日本語学校

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日本語学校(にほんごがっこう)とは、主に日本語を母語としない者を対象として、第二言語外国語としての日本語教育を実施する機関。日本国内外に存在している。

日本国内では、法務省より告示を受けた日本国内における日本語教育機関を特にさし、入学者には在留資格留学」が認められる。第二言語として日本語(JSL)を学ぶ留学生が主な対象となるが、必ずしも外国人に限られるものではなく、帰国子女なども対象となりえる。逆に、外国籍であっても日本語を母語とする者は対象とならない。

1980年代の中曽根内閣による留学生十万人計画によって日本語学校が多く設立されたが、当初より大学等への進学を前提とした留学生が多数を占めており、大学の留学生別科と並んで、日本語学校は高等教育機関に進学するための準備として日本語を学ぶ機関としての性格が強かった。しかし、2016年現在では留学生の目的も大学・大学院・専門学校等への進学のみならず、就労や日本文化体験など多様化している。

偽装留学生の脱法行為を助長する「悪質日本語学校」の実態

コンビニエンスストア飲食店…。

労働現場で見かける外国人の姿はいまや珍しいものではなくなった。人口減少にあえぐ日本を支える貴重な戦力となっている一方で、労働市場に紛れ込む偽装留学生の存在も問題視されている。そして、彼らの脱法行為を助長しているとみられるのが、「教育」の看板を悪用する「悪質日本語学校」である。東南アジア諸国での留学ブームに乗って日本語学校の数が今年、過去最多を更新した一方で、「悪質校による不正の事例も目立ってきている」(法務省関係者)。

「学校とは名ばかり。実態は、出稼ぎ目的で来日する偽装留学生の駆け込み寺のようなものだった」

警視庁幹部は、平成29年4月に同庁が摘発した事件についてこう振り返った。入管難民法違反(資格外活動幇助)で逮捕・起訴されたのは練馬区の会社役員の男(53)。

男は東京都豊島区東池袋で日本語学校を運営。平成28年11月、この学校で20代の中国人男子留学生を社員として雇用しているように偽装し、在留資格を「留学」から就労が可能な資格に不正に変更するのを助けた。男は平成24年4月から平成28年6月まで、同様の不正行為を繰り返し、「報酬として1人当たり60万~100万円を受け取っていた。これまでに60人以上から計5300万円以上を得ていた」(警視庁幹部)とされる。

「不正に在留資格を変更した外国人留学生は、男の学校で『身分』を買い、首都圏の居酒屋やコンビニなどで働いていた」(同)。

平成28年11月には、群馬栃木両県警が、留学生を違法に働かせたとして入管難民法違反(不法就労助長)で、栃木県足利市の日本語学校を摘発した。

この学校は平成27年9月~10月、生徒だった20代のベトナム人男子留学生2人を系列の労働者派遣会社で雇用し、違法な長時間労働に従事させていた。

続発する「悪質日本語学校」による不正行為。背景にあるのは、日本語学校の急増だ。そもそも日本語学校とは、学校教育法に基づいて定められた大学や専門学校のような教育施設とは別に、法務省の告示を受けて設置される日本語教育機関を指す。法務省によると、学校数は平成27年に、2年の統計開始以来初めてとなる500を超えて522校となった。翌28年には568校で過去最多を更新。平成29年はさらに増え、3月末の時点で606校に達した。

ベトナムネパールなどの東南アジア諸国では日本への留学がブームとなっている。政府が留学生の受け入れを拡充していることもあり、日本語学校の学校数は7年連続での増加となった」(法務省関係者)。

ただ、乱立する日本語学校の一部では留学生の不法就労を黙認するなどの不正行為も横行している。先に挙げた学校のように、留学生を違法に働かせたり、在留資格の不正更新に加担したりするなどして警察当局に摘発される事例が相次いでいる。

「日本語学校の粗製乱造が不正の温床になっている側面もある」と入管関係者は指摘する。

悪質な日本語学校が増える背景として、政府の方針との関連を指摘する声もある。政府は平成20年、当時14万人台だった留学生を32年までに30万人に倍増させる「留学生30万人計画」を発表。これに伴い22年には、「就学」と「留学」の在留資格の「留学」への一本化や、留学生の就労時間を「週14時間」から「週28時間」に倍増させる法案を盛り込んだ改正入管法を施行させた。在留資格の取得条件も緩和され、受け入れの間口を広げたことが留学生数の増加につながった一方で、就労を目的とする“偽装留学生”の流入も増えたものとみられる。

先の入管関係者は、「悪質校を排除するためには、法務省による告示条件の厳格化やチェック体制の強化などの対策を講じるべきだ」と指摘している。

歴史

  • 1896年 - 嘉納治五郎により設立された宏文学院が設立された。
  • 1983年 - 中曽根内閣によって留学生十万人計画が発表され、日本語学校が続々と設立された。その多くが個人または商法法人による設立であった。
  • 1988年 - 上海事件がきっかけとなり、「日本語教育施設の運営に関する基準」(文部省)が発表された。
  • 1989年 - 日本語教育振興協会が任意団体として設立された。
  • 1990年 - 文部省、法務省、外務省の許可を得て財団法人日本語教育振興協会(日振協)が設立された。同年、日本語教育施設の審査、認定事業を開始。同年、出入国管理及び難民認定法が改正されて、日本語学校生のための在留資格「就学」が新設された。
  • 2000年 - 文部省が日本語教育施設の審査・認定に関する告示を廃止。
  • 2001年 - 法務省が日本語教育機関の審査・認定事業者として財団法人日本語教育振興協会を認定。この審査・認定事業者は日振協に限られないはずであったが、事実上、日振協の独占状態となっていた。そのため、審査・認定費用と別に会費を徴収する問題などが発生した。
  • 2008年 - 7月29日、文部科学省によって留学生30万人計画策定(福田康夫内閣)。
  • 2010年 - 5月24日実施の政府行政刷新会議事業仕分け(ワーキンググループB 事業番号B-38)において評価がなされた。その結果、日本語学校の審査は必要だが、日本語教育振興協会を廃止し、日本語学校の質の保証については法務省入国管理局が行うことが適切であるとされた。
  • 2010年 - 7月1日より在留資格「留学」と「就学」が「留学」に一本化された。ただし、日本語教育機関における在籍期間の上限は合計2年までである。
  • 2016年 - 7月22日、法務省入国管理局が「日本語教育機関の告示基準」を策定。文部科学省高等教育局及び文化庁文化部の意見を容れた上で、新たな告示基準が示された。2017年8月1日に施行。

ロシアの日本語学校

1696年ロシア帝国カムチャツカ半島に漂着した大坂出身の日本人伝兵衛は、ウラジーミル・アトラソフ探検隊に保護された後、モスクワロシア皇帝ピョートル1世に拝謁した。日本の事情について聞いたピョートル1世は日本語学校の設立を命じ、1702年に伝兵衛を教師とした日本語学校が設立され、1705年にはサンクトペテルブルクに移転した。その後、1710年に1名、1728年薩摩出身の2名の日本人漂流民が新たに教師となり、薩摩出身の権蔵(ゴンザ)は日本語学校長ボグダノフとともに世界初の露日辞典を作成した。

1744年南部藩の多賀丸が千島列島温禰古丹島に漂着し、生存した10名はイルクーツクに送られた。そのためロシア政府はイルクーツクに日本語学校を新設し、10名はイルクーツクで洗礼を受けてロシアに帰化したのち、日本語教師となった。ロシアがこのように日本語教育に熱心であった理由は、シベリアの慢性的な食糧不足を日本との交易によって解消しようとしたためで、1778年厚岸松前藩の役人と会談したパベル・レベデフ=ラストチキンは、多賀丸漂流民から日本語を習った通訳を伴っていた。多賀丸漂流民10名は1786年までに全員病死し、その後は多賀丸漂流民の遺児たちと教え子によって学校は維持されたが、生徒数は数人に減り、廃校寸前となった。

1789年1783年アリューシャン列島に漂着した大黒屋光太夫ら5名がイルクーツクに到着した。ロシア政府は光太夫一行に対し、ロシアに帰化して日本語教師になることを勧めるが、キリル・ラクスマンの支援を受けた光太夫の嘆願により、帰国が許可された。しかし、イルクーツクで結婚して帰化した新蔵と、病気になり洗礼を受けて帰化した庄蔵は現地に残留し、そのうち新蔵は日本語教師に就任している。

1794年仙台藩若宮丸がアリューシャン列島に漂着し、生存者15名はオホーツクに送られた。ここで若宮丸漂流民15名は3グループに分かれてイルクーツクに送られることになり、善六辰蔵儀兵衛の3名が最初にイルクーツクに到着した。3名の世話には新蔵と日本語通訳のトゥゴルコフがあたったが、新蔵たちは善六に目をつけて熱心に説得し、ロシアへの帰化と日本語教師就任を了承させた。善六は他の2人の説得を試み、辰蔵もロシアに帰化するが、帰国を強く望んでいた儀兵衛だけは洗礼を拒否したため、両者の仲は険悪になった。その後、後続の者もイルクーツクに到着するが、帰化と日本語教師就任に応じたのは2名のみであった。1803年、若宮丸漂流民の帰国許可が下り、津太夫ら4名は帰国し、9名はロシアに残留した。帰国者の送還に善六はロシア側随員として同行することになり、この航海途中に善六はニコライ・レザノフとともに露日辞典を作成している。

その後もイルクーツクの日本語学校は、新蔵や善六の手によって運営されたが、両者の死後である1816年に閉鎖され、ロシアにおける日本語教育は1870年まで途絶えることとなった。

参考文献

関連項目

外部リンク