SMブーム
SMブーム(えすえむブーム)とは、日本において雑誌(SM誌)や映画(日活ポルノ、AV)でサドの男性がマゾの女性を性的に責めることが流行した一連のムーブメントのこと。第1次SMブーム、第2次SMブーム、第3次SMブーム(第2次SMブーム後期)の3つに分類される。
第1次SMブーム
1971年、日本の“映画大手5社”の一つである日活が、経営不振によりポルノ映画製作に路線転換した。にっかつロマンポルノと呼ばれるピンク映画である。 SM雑誌の『SMセレクト』と『SMファン』が創刊された。
翌1972年、官能作家・団鬼六が『SMキング』を創刊。同年、『SMフロンティア』、『SMコレクター』も創刊され、SM誌が2年間で5種類も創刊された。これを第1次SMブームという。
団鬼六は“にっかつの巨匠(原作者)”となり、マゾ女優(初代SMの女王)・谷ナオミと“公私にわたる名パートナー”となって“にっかつのドル箱”となる。
第2次SMブーム
1979年、『SMスナイパー』が創刊された。 1980年、SMの女王・谷ナオミが一般男性と結婚しSM女優を引退した(のちSMサークルを主催)。団鬼六は2代目SMの女王として麻吹淳子を起用した。麻吹淳子は日活ポルノ美人コンテスト第3位という経歴の持ち主で、病気で引退するまでの約1年間に13本のSM映画に主演した。活動期間は短かったが、大いに活躍したSM女優であった。
1981年、『SMマニア』『SMスピリット』、『SMクラブ』が創刊された。第2次SMブームである。さらに1983年、『SM秘小説』が創刊された。
麻吹淳子のあと1983年に3代目SMの女王になったのが、金沢の老舗のお嬢様・モデルの高倉美貴である。彼女は団鬼六の粘り強い説得に根負けしSM女優となった。彼女も麻吹淳子らと同様に、団鬼六の公私にわたるパートナーとなった。
第3次SMブーム(第2次SMブーム後期)
1984年、素人女優・末次富士子らが日活のSM物で活躍し、SMがワイドショーで取り上げられるまでになった。
1985年、AVに圧倒されていた日活が起死回生を賭け、本番セックスでの撮影を導入した。これを象徴する作品が、木築沙絵子主演のSM映画『箱の中の女』である(日活は1988年に倒産)。
一方、AVでは、アートビデオがSM物の大御所として業界をリードした(主演男優は黒田透)。
1986年にはAVで横浜国大の現役女子大生・黒木香がSM女優としてデビューし、“元祖高学歴AV女優”および“元祖AVタレント”として一世を風靡した。この頃になると、SMが完全に“お茶の間”の中に入っていた。しかし、SMが“ファッション化”され“大衆化”する一方で、SMの“レベルの低下”が顕著であった。