白鳥事件
白鳥事件(しらとりじけん)は、1952年1月21日に発生した殺人事件。一部で冤罪事件である可能性が指摘されているが、事件への再審請求自体は棄却されている。なお、冤罪の可能性について、元隊員は「中核自衛隊が計画を進めていたのは事実」と証言している。
概要
1952年1月21日午後7時30分頃、北海道札幌市南6条西16丁目の路上で、札幌市警察の白鳥一雄警部が自転車で帰宅途中、併走した自転車に乗っていた犯人に射殺された。犯人は逃走した。
白鳥警部は同警察警備課長として、当時半ば非合法活動を行っていた日本共産党対策に従事していたことから、当局は共産党関係者を中心に捜査。事実、事件発生の2日後に党北海道地方委員会が「党との関係は何とも言えない。この事件は愛国者の英雄的行為」と関与を匂わせる旨の声明を発している上に、党員が市内で「見よ、天誅遂に下る!」のビラを配っていたことから共産党関係者に疑いの目が向けられていた。ただし、事件直後には党北海道地方委員の村上由が「党と白鳥事件は無関係」と関与を否定する声明を発している。また、ある信用金庫の不正をめぐって白鳥が関与していたことから、その信用金庫の経営陣が殺し屋を差し向けたとの噂もささやかれていた。
事件発生から4ヶ月後に党員の通報により、村上国治党札幌地区委員らが白鳥殺害に関与しているとの情報を得、村上らを逮捕。共犯として逮捕されたTが「1月3日 - 1月4日頃に村上ら7人が集まり、白鳥警部殺害の謀議を為した」と供述した。しかし、村上らを逮捕した後も犯行に使われたピストルは発見できず、事件発生の2年前に幌見峠で射撃訓練をしたピストルの弾のみが唯一の物証として裁判に提出された。直接の実行犯は、当時日本と国交がない中華人民共和国に不法出国し逃亡した。なお、冤罪の可能性について、元隊員は「中核自衛隊が計画を進めていたのは事実」と証言している。
裁判
検察側は村上を殺人罪(共謀共同正犯)で、共犯2人を殺人罪の幇助犯として起訴し、「村上らは武装蜂起の訓練のため幌見峠で射撃訓練をした。そして、彼らの活動の邪魔になる白鳥警部を射殺した」と主張した。第1審の札幌地裁は共同謀議を認定、村上に無期懲役、共犯1人に懲役5年・執行猶予5年の判決を下した(途中から分離公判となっていた共犯T(=共同謀議を自供)には懲役3年・執行猶予3年を判決、そのまま判決は確定)。控訴審の札幌高裁では村上は懲役20年に減軽、共犯1人に関しては控訴を棄却。1963年には最高裁判所において上告も棄却され、判決が確定した。
しかし、唯一の物証であるピストルの弾は2年前に発射された銃弾としては腐食が殆ど無く、しかも白鳥警部の遺体から発見された銃弾と旋条痕が一致したという鑑定結果も、実際はアメリカ軍が行ったものであったという証言が上告棄却後に得られたことから、捏造されたものである可能性が浮上。そのため村上は1965年に再審請求を行い、最高裁判所に特別抗告まで行ったが、1975年に請求は棄却された。
白鳥決定
再審請求は棄却されたが、このとき最高裁判所は「再審制度においても『疑わしいときは被告人の利益に』という刑事裁判の鉄則が適用される」という判断を下した(通称「白鳥決定」)。それまでの再審裁判では、完全に証拠を覆すだけの完全な証言や証拠を求めることが多かったが、これを改め、裁判時の証拠・証言に対してある程度の合理的疑いが存在する場合も再審の対象としうるすることで以下のような多くの事件(結果として冤罪と認められた)に救済の門戸を広げる結果となった。
- 弘前大学教授夫人殺人事件・米谷事件・滝事件・財田川事件・免田事件など。
- 再審・冤罪事件においては必ずといっていいほどこの白鳥決定が引き合いに出されるが、白鳥事件自体の再審請求は最終的に棄却されている。
最高裁判例
- 事件名=再審請求棄却決定に対する異議申立棄却決定に対する特別抗告事件
- 事件番号=昭和46年(し)第67号
- 裁判年月日=1975年(昭和50年)5月20日
- 判例集=刑集29巻5号177頁
- 裁判要旨=刑訴法435条6号にいう「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」とは、確定判決における事実認定につき合理的な疑いをいだかせ、その認定を覆すに足りる蓋然性のある証拠をいうものと解すべきであるが、右の明らかな証拠であるかどうかは、もし当の証拠が確定判決を下した裁判所の審理中に提出されていたとするならば、はたしてその確定判決においてなされたような事実認定に到達したであろうかどうかという観点から、当の証拠と他の全証拠と総合的に評価して判断すべきであり、この判断に際しても、再審開始のためには確定判決における事実認定につき合理的な疑いを生ぜしめれば足りるという意味において、「疑わしいときは被告人の利益に」という刑事裁判における鉄則が適用される。
- 法廷名=第一小法廷
- 裁判長=岸上康夫
- 陪席裁判官=藤林益三 下田武三 岸盛一 団藤重光
- 多数意見=全員一致
- 意見=なし
- 反対意見=なし
- 参照法条=刑訴法435条6号
その後
村上は1994年11月3日、埼玉県大宮市内の自宅火災により71歳で死亡している。失火原因は不明。
2011年3月27日、HBC北海道放送が事件関係者へのインタビューなどを通じて白鳥事件の真相を追ったラジオドキュメンタリー「インターが聴こえない~白鳥事件60年目の真実~」(HBCラジオ開局60周年記念ドキュメンタリー)を放送した。同番組は同年5月に第37回放送文化基金賞ラジオ部門優秀賞を、同6月に第48回ギャラクシー賞ラジオ部門大賞を受賞した。
2012年2月24日、中核自衛隊に所属し、この暗殺計画に参加したとして、1957年に殺人幇助などの罪で執行猶予判決を受けた元隊員は「中核自衛隊が計画を進めていたのは事実」と証言している。この元隊員は、説明責任を果たすために、手記をまとめる予定である。
3人の指名手配犯は、1955年頃に中華人民共和国に不法出国により亡命した。1988年にはそのうち2人が病死し、元北海道大生の鶴田倫也だけが残った。鶴田は1997年に北京市内で時事通信の取材に応じたが事件の真相を語ることはなかった。なお指名手配犯は海外逃亡のため公訴時効は停止し、日本の警察が死亡を確認していないために2012年1月時点で逮捕状を160回近く更新し続けており、日本で効力のある最古の逮捕状となっていた。
鶴田は晩年、心臓の持病を抱え、2012年1月ごろより体調を崩し3月中旬に北京で死亡。82歳だった。心臓に持病を抱えており、病死とみられる。ほかのメンバーは既に裁判を終えるか死亡したとされ、事件は60年という節目に事実上終結を迎えた。
鶴田容疑者は実行グループの取りまとめ役で、白鳥警部が射殺される直前まで行動を確認していたとされる。関係者によると、鶴田容疑者は事件後の1955年頃、静岡・焼津港から漁船で北京に亡命。約2か月ほど前から体調不良だったという。60年に及ぶ事件の捜査は終わった。
参考文献
- 新風舎 「白鳥事件」 山田清三郎 (2005年10月)
- 光陽出版社 「国治よ 母と姉の心の叫び 謀略白鳥事件とともに生きて」 長岡千代 (1997年11月)
- 白石書店 「白鳥事件研究 昭和史の発掘」 山田清三郎 (1977年)
- 東洋書房 「白鳥事件の謎 ノンフィクション・スパイシリーズ」 宮川弘 (1968年)
- 日本青年出版社 「壁あつくとも 村上国治獄中詩・書簡集」 白鳥事件中央対策協議会 (1969年)
- 日本青年出版社 「網走獄中記 白鳥事件――村上国治 たたかいの記録 上・下」 村上国治 (1970年)