SMブーム
SMブーム(えすえむぶーむ)とは、日本において雑誌(SM誌)、映画(にっかつロマンポルノ)、ビデオ(アダルトビデオ)で、サドの男性がマゾの女性を性的に責めることが流行したムーブメントのこと。第1次SMブーム、第2次SMブーム、第3次SMブーム(第2次SMブーム後期)の3つに分類される。
目次
「世界に冠たるSM大国・日本」
今日、日本はドイツと並び“世界に冠たるSM大国”となっている。これは明治時代以降、日本人の国民性が“陰湿”で“男尊女卑”となったため、日本にはもともと“SMを受け容れる土壌があった”ことが大きな原因である。また、日本人は欧米人と違い“手先が器用”であるため、M女に縄をかけやすいという長所もあった。
「日活のポルノ転進」と「第1次SMブーム」
1971年、日本の“映画大手5社”の一つである日活が、経営不振によりポルノ映画製作に路線転換した。これがにっかつロマンポルノと呼ばれるピンク映画である。
この影響を受けて、SM誌の『SMセレクト』と『SMファン』が創刊された。翌1972年、官能作家・団鬼六が『SMキング』を創刊。同年、『SMフロンティア』、『SMコレクター』も創刊された。
このようにSM誌が2年間で5誌も創刊され、これを第1次SMブームという。
“にっかつの巨匠(原作者)”となった団鬼六は、“初代SMの女王”谷ナオミと“公私にわたる名パートナー”となり、“にっかつのドル箱”と呼ばれた。
「女子大生ブーム、アダルトビデオ・ブーム」と「第2次SMブーム」
翌1980年、マゾ女優の谷ナオミが一般男性と結婚し、SM女優を引退した(のちSMサークルを主催)。団鬼六は“2代目SMの女王”として麻吹淳子を起用した。麻吹淳子は日活ポルノ美人コンテスト第3位という経歴の持ち主で、病気で引退するまでの約1年間に13本のSM映画に主演した。活動期間は短かったが、大いに活躍したSM女優であった。
翌1981年、『SMマニア』、『SMスピリット』、『SMクラブ』が創刊された。さらに1983年、『SM秘小説』が創刊された。
このように、1979年から1983年までの4年間にSM誌が5誌も創刊された。これを第2次SMブームという。
当時は女子大生ブームの最盛期に当たり、またアダルトビデオが誕生してアダルトビデオ・ブームも起こっていたため、多くの女子大生がSMビデオに出演した。SM誌でSMモデルになった女子大生も多い。
麻吹淳子の引退を受けて1983年に“3代目SMの女王”になったのが、金沢の老舗のお嬢様、モデルの高倉美貴である。彼女は団鬼六の粘り強い説得に根負けし、SM女優となった。高倉美貴も谷ナオミ・麻吹淳子と同様に、団鬼六の公私にわたるパートナーとなって活躍した。
「第3次SMブーム(第2次SMブーム後期)」
1984年、素人女優・末次富士子らが日活のSM映画で活躍し、SMがワイドショーで取り上げられるまでになった。 翌1985年、AVに圧倒されていた日活が起死回生を賭け、“本番セックスでの撮影(ハメ撮り)を導入”した。これを象徴する作品が、木築沙絵子主演のSM映画『箱の中の女』である。日活は本番映画でAVに対抗しようとした。しかしその経営努力も空しく、日活は1988年に倒産した。
一方AVでは、アートビデオがSMビデオの大御所として業界をリードした(主演男優は怪優・黒田透)。この頃がSMビデオの最盛期である。1986年、AVで横浜国大の現役女子大生・黒木香がSM女優としてデビューした。彼女は“元祖高学歴AV女優”および“元祖AVタレント”として一世を風靡した。黒木香らの活躍により、SMは完全にお茶の間の中に入り込むようになった。
この頃SM誌では、SMが“ファッション化”され“大衆化”する一方で、SM小説がマンネリ化する、SM写真にパイパンではないSMモデルが登場する等、SMの“質の低下”が目立つようになった。 2007年に西岡澄子がエンタ神様などでSMやった。 現在はやっていない 2013年10月から これテーマにした映画 R100が公開された まっちゃんが監督で 女性メンバーが 全員これになっている