杉浦正健

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日本の旗 日本 前衆議院議員 
杉浦正健
生年月日1934年7月26日(2024-1934)+((11-7)*100+(23-26)>=0)-1歳)
出生地日本の旗 日本愛知県岡崎市
出身校東京大学
学位/資格経済学士、弁護士
前職会社員
所属予算委員会理事
世襲
選挙区愛知県第12区
当選回数6回
所属党派自由民主党清和政策研究会
党役職国家戦略本部事務局長
国家ビジョン策定委員会委員長代理
愛知県第12選挙区支部長
部屋番号衆・第一議員会館424号室
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杉浦 正健(すぎうら せいけん、1934年7月26日 - )は、日本政治家自民党所属の前衆議院議員愛知県岡崎市出身。

1986年、前年に死去した中野四郎元国土庁長官の後継者として、総選挙に旧愛知4区から出馬し初当選した。

2005年10月31日に発足した第3次小泉改造内閣では法務大臣に就任した。小泉純一郎の側近中の側近[1]といわれていた。現在は中川秀直の側近とされている。

年譜[編集]

  • 1934年 - 愛知県岡崎市に生まれる。
岡崎市立矢作南小学校、岡崎市立矢作中学校を経て

発言[編集]

機密費流用事件[編集]

外務副大臣に就任した2001年パラオ大使館の会計担当職員が公金を不正流用し、1年間の停職処分を受けていたことを外務省が隠蔽していた問題について、記者会見で「職員の将来を思い、武士の情け、人情で了解した」と発言し、公表しないよう要請した事務当局の意向を受け入れたことを認めた。さらに「隠蔽という言葉は不適当だ。公表しないことをもって、隠蔽とは言えない」と語るとともに、今後、同様の不祥事が発覚した場合も「(公表は)ケース・バイ・ケースだと思う」と発言。

北朝鮮拉致事件[編集]

内閣官房副長官在任中の2004年5月30日、北朝鮮による拉致被害者の曽我ひとみと北朝鮮に残る家族との再会が果たせぬままであることに関し、国防委員長金正日からの「北京での再会」提案を曽我が容認したとする主旨の発言をした。しかし曽我からは「北京以外で再会したい」との声明が出された。

死刑廃止[編集]

弁護士出身で、また真宗大谷派の信徒であることから、2005年の法務大臣就任時に「死刑執行のサインをしない」と発言した(1時間後に撤回)。法務大臣在任中の2006年9月にも法務省側から提示された死刑執行命令書への署名を拒み、小泉純一郎の自由民主党総裁任期満了に伴う内閣総辞職の同月26日まで死刑は執行されなかった。1993年に後藤田正晴が法務大臣として死刑執行を再開して以来、死刑執行命令書に署名しないまま退任した法務大臣としては最長在任記録である。

杉浦は死刑執行命令書に署名しなかったことついて、「死刑反対論者ではないが、信条に従った」と述べている[1]。また死刑制度については「国際社会で、大きな流れでは廃止の方向に向かっている。終身刑の導入をはじめ、セットにならないといけない」と述べている[1]

なお、刑事訴訟法第475条は、法務大臣は判決確定から6ヶ月以内に死刑執行命令を発令するよう規定しているが、事実上死文化している。
詳細は 日本における死刑 を参照

ライブドア[編集]

ライブドア証券取引法違反再発防止策の作成に現職検察官検事法科大学院教授)が助言していた問題に対し、2006年2月28日、杉浦は「法的には問題ないが、好ましくはない。検事という身分はわきまえてもらわないと」と批判した。

2006年4月27日、前ライブドア社長堀江貴文保釈を受け、杉浦は「(保釈直後の)あの姿を見たら、再起してもらえるんじゃないかという印象を受けた」「元気そうだ。本を(拘置所で)200冊も読んだんでしょ。すごいね。まだ若いし、裁判をきちっとやってほしい」と発言した。

文仁親王妃紀子の出産[編集]

2006年9月6日文仁親王妃紀子の出産について、「男子が誕生されるのを期待していますけどね。ご無事であることを祈っています」と前日の記者会見にて述べた。宮内庁長官羽毛田信吾は、「出産を控えた妃殿下の気持ちを考えると、軽々におっしゃるのはいかがなものか」とする遺憾の意を宮内庁長官秘書官を通じて杉浦に伝えたことを、9月12日の定例記者会見で発表した。

少年法[編集]

2006年8月28日に発生した山口女子高専生殺害事件で、容疑者とされ行方不明だった19歳の男子学生の実名と写真を一部の週刊誌が掲載したことについて、9月8日に「少年法の関係で事実関係について調査し対応を検討している。いずれ報告があると思うので、そのうえで対応を決めたい」と述べた。また、行方不明の男子学生が自殺体で発見されたあとの実名報道には「表現の自由ということはあるが、少年法の趣旨や少年の家族のことも考えると、プライバシーとの関係で問題がないのかどうかと問われると、ないとも言えない感じがする。難しい問題なので事実関係をよく調べて対応を決めたい」と述べた。 本人は衆議院法務委員長を務めていた当時、厳罰化による少年犯罪の抑止を盛り込んだ少年法の改正を手掛けている。

道路交通法の厳罰化[編集]

飲酒運転の厳罰化、ひき逃げの厳罰化に対し、非公開ながら甥がひき逃げされた事件があったので、抑制的な発言をした。

これに対し警察庁長官漆間巌(当時)はひき逃げや飲酒運転の厳罰化に積極的であり、「ひき逃げの罰則を強化する方向で検討すべき」と発言している。道路交通法は2001年にひき逃げの罰則を5年以下の懲役、または50万円以下の罰金に引き上げているが、漆間は「効果が出ていない」としたうえで、罰則強化を明らかにした。警察庁は、現行の懲役5年以下の罰則を懲役10年以下まで引き上げることも選択肢として検討を続けている。「みのもんたの朝ズバッ!」(TBS)にてこの問題が取り上げられ、司会のみのもんたから「法務大臣を漆間長官に代わってもらえないか」などと発言があった。

人物[編集]

政界入りは52歳の時で、国会議員になる前は県議、市議の経験もなかった。1986年の衆院選で、前年に急逝した中野四郎元国土庁長官の後継として初出馬したが、同じ清和研の代議士だった小泉純一郎に応援演説をしてもらっている。この時は他にも中野四郎の後継者を名乗る無所属候補(中原義正)も現れたため、票の一部が流れる結果となったが、定数4の選挙区中3番目の得票順位で当選を果たした。

穂積五一の影響を受け、学生時代には東京大学アジア学生友好会を設立するなど国際協力活動に熱心で、アジア文化会館、通産省所管の海外技術者研修協会(AOTS)などの設立にもかかわったことから、東南アジア圏の国際協力に詳しい議員と言われている。

主な所属議員連盟等[編集]

脚注[編集]

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 中村宰和 (2009年11月18日) 中村宰和 杉浦元法相:「悔いはない」…引退表明、後継者は指名せず 毎日新聞 [ arch. ] 2009年11月21日

関連項目[編集]

先代:
南野知惠子
法務大臣
2005 - 2006
次代:
長勢甚遠
先代:
細田博之
内閣官房副長官(政務担当・衆)
次代:
長勢甚遠