医療崩壊
医療崩壊(いりょうほうかい)とは、それなりに廻っていた医療体制が何らかの原因でたちゆかなくなること、またその状態を漠然と指す言葉。
目次
日本に於ける医療崩壊
医師はそれなりの研修を受けスキルを高め、医療に貢献し先進国最低水準の医療費にて世界最高レベルの平均余命・周産期死亡率[1]を達成している。WHOによる2000年の調査では、総合成績である「健康達成度総合評価」で第1位となっている。また、OECDによる2005年の調査でも、健康寿命・健康達成度の総合評価はともに第1位を達成している。
だが近年、恩恵を受けたが、現状の医療体制は不十分であり又高額なものと患者側が感じる様になる医療不信が増大するようになった。 徐々に現状の医療体制では不可能な過大な要求をするようになってしまった。 医療不信を払拭しその期待に応えようと医師側の努力は行われ、「QOLの向上」などの新しい命題にも取り組み医療は進歩したが、医療不信は払拭されなかった。 この動きの中で、一部で医師の過労死が起こることもしばしばであった。 過大過ぎる要求を行う病院から医師が集団辞職する事例が散見するようになった。 #医療民事訴訟が頻発するようになり、医師側は強い不満を持つものが増え始めていたが、独特の使命感により医療を支えていた。
#2006年福島県立大野病院産科医逮捕を境に、特に昼夜を問わず地域医療に貢献していた医師の意欲は著しく低下し、負担の大きい(特に地域の)医療現場から医師が去るきっかけを作った。
また、地域の病院に医師を派遣している医局も、一つの科を一人で医療を行っている病院から医師を引き上げ集約化を行いつつある[2]。
しかし集約化を行っても集約化した先で医師の退職が相次ぎ、その地方の医療が完全に崩壊するケースすら散見されるようになった。
#初期臨床研修義務化を原因とした医師不足による医師の引き上げもおこり、急速に地域の医療体制が不備になるなどの事態が進行しつつある。
このため地域や科によっては身近なところに診療できる医院・病院が無いという事態にまで至っている。
市議による心無い一言より退職した事例や、マスコミによる捏造報道による心労により退職に追い込まれ地域医療が崩壊した事例もあった。
内科医、麻酔科医の負担も多く集団退職するケースも増えており、廃院の転帰を取る場合が散見されるようになっている。
高度医療化に伴い高価格の医療機器導入の負担や、度重なる医療制度改革による診療報酬減少に伴う医療収入減少等により病院の倒産、自主廃業に追い込まれるケースが最近散見されるようになった。
医療崩壊をきたした因子
捜査・司法機関による刑事立件・訴訟
2006年福島県立大野病院産科医逮捕
2004年に福島県立大野病院にて癒着胎盤を原因とした母体死亡事例において、2006年になって産婦人科医が救命できなかった結果責任を問われ、担当の産婦人科医が突然逮捕[3]された[4]。 この事例は産婦人科医が一生に一回遭遇するかしないかと言うほど稀な症例であり、しかも当の産婦人科医は地域に於ける産科医療をたった一人で貢献しているという状況に於かれていた。
この大野病院の一件については日本母性保護産婦人科医会が声明を発し、「この様に稀で救命する可能性の低い事例で医者を逮捕するのは産科医療・殊に地域に於ける産科医療を崩壊させかねない」と批判した。事実、この一件が契機となって特に昼夜を問わず地域医療に貢献していた医師の意欲は著しく低下し、負担の大きい(特に地域の)医療現場から医師が去るきっかけを作った。
堀病院強制捜査
2006年神奈川県にある医療法人の堀病院で、2003年分娩後止血困難にて他院搬送後子宮摘出手術を受けるも多臓器不全のため死亡した症例をきっかけに、同院で行われた看護師による内診が法律に違反しているとされ、保健師助産師看護師法違反で捜査・報道された。 しかし、現実問題として助産師は不足しており、内診は看護師が行っている医療機関が多く見られた。 また法律では助産行為とはなにかが明確になっておらず、厚生労働官僚の通達に依存した一方的な見解であり、産婦人科医の反発を招き、助産師不足により産科病棟運営・医業経営を困難とさせた。
医療民事訴訟
従来医学的には正しい医療行為を行ったにもかかわらず、不幸な転帰をたどった症例において、遺族側が病院や担当医師に結果責任を要求する医療訴訟が多発し、医師・病院側が敗訴する事例が見られた[5]。
その判決において「(その当時は無かった)医療知識があれば救命できた」や「(県内に数人しかいない)専門医がいれば救命できた(はずなのだから過失がある)」「過失は一切無いが、賠償しろ」「病気が治るという期待権が侵害された」等、医療の不確実性を考慮に入れず、当時・現在の医療状況・医療財政、生命の摂理を一切無視したものが多発した。
主に公立病院にて医学的考察がなされぬままに事務方が患者側に謝罪を行ったことにより「病院の側に落ち度があったと認識していた」と判断されたりして理論的な公判維持が困難となり不利な和解条件をのまざるを得ないケースもある。
特に産科領域では、産科医の不断の努力によって達成された周産期死亡率の低下により一般的に子供は正常に生まれて当たり前との認識が生まれ、何か異常が起こると全て医療ミスと見なされてしまい医療訴訟となる可能性も高いといわれている。
医療行政
医学の進歩とともに国民医療費は年々増加するが、最近は経済状況が低迷し、国民医療費の伸びが国民所得の伸びを上回るようになった。 日本の医療は高くて非効率的であるという認識の下、国家財政を圧迫する恐れがあるとして医療費削減が叫ばれるようになった。 現実には日本の医療は現場の努力によってぎりぎりで行っている状況であったので、改革は現場にとどめを刺す形となり、医療崩壊が進みつつある。
初期臨床研修義務化
従来、医師国家試験合格した医師は、大学医局に所属することが多かった[6]。ところが、初期臨床研修義務化に伴い市中の総合病院においても初期研修ができるようになり、加えて教育システムに一日の長のある病院は都市部に集中していた。結果として地方では初期研修の志望者が激減し、医局に新規に所属をする医師は減少した。
大学は大学病院・大学の研究をする医師が減少したため、系列の地方の基幹病院に派遣をしていた医師を引き上げざるを得なくなった。全国的に引き上げざるを得なくなったために、地方の基幹病院に医師が足りなくなり特定の科を閉鎖せざるを得なくなった[7]。 医療崩壊は、初期臨床研修制度が引き鉄となった、とする意見もある。 過去医学生は医者になってからの専門科を決める際、実際の医療現場を見ることはできないため[8]、興味や憧れ、使命感に燃えて専門科を選択していた。 初期臨床研修義務化に伴い、医師として決められた期間に決められた様々な専門科の医療の現場に入るようになった。 そこで現実を直視し、過重な専門科・訴訟リスクの高い専門科・QOMLの低い専門科を選択しなくなってきている。
当制度は現場医師や学生からの反対を無視し、行政からの押し付けで開始されたものである。米国ではある程度効果をあげた制度であるが、米国とは比べ物にならないほど指導医が多忙である日本において、その待遇の改善なく当制度を開始したことは無謀といわざるをえない。 また、突然のシステム変更に振り回された研修医も被害者であることを忘れてはならない。
マスメディアによる恣意的報道
元来問題となっていなかった症例を、自ら調査し、耳目を引くために事件性があるように報道したと批判を受けている例も散見される。 例えば奈良県大淀病院での妊婦死亡報道では[9]報道内容が事実に反し、又科学的でないと医療従事者からの指摘があり、「公平性に欠け感情論に終始している報道姿勢は避けるべきである」という批判がある。 また、「サラリーマンと開業医(個人事業主)の給与を比較」するなど単純比較にならないものを比較[10]したりすることにより、医師を悪者にする論調も目立っている。 こうしたメディアの恣意的な報道が妄信的に信じられてしまい、結果として医師・病院が悪者扱いされる様になっているという現実がある。
医療のコンビニ化
深夜の救急医療の場に「昼は仕事をしているので、今すぐ専門医に診てもらいたい」「3ヶ月前からおなかが痛い」「普段通院でもらっている薬が欲しい」「眠れない」「さみしい」など、救命救急の場にはそぐわない患者が来院するケースが目立ってきている[11]。 このため当直医の負担は著しく、当直の翌日が休みになる勤務態勢をしいている病院は少なく連続36時間以上働き続けることとなり、燃え尽き退職する医師や過労死をする医師も増えている。
また自治体による小児医療の無料化に伴い、無料である気軽さから医療のコンビニ化が顕著となり[12]小児科医の疲弊もすさまじくなっており、元々慢性的な過重労働であった小児科医の減少も著しくなっている。
市民団体
医療の将来を見据え、医療者と市民との架け橋となるべく活動を行っている団体がほとんどであると思われる。 しかしながら一部では異なった活動を行っている団体もあるのが実情である。 それら団体の特徴は
- 自然死を含めて全ての病院での死を医療ミスであるかのように主張する。
- 医療の不確実性を完全に無視し、結果論のみで論じる。
- 当時・現在の医療状況を完全に無視したもの。
- 医師の管理下では起きえないような極めて限定的に生じる副作用を持つ薬の使用禁止を主張する。[13]の様なものである。
またマスメディアと一緒になりネガティブキャンペーンを行うこともあり、医師のモチベーションの奪う結果となっている。
立ち去り型サボタージュ
虎ノ門病院泌尿器科部長 小松秀樹(こまつひでき、1949年-)は、2004年に『慈恵医大青戸病院事件 医療の構造と実践的倫理』(2004年)を著している。それが契機となり、2005年に最高検察庁で講演をした。そのときに提出した意見書をもとに、小松は『医療崩壊ー立ち去り型サボタージュ」とは何か』(2006年)を著し、日本の医療体制が直面する状況、なかんずく刑法にもとづく警察と世論を背景としたマスコミがいかに医師を追い詰めるかに警鐘をならした。
小松は医師がリスクの大きい病院の勤務医を辞めてより負担の少ない病院へ移ることや開業医になることを「立ち去り型サボタージュ」と呼ぶ。元々医療訴訟率が高くその賠償額も高額であった産婦人科は担当医の減少が著しく、将来の担い手である医学生たちも産科医になることを忌避する者が多く崩壊が進行している状況にある。このほか、小児科、内科、外科などの高度医療も同様の状況にあると言う[14]。
外国に於ける医療崩壊
アメリカ
アメリカでは国による国民健康保険が存在しない[15]代わりに、民間医療保険が発達しており受けられる医療は医療保険の種類により決定される。このため高額な保険金を払える高所得者は無条件に最高の医療を受けることができるが、低所得者は病院・医者を選ぶことはできず指定されたところで治療を受けることになる[16]。 メディケア(老齢者用公的保険制度)、メディケイド(低所得者用公的保険制度)も存在するが、必要コストを割り込む設定をしている治療手技も存在するなど、医療給付の制限は非常に厳しい。そのため公的保険では受診を拒否する医師・医療機関もあるほどである。
加えて高額医療訴訟が多発している背景もあって、医師損害賠償保険の保険料が年収を超えるケースが見られ医師が医療から撤退するケース[17]も散見される。妊娠中絶を行う医師を暗殺、病院を爆破するテロなども起きることもあり、病院が無くなることもある。
イギリス
マーガレット・サッチャー政権は福祉国家の解体を掲げ、医療費抑制政策を採った。 病院は完全無料の公立病院か、有料の民間病院の二つとなった。
イギリスの医療の仕組みは、NHS(National Health Service)に登録し、GP(General Practitioner)[18]を選択する。 病気になった際には選択したGPに相談を行い、もしも専門の治療が必要ならば専門の医師がいる病院に紹介される。 また非常に医療費が少ないため、治療に必要な資金が慢性的に不足しており、また医療者の給与は少なく士気は低下しており患者の対応までに時間がかかったり、また安価で短時間で治療が終了するような治療[19]になりがちな傾向がある。 専門医に受診したり検査や手術を受けるのに、長期間待たねばならない状況になった[20]。
有料の民間病院ではこのような手間もなく、診療を受けることができる。
医療従事者の士気の低下に伴い、アメリカやカナダ・オーストラリア・シンガポールなどに医師や看護師が流出。 後にトニー・ブレア政権になって医療費の総額を1.5倍にするという大改革を決行したが、このてこ入れも功を奏さなかった[21]。 ちなみに日本の医療費の対GDP比はサッチャー時代に匹敵する。要出典
ニュージーランド
小泉純一郎内閣での聖域無き構造改革の手本としてよく引き合いに出されているニュージーランドも公的医療費予算の抑制・削減が行われ、公立病院には独立採算[22]を求められた。 そのため、公立病院の医療サービスは悪化(男女同室入院等)し、地域住民の健康を守るという目的から利益を上げるための組織に変化した。 その中で、利益の上げられない公立病院は廃止された。 そのため地方の公立病院はほとんど閉鎖され、公立病院は大都市にあるだけになった。
代わりに自由診療で行う民間の株式会社病院がたくさん開設されるようになり、果ては病院がある日潰れて売春宿ができる事例すら見られるようになった。
フィリピン
国内で働く医師より海外で働く看護師の方が給与が高いため、医師が看護師資格を取り海外に看護師として流出。 そのため国内で医療に携わる医師が不足した[23]。
インド
インド人医師は欧米の一流大学で教育を受け技術を習得しているものも多くいる。また、英語が通じる点・物価の安さも手伝い、欧米の患者が臓器移植や骨髄移植など高額の高度先端医療をインドで受けるツアーすら存在する。しかしながら市民はそのような高度な先端医療を受けることはできず、未だコレラや赤痢などの感染症がはびこり亡くなる人々が絶えない[24]。
註
- ↑ 1950年(主に産婆による)出産1000件中46件、2004年(主に産婦人科医による)出産1000件中3.3件
- ↑ 本件が一人で医療を行っていた病院で発生したことより、「一人や二人など少数で医療を行っている病院では安全な医療を行うことは困難である」との理由で集約化が進んでいる
- ↑ 逃走の意思が一切なく臨月の妻を抱えていた
- ↑ 任意同行される際の映像はテレビで流された
- ↑ 加えて最近では(大野病院事件の様に)刑事訴訟をおこされるケースも見られるようになった
- ↑ 医局は集まった医師を教育し系列の地方の基幹病院に派遣し、こうして派遣された医師が往々にして地域医療を支えていたのが以前の状況だった
- ↑ 大野病院の事件の様に医師一人で支える事態になるとハイリスクになると言う判断も働いている
- ↑ 臨床実習はあるが、あくまでも実習でしかなく、本当の現場ではない
- ↑ この記事に対して特別賞を受賞している
- ↑ 本来サラリーマンと比較するのであれば立場的に似通っている勤務医と比較すべきであり、収入の多くが経費として支出される(従って自由に使える金銭は収入の一部に過ぎない)事業収入を得る開業医の収入との比較は不適切である
- ↑ 加えて、救急車をタクシー代わりに利用するケースが最近目立ってきている
- ↑ 核家族化の影響もある
- ↑ 詐欺的商法と結びつくケースもあり、社会問題化するものもある。
- ↑ 医療崩壊をくいとめるには「医療臨調」のような国民的会議を組織し、医療とはどうあるものなのか合意を形成し、具体的方策を立て患者と医療側の「相互不信」解消を図るべきだと小松は提案している
- ↑ ビル・クリントン政権時代に国民健康保険制度の創設を目指したものの、保険会社や製薬会社・中小企業などによる大規模な反対活動にあい結局廃案に追い込まれた
- ↑ 治療内容についても制限があり、その制限により救命できないこともある。よくアメリカでは入院日数が少ないと言われているが、それは一日でも入院を延ばすと自己負担額が飛躍的に増大するためで、そうせざるを得ない事情があるからである
- ↑ ある特定の州で産科医が全くいなくなったところもある
- ↑ ホームドクター
- ↑ 虫歯で全例抜歯など
- ↑ 日本では「3時間待ち3分診療」などと言われているが、当時のイギリスの状況は「24時間待ち1分診療」と言われていた
- ↑ 完全に崩壊した現場の士気は不可逆的であり、一旦崩壊してしまうとなかなか元には戻らないという医療崩壊の問題の厄介さを示している
- ↑ 独立行政法人に近い運用形態
- ↑ 日本とフィリピンで自由貿易協定を締結する際にも、この問題が議題に挙がりフィリピンのみならず日本の看護師会からも異論が相次いだ
- ↑ こういう状況はインドのみならず中国でも更には発展途上国全般で見られる。設備の整った病院は主に先進国からの患者に供されていて、低所得に甘んじている現地住民がこうした医療の恩恵を受けるのは甚だ困難になっているのが現実である
関連図書
- 『慈恵医大青戸病院事件―医療の構造と実践的倫理』小松秀樹 日本経済評論社
- 『医療崩壊ー立ち去り型サボタージュ」とは何か』小松秀樹 朝日新聞社
- 『「医療費抑制の時代」を超えて イギリスの医療・福祉改革』近藤克則 医学書院
- 『「改革」のための医療経済学』兪炳匡 メディカ出版
関連項目
関連外部リンク
厚労省 医師の需給に関する検討会
参考文献
Kellermann, AL. Crisis in the Emergency Department. N Engl J Med. 355:1300-1303; September 28, 2006.
このページはウィキペディア日本語版のコンテンツ・医療崩壊を利用して作成されています。変更履歴はこちらです。 |