鏡子の家
『鏡子の家』(きょうこのいえ)は、三島由紀夫の長編小説。執筆時期である昭和30年代初頭の、いわゆる「戦後は終わった」と言われた「時代」を描いた作品で[1]、登場人物同士が絡み合うことなくストーリーが進んでいく「メリーゴーラウンド方式」の構成となっている[2]。当初、市川崑監督で映画化の話もあったが[3]、実現には至らなかった。
名門の資産家の令嬢・鏡子のサロンに集まってくる四人の青年たち――世界の崩壊を信じる貿易会社のエリート社員、私立大学の拳闘選手、天分豊かな童貞の日本画家、美貌の無名俳優――といった面々の生の軌跡を描き、美の追究者なるが故にそれぞれにストイシズムを自らに課し、他人の干渉を許さない彼らの生き方を、朝鮮戦争が終わった後の頽廃した時代相の中に浮き彫りにした作品である[2]。
『鏡子の家』はその評価如何を問わずに問題視される作品で、三島由紀夫という作家の生涯のパースペクティブが可能になった現在において、より読者の側を挑発してくる重要なテクストと見なされ[4]、その作品論も数多い。
目次
発表経過
1958年(昭和33年)10月、雑誌『聲』創刊号に1章と2章途中まで掲載された後、翌年1959年(昭和34年)9月20日に書下ろしで新潮社より「第一部」「第二部」の2冊で単行本刊行された。現在は合冊で新潮文庫より刊行されている。翻訳版は2002年(平成14年)にイタリアのマティルデ・マストランジェロ訳(伊題:La casa di Kyōko)が行われている。
第一部の起稿日は1958年(昭和33年)3月17日で、脱稿日は翌年1959年(昭和34年)1月3日、第二部の起稿日は同年1月5日で、脱稿日は同年6月29日である。約1年3ヶ月の執筆期間の間、三島は原稿用紙にして947枚書いており、単純計算すると、1日2枚のペースだが、その間、お見合い、結納、結婚式、新婚旅行、家を新築、子どもの誕生など、私生活の多忙があり、実際には1日に3 – 5枚のペースだったとされている[5]。
作品概要
「個人」を描いた『金閣寺』で、非常に高い評価(第8回読売文学賞ほか)を受けた三島であるが、『鏡子の家』は執筆時期である昭和30年代初頭の、いわゆる「戦後は終わった」と言われた「時代」を描いた作品である[1]。三島は、『鏡子の家』の主人公は、「人物ではなくて、一つの時代である」[1]としている。また、『潮騒』や『金閣寺』のような、地方に残る古風な日本を描いたのではなく、すべての物語は東京やニューヨークを舞台にして展開する[1]。三島は、「四人の青年が、鏡子といふ巫女的な女性の媒(なかだ)ちによつて、現代の地獄巡りをする。現代の地獄は、都会的でなければならない。おのづからあらゆる挿話が、東京と紐育に集中するのである」[1]と自作を紹介している。
また、『鏡子の家』執筆中の同時期に書かれた公開日記『裸体と衣裳』(新潮 1958年4月 - 1959年9月まで連載)の中では、「いはば私のニヒリズム研究だ。ニヒリズムといふ精神状況は本質的にエモーショナルなものを含んでゐるから、学者の理論的研究よりも、小説家の小説による研究に適してゐる」[6][7]とも自作解説している。
三島は、『青の時代』、『禁色』、『沈める滝』などでも青年を書いてきたが、いずれも自身が青年を十分に卒業していない時代に書いた失敗作だったとし、今度は自身が通り過ぎた青年時代を書こうと試みたという[8]。
構成
『鏡子の家』の特色は、四人の青年が同格の主人公であり、「鏡子の家」のサロンの友人であるというだけで、各々が絡み合うことがなくストーリーが進んでゆく「メリ・ゴオ・ラウンド方式」の構成となっている[2]。
青年主人公たちはお互いの運命に干渉せず、影響を受けることもなく、物語は一定の時間内に、彼らの運命が上昇し、そして下降する四本の平行線条を描くことで成立し、ヒロインも彼らの運命に何の影響も及ぼさず、彼女は彼らがやって来たときに、彼らが自分の姿をそこに見る鏡の役割しか勤めない[2]。彼ら四人がそれぞれの生活の圏を持ち、その圏の拡大や収縮が走馬燈式に描かれ、磨かれた文体のリズムに乗って、展開し旋転してゆくという簡潔さと複雑さとを一挙に収めた構成となり、これが読者に“現代”のヴィジョンを与える印象となっている[2]。
あらすじ
夫と別居し、8歳の娘の真砂子と四谷信濃町で気ままに暮らす30歳の友永鏡子は、戦後の焼け跡の時代が忘れられないでいる。鏡子は常に焼け跡の都市の記憶、「廃墟」としての都市の記憶をとどめ、そのような視点から眺めることが、鏡子の認識の方法だった。彼女の家に出入りする年下の友人たち、商社マンの杉本清一郎、ボクサーの深井峻吉、売れない俳優の舟木収、日本画家の山形夏雄らにも、鏡子は焼け跡の残映のようなものを感じている。娘・真砂子は父が戻ってくるのを密かに望み、縁なし眼鏡の父の写真をときどき取り出し眺めていた。
四人はそれぞれ、「壁」の前に立っていると感じていた。それが時代の壁であるのか、社会の壁であるのかわからない。「俺はその壁をぶち割ってやる」と峻吉は思っていた。「僕はその壁を鏡に変えてしまうだろう」と収は思っていた。「僕はその壁を描くんだ。壁が風景や花々の壁画に変わってしまえば」と夏雄は思っていた。そして、清一郎は、「俺はその壁になるんだ。俺がその壁自体に化けてしまうことだ」と思っていた。清一郎は世界が必ず滅びるという確信を抱きつつ世俗を生きている。彼らは「鏡子の家」に集う仲間というだけで、お互いを助けたり、力になったりすることはない。鏡子は他人の自由を最大限に容認して、誰よりも無秩序を愛していながら、誰よりもストイックだった。
四人の青年は、それぞれの道で成功を掴む。清一郎は副社長の娘・藤子と結婚し、ニューヨークへの転勤が決まった。峻吉はプロに転向し、第一戦をKOで飾る。痩せて貧弱な体で役のつかない収は、ボディビルで筋肉をつけ逞しくなった。夏雄の描いた「落日」は展覧会で評判になり、新聞社の賞を受け有名になった。
しかし四人に不幸や転機が訪れる。夏雄は突然スランプに陥り、絵が描けなくなった。世界が崩壊するという体験に襲われ、霊能者の許に出入りし、食事と睡眠を切りつめて衰弱してしまう。収は、自堕落な母の借金のために高利貸しの中年女社長に身売りし、サディスティックな遊戯のうちに、この醜女と心中してしまう。峻吉は全日本チャンピオンまで登りつめたその晩に、つまらないチンピラとの喧嘩で拳を砕かれ再起不能となり、右翼団体に入る。清一郎の妻・藤子は孤独なニューヨークでの生活に耐えられず、同じアパートの同性愛者の米人男性と関係をもってしまう。清一郎は少なからず傷つくが、動ぜず終始、妻にやさしく振舞う。
やがて、夏雄は水仙の花を見つめるうちに、自分と水仙とが堅固な一つの同じ世界に属していると感じ、辛くも立ち直る。そして、メキシコに絵の勉強に旅立つこととなり、別れに鏡子は、童貞の夏雄と肉体関係を持つ。
財産を使い尽くした鏡子の許に、夫が帰ってくることになった。四人の青年が来なくなった「鏡子の家」に、鏡子の夫が、七疋のシェパードとグレートデンを連れて帰ってくる。広い客間はたちまち犬の匂いに充たされた。
作品評価・解説
『鏡子の家』は発表当時に、非常に評価の分かれた作品で、文壇では失敗作とする評価が多かった[5]。この作品は三島が相当に力を入れ書いた作品であったため、この不評は三島にとって、かなり堪えたとされ、以後の歩みに少なからぬ影響を与えた[9]。しかし一方で、澁澤龍彦が、三島宛ての手紙で、「(この小説の本意を理解している)批評家が、日本には三人といないでしょう」と、理解しきれない評者が大半であったことを指摘し[10]、共感を感じる好きな作品だとしている[11]。徳岡孝夫も、「『鏡子の家』が、実は、私は大好きである」[12]と述べている。
佐伯彰一は『鏡子の家』について、登場人物の「ぶつかり合いが起こらない」として、低評価を与えているが[13]、三島の「創作ノート」では、人物間の絡み合う場面がいくつか構想されていた。それらは皆廃案とされたのである[14][5]。井上隆史は、「人物が複雑に絡み合うことのない展開は、相応に考え抜かれた構成なのであって、この点を考慮することなしには、『鏡子の家』に対する充分に行き届いた理解も、意味のある批判も不可能であるように思われる」[15]と述べている。
佐藤秀明は、「四人の人間が干渉し合わないというのも、今の目から見れば、現代的な人間関係のあり方を早くも捉えていたと言える」としながら[5]、村松剛が言うところの「四人の人物を圧迫するような他者がいない」[16]といった指摘は、作品の表層を撫でただけの批評のように感じられるとし[5]、評者たちが言う「人物間の葛藤がないこと」や「強大な他者の不在」は、登場人物の「危機」に物足りなさを感じたことの別の表現ではないかと解説し[5]、「彼らの危機は、一様に“ニヒリズム”と呼ぶことができる」[5]とし、「そのニヒリズムの芽を彼らは待ち続け、より大きな破壊を待望していた気配はある」[5]という見解を示している。
中元さおりは、まず、なぜ三島は鏡子たちが冒頭で訪れる場所を、勝鬨橋から晴海の埋立地にしたのか、また、強く鏡子の目をひきつける空間として明治神宮外苑があるのかということに注目し、そこが戦前戦中の日本を支えた場所(勝鬨橋は“帝都の門”として国家の威光を証明すべく皇紀2600年(昭和15年)に建設され、万博会場へのゲートとして位置づけられていた)であったことなど、その場所の歴史の変遷を鑑みている[17]。そして鏡子たちがそこを訪れた時、この地は、未だ米軍の占領地であり、敗戦の記憶が生々しく残っている場所だとし、「敗戦を期にその絶対者(天皇)は退場を余儀なくされ、アメリカの支配のもと不在の中心を抱えることとなった戦後の日本の姿が、この空間に刻み込まれている」[17]と解説している。
そして中元は、やがて今度はそこが、日本の復興と高度成長期の到来のシンボルとして現代的なデザインを採用した公団住宅(晴海高層アパート)へと変貌してゆくことを指摘し[17]、それを予感する鏡子たちにとって、そのことは、「戦後の混乱期を抜け、高度成長へと大きく転換していく社会と、そこに生きる人々の緩慢」でありながらも、「どこか不敵な様相」であるとし、それは「静かにゆっくりと忍び寄る大きなうねり」であり、かつ「“いつまでたつても、アナルヒーを常態”とした戦後の混沌と無秩序に満ちた〈祝祭的な空間〉、“廃墟”の時代にとどまり続けようとする峻吉や鏡子たちを脅かすものの影」でもあると解説している[17]。
また、中元は、「昭和30年代という新たな時代の到来は、昭和20年代の焼跡の時代を暴力的なまでの圧力で葬送するとともに、これらの空間に刻みこまれた日本の近代の歴史すらも大きく変質させていくのである」[17]とし、「“アナルヒーを常態” としていたような廃墟の〈祝祭的空間〉」がもはやどこにもないことを鏡子は痛感すると解説している[17]。そして、敗戦の記憶が未だ残っていた時の「焼跡時代であった戦後」を切り捨てようとしたのが、「昭和30年代という新たなディケイドにむかう時代の空気」だとし[17]、『鏡子の家』はまさにそのような変化を「トポスに反映させている」[17]と述べ、「新しい時代の到来による戦後的空間の変容」だけでなく、「人々の内面や空間に刻みこまれた日本の歴史までもが否応なく塗り替えられていこうとするポスト戦後という時代への不信感に満ちている」[17]と論考している。
三島と同じ戦中世代の橋川文三は、『鏡子の家』に描かれている四人の青年たちと鏡子は、「ある秘められた存在の秩序に属する倒錯的な疎外者の結社」を構成しているとし[18]、「かれらのいつき祭るもの、それはあの“廃墟”のイメージである」[18]と述べ、それは、三島自身が言った“兇暴な抒情的一時期”と呼んだ季節のことであると回顧している[18]。そしてその時代を振り返りつつ、その“廃墟”の季節は、「われわれ日本人にとって初めて与えられた稀有の時間であった」とし[18]、「ぼくらがいかなる歴史像をいだくにせよ、その中にあの一時期を上手にはめこむことは思いもよらないような、不思議に超歴史的で、永遠的な要素がそこにはあった」と述べている[18]。そして、そこだけが「あらゆる歴史の意味」を喪っていて、いつでも、「随時に現在の中へよびおこすことができるようなほとんど呪術的な意味」さえ帯びた一時期であったとし[18]、橋川たちの世代は、その一時期を呼び起こすことにより、「たとえば現在の堂々たる高層建築や高級車を、みるみるうちに一片の瓦礫に変えてしまうこともできるように思った」[18]と述べて、それは「あのあいまいな歴史過程の一区分」ではなく、「ほとんど一種の神話過程ともいいうる一時期であった」[18]と当時を振り返っている。
また、橋川は、三島がどこかの座談会で語ったとされる、「戦争も、その“廃墟”も消失し、不在化したこの平和の時期には、どこか“異常”でうろんなところがあるという感覚」に、痛切な共感を誘うと述べ[18]、そこでは「“神話”と“秘蹟”の時代」は終わり、「時代へのメタヒストリックな共感は断たれ、あいまいで心を許せない日常性というあの反動過程」が始まるとしながら、三島のように「“廃墟”のイメージを礼拝したものたちは“異端”として“孤立と禁欲”の境涯に追いやられるのである」[18]と述べ、『鏡子の家』の「繁栄と没落の過程」は、まさにそういった「戦後の終えん過程」に重なり、その「終えんのための鎮魂歌」のような意味を『鏡子の家』は含んでいると解説している[18]。
猪瀬直樹は、最後に鏡子の夫が七匹の洋犬を伴って、戻ってくる場面について、「岸信介を象徴していた」という見方をしている[19]。
モデルの西洋館について
猪瀬直樹は『ペルソナ 三島由紀夫伝』において、「小説はサロンの所在が信濃町となっているが、実際は品川区である」[19]と述べ、鏡子の家の所在が品川区であったとしているが、三島由紀夫の描写にでてくるのは、信濃町に実在した1910年(明治43年)ごろ築の西洋館、デ・ラランデ旧邸であったという説がある。作品中にも「車は四谷東信濃町にある鏡子の家へ行くのである」と地名が明記され、長谷川実[20]の教示を受けた藤森照信も実際に現地を見分して小説の描写そのままであることを確認し、三島がその家をモデルにしたと推測している[21]。この建物は2013年(平成25年)に江戸東京たてもの園へ移築復元され、「デ・ラランデ邸」の名で公開されている[22]。
なお、鏡子のモデルは、のちにロイ・ジェームスの妻となる湯浅あつ子である[23][24]。
テレビドラマ化
- 『鏡子の家』(TBSテレビ)
ラジオドラマ化
- 『鏡子の家』(ラジオ関東)
映画化
- 『Mishima: A Life In Four Chapters』 1985年(昭和60年) 日本未公開
おもな刊行本
- 『鏡子の家 第一部』(1959年9月20日)
- 装幀:岩崎鐸。クロス装。機械函。赤色帯。
- 第1章 - 第5章。帯(裏)に無題で三島の文章「『鏡子の家』そこで私が書いたもの」(第二部も同じ)。
- 『鏡子の家 第二部』(1959年9月20日)
- 装幀:岩崎鐸。クロス装。機械函。紺色帯。
- 第6章 - 第10章。
- 文庫版『鏡子の家』(新潮文庫、1964年10月5日。改版1999年)
- 付録・解説:田中西二郎。
- ※ 改版1999年より、カバー改装:新潮社装幀室。
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 三島由紀夫『「鏡子の家」そこで私が書いたもの』(「鏡子の家」広告用ちらし、1959年8月)
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 田中西二郎「解説」(文庫版『鏡子の家』)(新潮文庫、1964年。改版1999年)
- ↑ 三島由紀夫『ぼくはオブジェになりたい―ヒロインの名は言へない』(週刊公論 1959年12月1日)
- ↑ 菅原洋一『「鏡子の家」論序説』(立正大学文学部論叢 1982年7月)
- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 5.5 5.6 5.7 佐藤秀明『日本の作家100人 三島由紀夫』(勉誠出版、2006年)
- ↑ 三島由紀夫『裸体と衣裳』(新潮社、1959年)
- ↑ 『決定版 三島由紀夫全集第30巻・評論5』(新潮社、2003年)、虫明亜呂無編『三島由紀夫文学論集II』(講談社文芸文庫、2006年)に収む。
- ↑ 『決定版 三島由紀夫全集第7巻・長編7』(新潮社、2001年)
- ↑ 松本徹『三島由紀夫を読み解く(NHKシリーズ NHKカルチャーラジオ・文学の世界)』(NHK出版、2010年)
- ↑ 『澁澤龍彦全集 別巻1』(河出書房新社、1995年)
- ↑ 澁澤龍彦(出口裕弘との対談)「三島由紀夫――世紀末デカダンスの文学」(ユリイカ 1986年5月号に掲載)
- ↑ 徳岡孝夫、ドナルド・キーン『悼友紀行―三島由紀夫の作品風土』(中央公論社、1973年)
- ↑ 佐伯彰一(山本健吉・平野謙・江藤淳・臼井吉見との座談会)「1959年の文壇総決算」(文學界 1959年12月号に掲載)
- ↑ 「鏡子の家 創作ノート」(『決定版 三島由紀夫全集第7巻・長編7』)(新潮社、2001年)
- ↑ 井上隆史「『創作ノート』の楽しみ1 もう一つの『鏡子の家』」(『決定版 三島由紀夫全集第11巻・長編11』付録・月報)(新潮社、2001年)
- ↑ 村松剛「三島由紀夫論」(文學界 1960年1月号に掲載)
- ↑ 17.0 17.1 17.2 17.3 17.4 17.5 17.6 17.7 17.8 中元さおり「古層に秘められた空間の記憶 ― 『鏡子の家』における戦前と戦後」(『三島由紀夫と編集 三島由紀夫研究11』)(鼎書房、2011年)
- ↑ 18.00 18.01 18.02 18.03 18.04 18.05 18.06 18.07 18.08 18.09 18.10 橋川文三「若い世代と戦後精神」(『日本浪漫派批判序説』)(未来社、1960年)。橋川文三『三島由紀夫論集成』(深夜叢書社、1998年)にも所収。
- ↑ 19.0 19.1 猪瀬直樹『ペルソナ 三島由紀夫伝』(文藝春秋、1995年)
- ↑ 住まいの図書館出版局編集長。著書に『都市住宅クロニクル』(みすず書房、2007年)他。
- ↑ (1986) 藤森照信 西洋館は国電歩いて3分 [ 建築探偵の冒険・東京篇 ] 筑摩書房 1986 246 - 248
- ↑ (2013-03-07) 新規復元建造物「デ・ラランデ邸」の公開について (江戸東京たてもの園) PDF 生活文化局 公益財団法人東京都歴史文化財団 江戸東京たてもの園 2013-03-07 [ arch. ] 2013-10-05
- ↑ 《九章》若き日の三島由紀夫を知る、おそらく最後の証言者-鏡子の家の女主人岩下尚史
- ↑ 湯浅あつ子『ロイと鏡子』(中央公論社、1984年)
参考文献
- 『決定版 三島由紀夫全集第42巻・年譜・書誌』(新潮社、2005年)
- 『決定版 三島由紀夫全集第7巻・長編7』(新潮社、2001年)
- 『決定版 三島由紀夫全集第31巻・評論6』(新潮社、2003年)
- 文庫版『鏡子の家』(付録・解説 田中西二郎)(新潮社、1964年)
- 中元さおり「古層に秘められた空間の記憶 ― 『鏡子の家』における戦前と戦後」(『三島由紀夫と編集 三島由紀夫研究11』)(鼎書房、2011年)
- 松本徹『三島由紀夫を読み解く(NHKシリーズ NHKカルチャーラジオ・文学の世界)』(NHK出版、2010年)
- 佐藤秀明『日本の作家100人 三島由紀夫』(勉誠出版、2006年)
- 橋川文三『三島由紀夫論集成』(深夜叢書社、1998年)
- 岩下尚史『ヒタメン 三島由紀夫が女に逢う時』(雄山閣、2011年)
- 湯浅あつ子『ロイと鏡子』(中央公論社、1984年)
- 菅原洋一『「鏡子の家」論序説』(立正大学文学部論叢 1982年7月) [1]