城)、1935年
- -(1934) 三浦大莧『かむながら医学 - 神道精神発揚』(全4巻)心王教本院、1934年、巻1:NDLJP 1026686 巻2:NDLJP 1137352
- -(1931) -『奪還か奉還か、生産機関返上論』労農維新社、1931年、NDLJP 1273453
- -(1930) -『生産機関を返上せよ』勤王党創立準備会、1930年、NDLJP 1439784
- 西村・-(1929) 西村大観(創案)、-(編輯)『心王霊医学基本教科書』1929年
- 復刻版:八幡書店、2014年、ISBN 978-4893507341
書誌情報不明
以下は、森 (1986 18-19)に三浦の著書として言及があるが、書誌情報未詳。
- 『古事記神代巻』
- 『神代文字論』
- 『大祓祝詞講義』
- 『霊癒の科学』
- 『手あて療法』(『新健康法』と改題)
- 『真の世界連邦とは』
- 『日本医道発達史』
- 『支那医学史』
- 『健康法発見』
- 『あなたにもすぐできる手あて療法』
付録
脚注
- ↑ 1.0 1.1 森 1986 12
- ↑ 森 1986 12-13
- ↑ 森 1986 13
- ↑ 森 1986 13-14
- ↑ 森 1986 14。同書は書題を『奪還か奉還か、生産機関返上論』で出版時期を「11月頃」としているが、国立国会図書館サーチの検索結果に拠った。
- ↑ 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 森 1986 14
- ↑ 7.0 7.1 7.2 7.3 森 1986 15
- ↑ 三村 1953 265
- ↑ 森 1986 15-16
- ↑ 10.0 10.1 10.2 10.3 10.4 森 1986 16
- ↑ 森 1986 16-17
- ↑ 森 1986 17
- ↑ 森 1986 17。『新健康法』の「著者紹介」による。
- ↑ 14.0 14.1 14.2 14.3 14.4 14.5 14.6 14.7 森 1986 18
- ↑ 森 1986 18。谷口健蔵「東洋医学に全霊を注がれた三浦先生のご晩年を偲んで」による。
- ↑ 16.0 16.1 森 1986 18-19
参考文献
- 三浦の著書については#著書の項を参照
- 森 (1986) 森克明「『九鬼文書』の周辺」三浦一郎『九鬼文書の研究 新装版』八幡書店、1999年、ISBN 978-4893502018
- 初版:八幡書店、1986年