北大路魯山人
北大路 魯山人(きたおおじ ろさんじん/きたおおじ ろざんじん、男性、1883年3月23日 - 1959年12月21日)は日本の芸術家である。本名は北大路 房次郎(-ふさじろう)。京都府京都市上賀茂(現・京都市北区)出身。
篆刻家、画家、陶芸家、書道家、漆芸家、料理家、美食家など様々な顔を持っていた。
略歴[編集]
上賀茂神社の社家・北大路清操、とめの次男として生まれる。6歳の時に竹屋町の木版師・福田武造の養子となる。10歳の時に梅屋尋常小学校を卒業し、京都烏丸二条の千坂和薬屋(現:千坂漢方薬局)に丁稚奉公に出る。25歳の時、中国北部を旅して書や篆刻を習う。
1921年に長浜の素封家・河路豊吉に食客として招かれ、書や篆刻の制作に打ち込む環境を提供された。ここで魯山人は福田大観の号で小蘭亭の天井画や襖絵、篆刻など数々の傑作を当地に残している。そして敬愛する竹内栖鳳がしばしば訪れる紫田家の食客になることが叶い、訪れた栖鳳に款印を彫らせてもらうよう願い出る。その款印を気に入った栖鳳が門下の土田麦僊らに紹介したことで日本画壇の巨匠らとの交わりが始まり、名を高めていくことになった。
1922年、福田家の家督を長男に譲り、自身は北大路姓に復帰。その後も長浜をはじめ京都・金沢の素封家の食客として転々と生活することで食器と美食に対する見識を深めていった。そして1929年に会員制食堂「美食倶楽部」を発足[1]、自ら厨房に立ち料理を振舞うなどしながらそこで使用する食器や料理を自ら創作していた[2]。
戦後は「美食倶楽部」の拠点・星ヶ岡茶寮が人手に渡るなど不遇な生活を過ごすが、1954年にロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催される。翌1955年には重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるもこれを辞退。1959年に肝吸虫[3]、つまりいわゆる肝臓ジストマとも呼ばれた寄生虫による肝硬変のため死去。
脚注[編集]
- ↑ それ以前の1925年3月20日には東京永田町に料亭「星ヶ岡茶寮」を創業した。「美食倶楽部」発足と同時に同倶楽部の本拠となる
- ↑ 美食家として名を通した割にフランス料理への評価は低く、渡仏に訪れた著名な鴨料理店で「ソースが合わない」と持参したわさび醤油で食べたこともある
- ↑ 肝吸虫は魯山人の好んだタニシから寄生したとする論説もあるが、肝吸虫の第一中間宿主となるのは人間の食用にならず真のタニシ類とは縁の遠いマメタニシであり、なおかつヒトへの感染はマメタニシからセルカリア幼生が移動した第二中間宿主のフナやコイ、モロコのようなコイ科魚類の生食から起こる。食用となるタニシの体内の幼生には肝吸虫の幼生は存在せず、魯山人への推定感染経路は別に求めなければならない
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 魯山人の足跡をたどって - 石川新情報書府
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