鄭明析
鄭 明析(チョン・ミョンソク、Jeung Myung Seok、1945年2月17日 - )は、韓国の宗教家。宗教団体「キリスト教福音宣教会 (宗教団体)」の創始者。
概略
鄭明析の子供の頃は家計が苦しかったようで、兄の鄭インスク牧師(Jeung In Suk、河南中央聖潔教会担任)によれば、 明析の上の二人の兄は 高校を出たが、明析は小学校教育しか受けていないそうである。 鄭明析は若い頃、ベトナム戦争に二度、従軍した経験を持つ。 韓国のみならず、台湾・香港・中国・日本・マレーシア・イタリア・アメリカなど、世界中に会員がいる。
事績
鄭明析は、その故郷(韓国 忠清南道 錦山郡 珍山面 )に自然聖殿を開発し、その名を月明洞(ウォルミョンドン)という。 鄭明析の説教を聞きに来る会員の数が増えるに従い、多くの人が集まって自由に祈り、神様に賛美し、栄光を帰して走り回れる場所が必要となったことにより、数年間、全国津々浦々を巡り、自然の中に天の聖殿を作ろうと希望を抱くようになり、自分の故郷を開発した。 鄭明析自ら開発の先頭に立ち、作業を行い、1989年7月から、250名の会員と共に茂っている雑草を抜き、荒れた畑を整理して、若者たちとサッカーやバレーボールが出来る運動場をつくる。 その後、運動場の周りにコンクリートのスタンドをつくる予定だったが、運動場を自然の岩の造景で囲み、楽に座れる場所にする。建てられた岩の造景を見て、専門家たちは、「人間の力では到底つくることができない作品だ」と感嘆したという。そのほか、池、八角亭、木や花、薬水場など多くの作品たちは、訪れる人たちにまるで天国にいるかのように感じさせる景観となっている。 1999年1月出国間際まで開発作業に従事しており、その後も海外宣教の最中、インターネット中継による開発を続けた。
作品
鄭明析は、創作活動にも熱心で、多くの芸術作品を残している。その多くは詩と絵画であって、今までに著した数は計り知れない。詩は、詩集として数冊発行されており、絵画は信者達にプレゼントしたり、各教会に飾られたり、何よりも彼の最大の傑作品とも呼べる、聖地『月明洞(ウォルミョンドン)』の美術館に数多く展示されている。 また彼の著した絵画である、『運命』という題名の作品が、2011年、アルゼンチン・アートフェアにおいて代表作品として選考されたという。 そして2013年に発刊した詩集「詩の女」と「詩で語る」は教保文庫の詩部門において1位と2位になっている。 また数万におよぶ箴言を残しており、出版されているものもあるほか、詩集や陶芸品等、ジャンルは多岐に及ぶ。
来歴
- 1945年
- 1951年6歳にして神を求めたという。
- 1955年小学校4年のときに、葬式を出している家で、遺体を洗って埋葬するのを目の当たりにして、人生の虚無を悟ったという。
- 1966年(21歳)
- 軍隊に入り、ベトナム戦争に2度従軍する。
- 1969年(24歳)
- 9月 軍役を終え、故郷で過す。
- 年代不詳
- 1978年(33歳)
- ソウルにおいて福音を伝え始める。
- 1983年(36歳)
- 1985年(38歳)
- 「ウェスレー神学院」を開設。
- 日本に宣教師を送る。
- 1998年(53歳)
- 10月 父、鄭Palsungが他界。
- 2007年
- 5月 中国・北京市内で公安当局に身柄を拘束される。韓国の捜査当局は中国政府に身柄の引き渡しを要求。
- 2008年
- 1月 中国国務院が鄭明析の身柄の引き渡しを正式決定。
- 2月 韓国に送還され、ソウル拘置所に収容される。マレーシア、中国、香港の女性信者5名に対する強姦致傷の罪で韓国検察により起訴される。
裁判および有罪判決の問題点
月刊誌「民政」によると、裁判中、原告の証人の有効性に疑問がある複数の理由が挙げられている。代表的なものに以下がある。
- 原告の一人は当初の訴えについて、偽証であったと告白しており、法廷が刑罰を警告してさえも、その原告は他の原告も同様に、強姦の事実はなかったと宣言している。[1]
- 法廷は証拠によらず、証人の証言のみで有罪判決をくだしている。[2]
- 2006年のEXODUSによって開かれた記者会見において、4人の素性不明な女性が、治療が必要なほどJMSに暴行を行われたと申し出た。しかし、訴訟を手助けしたEXODUS代表はJMSに「J総裁、私はあなたを陥れ、中傷し、スキャンダルを広め、あなたを深く傷つけてしまったことを深くお詫びします。」と謝罪文章を書いている事実がある。[3]
外部リンク
- 摂理の公式サイト日本の摂理教団サイト。
- 摂理のポータルサイト摂理のポータルサイト。