トカラ列島
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吐噶喇列島(とかられっとう、とは嘔吐の吐、かは口偏に葛、らは口偏に刺す)とは、鹿児島県の諸島の一つ。全域が鹿児島県の十島村となっている。
歴史
地名の由来については諸説あるものの、「沖の海原」を指す「トハラ」から転訛したという説が有力。
699年8月19日(文武天皇3年七月辛未)に、多褹、夜久、菴美、度感の人が物を貢いだことが、『続日本紀』に記されている(それぞれ種子島、屋久島、奄美大島、トカラにあたる)。同書によればこれが度感(徳之島との説もある)が日本と通じた始まりであった。
畳表の原材料である和名シチトウの由来の地。8つの島があるのに七島というのは、小宝島を宝島に編入して数えていることによる。シチトウは別名琉球藺(りゅうきゅうい)とも呼ばれ、トカラ列島から大分県へシチトウの苗が持ち込まれ栽培に成功し、後に全国の一般家庭や柔道場の柔道畳にも使われている。
柔道畳は1882年(和暦??年)柔道創設時代講道館の畳にもシチトウの畳が使われ、柔道の祖 嘉納治五郎が丈夫な畳とし柔道に採用した。その後、嘉納治五郎は研究に次ぐ研究を行い、柔道畳として進化を遂げる。1964年(和暦??年)に開催された東京オリンピックでは、柔道会場の日本武道館でシチトウを使った畳が使われ、後のオリンピック柔道会場ではビニール素材に変わっている。このことは2008年7月財団法人日本武道館の機関紙『武道』500号の髄筆「嘉納柔道と柔道畳復元」として掲載されている。嘉納柔道畳のルーツとも言われている。
沿革
- 1897年 - 所属の郡が薩摩国川辺郡から大隅国大島郡へ変更
- 1908年4月1日 - 島嶼町村制制度施行に伴って上三島(現在の三島村全域)を含み十島村(じっとうそん)として発足。村役場は中之島に置かれる。
- 1946年2月2日 - 連合国総司令部の宣言により、北緯30度(トカラ列島)以南がアメリカ軍の軍政下に置かれ、現三島村と分断。役場を失った上3島は、仮の十島村役場を鹿児島市に設置。
- 1946年10月3日 - 北緯30度(トカラ列島と奄美群島)以南の大島郡をもって、臨時北部南西諸島政庁設立(政庁所在地現奄美市名瀬)。
- 1950年8月4日 - 奄美群島政府ほか、各群島政府(沖縄、宮古、八重山)設立。それぞれ民選の知事と議員が選ばれる。
- 1951年4月1日 - 4群島すべてを統括する琉球臨時中央政府が作られ、各群島政府知事の権限は極端に削減される。
- 4つの群島政府は、翌年3月末日までは形式的には存在したため、この地域には2種類の政府が存在した。
- 1952年2月10日 - 下七島が日本へ復帰。既に上三島の行政機構は完成されていたため、上三島は三島村、下七島は十島村(としまむら)として復帰当日から別々に発足。
- 1956年4月1日 - 村役場が中之島から鹿児島市へ移転。
- 1970年7月28日 - 臥蛇島民全員が移住し、無人島になる。
- 1973年4月1日 - 所属の郡が、大島郡から鹿児島郡(旧薩摩国)へ変更される。
主な島
列島へのアクセス
- 3日に1便程度。宝島 - 名瀬港は2便に1便のみ運航。
その他
- 2009年7月22日に皆既日食観測の可能性があった(観測できる範囲は、屋久島から奄美大島北部)。特に悪石島は、島のすぐ北側の海上を皆既帯の中心線が通っていることから、世界各地から観測者が訪れたが、結局、当日の暴風雨のため観測できなかった(詳しくは2009年7月22日の日食を参照)。
- 悪石島と宝島の間に、「渡瀬線」という分布境界線が走っている。両島の間には水深1000mの「トカラギャップ」と呼ばれる海裂が横たわっており、これが「渡瀬線」を形成しているのではないかと推定されている。ハブなど、九州本土と沖縄県・奄美群島との動植物の境界である。