スクールカースト

提供: Yourpedia
2018年9月20日 (木) 07:26時点におけるGALAXY (トーク | 投稿記録)による版

移動: 案内検索

スクールカースト(または学校カースト)とは、現代の日本学校空間において生徒の間に自然発生する人気の度合いを表す序列を、インドなどのカースト制度になぞらえた表現。もともとアメリカで同種の現象が発生しており、それが日本でも確認できるのではないかということからインターネット上で「スクールカースト」という名称が定着した。

初出は2006年11月18日の衆議院「青少年問題に関する特別委員会」で参考人となった本田由紀による紹介だが、人口に膾炙するようになったのは教育評論家森口朗が著書『いじめの構造』で2007年に紹介し、その後教育文芸批評の文脈で議論の対象とされるようになってから。

スクールカーストの構造

現代の学校空間では、クラス内にいくつかの友達同士のグループが形成され、それらの内部で活発に交流が行われるだけで人間関係が完結する現象がみられる。社会学者宮台真司は(教室内に限らず若者のコミュニケーション空間全般で発生しているこの変容を)島宇宙化と呼び、分断された各グループ(島宇宙)は優劣のつけられない横並びの状態になっており(フラット化)、異なるグループ間でのつながりが失われたと論じた。

これについて教育学者本田由紀評論家荻上チキは、分断化自体は認めながらも、教室内の各グループは等価な横並び状態にあるのではなく序列化(上下関係の付与)が働いていると述べている。この序列はスクールカーストと呼ばれ、精神科医和田秀樹は、現代の若者は思春期頃に親から分離した人格を得て親友をつくっていくという発達プロセスを適切に踏むことができていないため、同じ価値観を持つ親友同士からなる教室内グループを形成することができず代わりにスクールカーストという階層が形成されたのだとしている。スクールカーストでは、上位層・中位層・下位層をそれぞれ「一軍・二軍・三軍」「A・B・C」などと表現する。

一般的なイメージとしては、以下のようになる。

森口朗によれば、スクールカースト上での位置決定に影響する最大の特性はコミュニケーション能力である。クラス内でのステータスの上下関係自体は以前からあったものの、それは運動神経や学力が大きく関係したものであり、そうではなく判断基準がほとんどコミュニケーション能力に依存している点がスクールカーストの新しい点であるといえる。

ここでいうコミュニケーション能力とは、具体的には「自己主張力(リーダーシップを得るために必要な能力)」「共感力(人望を得るために必要な能力)」そして「同調力(場の空気に適応するために必要な能力)」の3つをさす。和田秀樹によれば、コミュニケーション能力の有無に偏重したスクールカーストという序列が発生した背景には、学業成績の相対評価を廃止するなど生徒に対する序列付け自体を否定するような過剰な平等主義があり、「学業成績」「運動能力」といった(努力で挽回可能な)特性によるアイデンティティを失った子供たちは「人気(コミュニケーション能力)」という(努力で挽回不可能な)特性に依存した序列付けを発生させてしまったのだという。カーストの規定要因については、本田由紀が統計分析を用いて具体的に研究している(後述)。

スクールカーストの格差は小学校ぐらいまでは目立たないが、思春期(中学校ぐらい)から顕著にみられるようになる。大学に入ると高校までのように常に同じ教室内で生徒同士で時間を過ごすのではなく自由に講義を履修するようになるためスクールカーストな人間関係は薄れていくと考えられるが、実際には(後述するようないじめに発展するような熾烈な事態にはならないにせよ)場の空気を読むことが強制されコミュニケーション能力が過大評価されるような高校までの環境の延長線上にあるような大学も多い。

和田秀樹によれば、スクールカーストによる階層化には地域差が存在するという。スクールカースト化は人間関係の流動性が低く閉鎖的な場(いざというときに逃げられない状況)で起こりやすい現象であるため、具体的には以下のような地域ではカースト化が進みにくいと考えられる。

  • 学習塾への通塾率が高い地域 - 塾という学校とは別の場が用意されているため
  • 中学受験への意識が高い地域 - 受験によって別々の学校に進学し友人関係がリセットされるため
  • (公立中学校の)学校選択制がある地域 - 受験しなかったとしても、友人関係のリセットが行われるため

今、中学や高校の教室内には、見えない地位の差がある

今、中学や高校の教室内には「見えない地位の差」がある。同学年なのに“上下”のグループ分けが出来上がり、全員がそれを受け入れる。

「スクールカースト」と呼ばれるこの差別的な悪しき文化はどのようなものなのか。

「『下』には騒いだり、廊下で笑ったりする権利が与えられていないんです」

高校時代、自分が下位グループだったという女子学生は、生徒のグループごとに上位・普通・下位のランクがあり、ランクに応じた「権利」が決まっていたと語る。

「下」は「上」の主張に異議を唱えられない。授業中にいきなり先生に話しかけていいのは「上」だけ。行事などの準備が面倒くさければ「上」は帰れるけれど「下」はダメ……。そんな暗黙のルールがあるという。

「下」が廊下で騒いだりすれば「上」から目を付けられ、教室内でお喋りをするなどの「今ある些細な権利」すら奪われかねなかったと、この女子学生は振り返った。

同学年で対等なはずなのに、「あの子たちは『上』で、あの子たちは『下』」という序列を生徒たちが認識・共有する。これを「スクールカースト」と呼ぶ。

2000年代後半に教室内で下位グループだった子供たちがインドのカースト制度になぞらえて鬱積する不満をネット上に書き込んだことで広まった言葉だとされる。

彼らはクラス内でお互いのグループを「1軍、2軍、3軍」「A、B、C」などと呼び合う。スクールカーストの陰湿な点は、地位の差がいわゆる「購買でパン買ってこい!」といったシーンのように露骨に表出しないところにある。

上位陣にはもれなくこういう取り巻きがついてくる

だから教師ら大人には把握しづらい。聞き取り調査では、「下」が「上」の反応を“予期”して行動していることがわかる。

例えば、放課後の掃除は雑巾がけや箒、机移動など分担作業で、教師から見ればそれぞれ自らやっているように映る。しかし、つらい真冬の雑巾がけは、下位グループの生徒が引き受ける。

「お前が雑巾をやれ」と「上」から指示されるわけではなく、あくまで自発的に、自分の役回りであることを予期してやるのだ。

女子高生の場合、化粧する子も少なくないが、「下」は自分が化粧して「上」から目をつけられないかを考え、相応しくないと判断すれば、したくてもやらない。

何か行動を起こす際に不利益になる可能性を予期する人たちがいることによって、強い権力構造が成立する。スクールカーストでは、「上」の顔色を窺い、「下」の生徒はやりたくないことでも進んでやるようになる。“地位”に見合った行動を取るようになるのだ。

努力しても序列の逆転は不可能に近い。クラス替えを契機に「イケてるキャラ」に変わろうとしても学年で情報は共有されていて、すぐバレる。

そもそも、一生懸命努力することはカッコ悪いという意識があり、キャラを変えようと容姿に気を遣って“イメチェン”に必死になる姿は嘲笑の対象とされるのだ。

いじめとの関係

場の空気を読んで摩擦・衝突を回避しながらポジションをさぐりあうという教室内における生徒たちの人間関係に対する緊張感は、しばしば戦場に喩えられる。評論家荻上チキは(後述するようなキャラをコントロールしながら行うコミュニケーションの闘争を)「(終わりなき)キャラ戦争」と呼び、評論家の宇野常寛も「ケータイ小説好きの女子」と「美少女ゲーム好きの男子」というように文化的トライブを異にする者同士が(場合によっては互いに軽蔑しあいながら)共存する学校教室を、ポストモダン化の進行によって複数の異なる価値観が乱立する「バトルロワイヤル状況」のミクロな意味での象徴だとしている(詳しくは後述)。また、社会学者土井隆義は中学生が創作した「教室はたとえて言えば地雷原」という川柳をスクールカースト的な一触即発の環境を端的に表現したものとして紹介している。

こうしたシビアなコミュニケーション環境・「マサツ回避の世代」と表現されたりするもので、哲学者アルトゥル・ショーペンハウアーの寓話であるヤマアラシのジレンマに相当するともいえる。場合によってはいじめを誘発して生徒を自殺に追い込むなどの深刻な事態を引き起こす背景にもなっており、もともと森口朗が著書『いじめの構造』にてスクールカーストを紹介したのは、教育社会学者の藤田英典による理念的ないじめの分類に当事者間で使用されている概念を組み合わせてリアリティを補強することが目的であった。

いじめは基本的にはスクールカーストが下位のものを対象として行われるが、最上位のカーストの者が最下位のカーストの者をいじめるといった落差の大きいものはあまりなく、同一カースト内か隣接するカーストの者が対象となることが多い。生徒が形成している各グループ内部で行われるいじめについては、グループ間の移動の可能性はカースト上位ほど容易であることから、カースト下位のグループほどいじめが発生しやすい(自分がいじめの対象となりそうな兆候があっても別グループへ離脱できないため)。

いじめとカーストの関係は、いじめの加害者(被害者)になることによってカーストが上昇(下降)するという面もあり、両者は相互に干渉しあっている。いじめには示威行為としての側面があるため、特にもともと多くの生徒が内心では嫌っていた相手に対して先陣を切っていじめを始めた場合などは人気の獲得によってカーストが上昇する。他方、加害者側と同等以上にカーストの高い別の生徒あるいは教師などの介入によってクラスのモラルが回復した場合(いじめが恥ずべき行為であるとの意識が共有された場合)、いじめ加害者のカーストが下降することもある。中立者(いじめの直接的な加害者でも被害者でもない人)が被害者の救済を試みた場合、成功すればヒーローとしてカーストの上昇が期待できるが、失敗した場合はカーストの下降の危険性(さらにそれと付随して次は自分がいじめの新たな対象となる可能性)がある。また、年少者の間ではいじめが発生していることを教員に密告する(チクる)ことは、不名誉なことであるとされているため、そのことが知られればカーストは下降することになる。

和田秀樹は、スクールカーストに依拠したいじめの発生を精神分析家のウィルフレッド・ビオンによる集団心理の理論によって説明している。それによれば、集団における無意識(基底想定グループ)には、集団内に自己が位置づけられることによる不安を解消するための手段として「依存グループ(リーダーに全責任をゆだねて不安から逃れる)」「つがいグループ(幸福なカップルへの期待感によって不安から逃れる)」「闘争・逃避グループ(共通敵を想定して不安から逃れる)」という3つのパターンがあるが、スクールカーストの構造は「カースト下位者」という共通の敵を設定していじめの対象とするという意味で「闘争・逃避グループ」の反応であると考えられる。

携帯電話インターネット環境の普及によって、例えば学校裏サイトプロフなどを舞台としたネットいじめ社会問題化しているが、ネット上で誹謗中傷などの対象となるのも(通常のいじめと同様に)概ねスクールカーストの下位者となる。

キャラ的コミュニケーション

現代の日本の若者は、各自の実際の性格だけではなく場合によっては場の空気による暗黙の圧力で配分される「キャラ」を演じてコミュニケーションをとるというスタイルが定着しており、教室内は例えば「不思議ちゃんキャラ」「毒舌キャラ」のような様々なキャラがひしめきあう状態となっている。こうした環境はスクールカーストの形成やいじめの発生と密接に関係しており、スクールカーストという序列は各々の「キャラ」に対して行われる格付けであるともいえる。

うまくキャラを確立できた者が勝利するという構造は日本の芸能界におけるお笑い芸人の生存競争にみられるものであり、与えられたキャラを演じる若者の作法は日本のお笑い番組バラエティ番組における彼らのやりとりの影響を強く受けている。ほかにも、ゼロ年代末から急速に支持を集めた女性アイドルグループであるAKB48の運営戦略と受容の構造も、「コミュニケーション能力(≒人気獲得力)によって決定される序列」が「キャラの分化を促進する」という意味でスクールカーストの持つ構造と一致するものである。

荻上チキは、スクールカーストによるキャラの序列化を「コミュニケーションの地形効果」として説明している。地形効果とは、ウォー・シミュレーションゲームにおいて戦闘キャラクター自身の属性とそれが位置している場所(地形)の属性の相性に良し悪しによって戦闘能力にプラスまたはマイナスの修正が与えられるということであるが、これと同じように現実世界のコミュニケーション空間でもどのような場にどのようなキャラの人が存在しているかによってその位置づけは変わるのであり、例えば「学校空間」という場では「根暗キャラ(インキャラ)な人はマイナスの修正を受ける」というような地形効果を影響を受けていると考えられる。

キャラおよびスクールカーストの可変性について、森口朗は(前述したようにいじめの発生に付随した行動によってカーストの上昇/下降がみられることを指摘しながらも)新しい学年の始まる4月~5月頃のポジション取り(カーストの決定)が基本的には次のクラス替えまで1年間保存されるとしている。

土井隆義精神科医斎藤環荻上チキらは学校空間でのカーストの固定性が強いことや固定化がいじめへつながる危険性を持つことを認めながらも、キャラ自体は周囲の状況に応じて切り替えられていく可変的なものであることを指摘しており、評論家宇野常寛によると、いわゆる空気の読めない人は自己のアイデンティティを「~である」という固定的な自己像に対する承認によって獲得しようとするが、現実には「~した」という具体的な行動によって他者からの人物像が形成されるのであり、現代社会の流動性の高いコミュニティにおいてキャラクターは自身のコミュニケーションによって書き換え可能であるという。荻上チキは、一般に個人が複数のキャラを持っており場面に応じてそのどれかひとつを決めてそれを演じる「キャラ分け」が行われているとしている。このキャラの可変性に注目した論考を行っている。それらを踏まえた評論家の海老原豊の論によれば、カースト/キャラが可変性と不変性を併有しているのは、その位置決定にかかわるコミュニケーション能力そのものが、具体的な対人関係の中で成長させることが可能ではあるが、家庭環境のような(当人にはコントロール不可能な)外的要因の影響も受けるという二面性を持っているからであるとしている。そして、そもそもカースト/キャラの可変性の前提となっているのは現代におけるメディア・テクノロジー環境の変化をもたらした個人の固定的な身体性(階級・生育環境など)の抑圧であり、その箍が外れたときに(あたかも本物のカースト制度のように)「本来あるべきカースト」への固定化が働くと考えられる。

統計調査

本田由紀は、2009年~2010年に神奈川県公立中学校の生徒2874名に対してアンケート調査を行った。そのデータを元に分析すると、「高位・中位・低位・いじられ{{#tag:ref|「人気がある」「馬鹿にされている」という一見すると相反する評価を周囲が受けている「いじられキャラ」のことで、道化のように、からかわれる(=いじられる)ことによって人気を得ている。「いじり」はコミュニケーション操作系いじめにつながりかねない否定的な側面も持っており、例えばスクールカーストものとして頻繁に引用される小説『りはめより100倍恐ろしい』のタイトルは、「いじ」は「いじ」よりも恐ろしいという意味である。森口朗は、スクールカーストを規定するコミュニケーション能力の3要素のうち、「同調力は高いが共感力と自己主張力が低い」ものがいじられキャラのポジションにおさまるとしている。

さらに、性別学力生きる力(自主性・主体性・論理性)・(家庭の)経済資本・(家庭の)文化資本・クラス内友人数・(普段一緒に行動する)友人の固定性・部活動(運動系か文化系か)といった要素がカーストの位置決定にどう影響しているかをロジスティック回帰分析によって調べている。それによれば、(「中位」を基準として)「高位」に位置する典型的な生徒像は「友人数が多くてかつ固定的で生きる力が高く学力も高め」、「低位」に位置する生徒像は「文化資本は豊富だが学力は低めで友人数は少なく文化部所属の男子」、「いじられ」に属する生徒像は「友人数が多くてかつ固定的で生きる力と文化資本が豊富かつ学力は低めの男子」となる。

また、本田由紀はカーストが「(学校での)友人関係」「教師との関係」「将来像(進路希望)」と関係しているかどうかも調査している。友人関係について、学校生活で自分の本心に反して求められているキャラを演出したりするかという質問への肯定的な回答は、「上位」と「中位」が同程度で、それより「低下」が高く、さらにそれより「いじられ」が高くなっている。教師との関係については、「上位」「いじられ」の生徒が他と比べて教師と積極的にコミュニケーションをとっている[1]。将来像については、「高位」「中位」「低位」の順に大学進学の希望率が下がる。

スクールカーストもの

教室内での人間関係をめぐる駆け引きを描いた物語(小説)は、「スクールカーストもの」(スクールカースト小説)といわれ、ゼロ年代頃から日本では若手作家による純文学ライトノベルの分野で存在感を保っている[2]。中には著者自身が実際に学校空間で体験したことが反映されていると考えられるものもあり、ドキュメンタリー的な面もある。

宇野常寛は、21世紀に入った頃からアメリカ同時多発テロ事件小泉内閣主導の新自由主義路線(聖域なき構造改革)といった社会状況の影響により、それまで(1990年代後半頃)の日本のポップカルチャーで優勢だった引きこもりがちな自意識の葛藤を描く作風(いわゆるセカイ系)から「価値相対的な過酷な状況を自分の力で生き延びる」という「サヴァイヴ系/バトルロワイヤル系」の作風に物語のパラダイムシフトが起こっていると論じており、一連のスクールカースト小説も後者の想像力のひとつに位置づけている。宇野の議論によれば、大きな物語(社会全体に共有されるような特権的な価値観)が失墜しポストモダン化の進行した現代社会では個人が自力で拠り所とする小さな物語を決断的に選び取らなければならない状況に陥っており、無数に散在する小さな物語(島宇宙)の内部において、自分がその共同体に帰属していることを確認するための自己目的化したコミュニケーション(社会学者北田暁大がいうつながりの社会性)が繰り返されているという。そして、それを現実認知として描けばスクールカーストものも属するバトルロワイヤル系の想像力となり、逆に消費者の欲望に合わせて理想化させて描けば(スクールカーストものと同様にしばしば教室空間を舞台としてつながりの社会性が顕在化したコミュニケーションの連鎖が描かれる)空気系の想像力になると考えられる。

社会学者中西新太郎は、(主にライトノベルなどを参照しながら)日常圏に侵食する社会圏の困難を描く想像力をシャカイ系と呼んでいるが、若者にとって日常の大半の時間をすごすことになる学校空間も、人間関係からの隔離という危険と隣り合わせの「社会」に変貌しつつあるとしている。

以下では、スクールカーストに言及した論考などで参照されたことのある小説(ライトノベルを含む)を挙げる。

脚注

注釈

関連項目

参考文献

  • 『学校の「空気」 (若者の気分) 』79-80頁。
  • 『ゼロ年代の想像力』114頁。