徳川家康
徳川 家康(とくがわ いえやす、天文11年12月26日〈ユリウス暦1543年1月31日〉 - 元和2年4月17日〈グレゴリオ暦1616年6月1日・ユリウス暦1616年5月22日〉)は、日本の戦国大名・江戸幕府の初代征夷大将軍。
本姓は藤原氏次いで源氏と名乗る。実は加茂氏、在原氏とも。家系は三河国の土豪 松平氏の流れにて家康の代に徳川氏に改姓する。徳川家の祖。通称は次郎三郎。幼名は竹千代。死の直前(武将としては史上4人目の)太政大臣に叙せられている。死後、江戸時代を通じて、御家人・旗本には「神君家康公」、一般には「権現(様)」と呼ばれていた。
概要
小牧・長久手の戦いで10万の秀吉軍相手に互角以上の戦いをしたことから、当代一の軍略家の一人であり、関ヶ原の戦いでの相手への裏工作から、謀略にも長けている。このことをしめす言葉として、家康のあだ名・「狸爺」がある。ただし彼が謀略家としての本質を発揮しだしたのは秀吉の死後である。それまでは策謀の片鱗も見せず、今川義元、織田信長、豊臣秀吉に対して、馬鹿正直なほどの律義者を貫いた。果たしてそれが愚直さゆえによるものなのか、長年にわたる演技であったのかについては意見が分かれる所である。一説に、軍略・用兵は三方ヶ原の戦い以後に武田軍法を参考に学び、戦い前の書簡等による約定や唆しでの籠絡と取り込みは、豊臣政権成立後に秀吉の方法を学んだといわれている。
江戸幕府・開府に始まる江戸時代は264年に渡って続き、日本に長き太平の世をもたらした。家康は江戸幕府の始祖として称えられ、今も日光東照宮をはじめ全国に東照大権現として祀られている。
略歴
戦国時代に三河国岡崎に生まれ、人質として忍従の日々を過ごすが、桶狭間の戦い以後、織田信長の盟友(事実上の臣下)として版図を広げ、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、その混乱に乗じさらに勢力を広げた。
豊臣秀吉との小牧・長久手の戦いを経て秀吉に従い、豊臣政権の五大老筆頭に列せられるが、秀吉の死後は関ヶ原の戦いで勝利し、征夷大将軍に任せられ、江戸に幕府(江戸幕府・徳川幕府と呼ぶ)を開く。
生涯
忍従の日々
三河国の土豪である松平氏第8代当主・松平広忠の長男(嫡男)として、天文11年(1542年)12月26日の寅の刻(午前四時ごろ)、岡崎城で生まれる。母は水野忠政の娘・於大(伝通院)で、幼名は竹千代(たけちよ)と称した。
2歳の時、母の父・水野忠政の死後、嫡男・水野信元(於大の兄)が織田信秀についたため、今川方の庇護を受けていた父は泣く泣く於大を離縁。そのため家康は幼くして母と生き別れになった。
6歳の時、父・広忠は尾張国の織田信秀に対抗するため駿河の今川義元に帰属し、竹千代は今川義元のもとへ人質として駿河国府中へ送られる途中立ち寄った田原城城主で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張・織田信秀の元へ送られる。尾張では2年を過ごし信長とはここで知り合った。その間に父・広忠は死去し(岩松八弥に殺された、病死など、種々の説がある)、岡崎は義元の派遣した城代により支配された。
竹千代は今川方に捕えられた信秀の庶長子・織田信広との人質交換によって駿府へ移され、駿府の義元の下で元服し、義元から偏諱を賜り次郎三郎元信と名乗り、義元の姪・関口親永の娘・(通称築山殿)を娶るが、岡崎への帰還は許されなかった。名は後に祖父・松平清康の偏諱をもらって蔵人佐元康と改めている。この時期に今川家へ人質となっていた北条氏規と親交を結んだという。永禄元年(1558年)には織田方に寝返った寺部城主鈴木日向守を松平重吉らとともに攻め、初陣。
清洲同盟から三河国平定へ
永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた際、今川本隊とは別働で、前線の大高城(尾張国)にあった元康は、大高城から撤退。今川軍が放棄した三河の岡崎城に入ると、祖父・清康の代で確立した三河支配権の回復を志し、今川家から自立する。西三河の諸城を攻略する。永禄5年(1562年)には、義元の後を継いだ今川氏真と断交し信長と同盟を結び(清洲同盟)、翌年には義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めた。
その後、西三河を平定したかに見えた頃、三河一向一揆が勃発。家康は苦心の末に鎮圧に成功。岡崎周辺の不安要素を取り払うと、対今川氏の戦略を推し進める。東三河の戸田氏や西郷氏といった諸豪を抱き込みながらも、軍勢を東へ進めて鵜殿氏のような敵対勢力を排除。三河への対応に遅れる今川氏とは宝飯郡を主戦場とした攻防戦を繰り広げると、永禄9年(1566年)までには東三河・奥三河(三河北部)を平定し、三河国を統一した。この年、朝廷から従五位下、三河守の叙任を受け、徳川に改姓した。この改姓に伴い新田氏系統の源氏であることも公認させた。
永禄11年(1568年)には今川氏真を駿府から追放した武田信玄と手を結ぶ。同年末からは、今川領であった遠江国に侵攻し、曳馬城を攻め落とす。遠江で越年したまま軍を退かずに、駿府から逃れてきた氏真を匿う掛川城を攻囲。籠城戦の末に開城勧告を呼びかけて氏真を降し、遠江の大半を攻め獲った。元亀元年(1570年)、本城を岡崎から遠江国の曳馬に移し浜松城を築いた。
永禄11年(1568年)、信長が松永久秀らによって暗殺された室町幕府13代将軍・足利義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛の途につくと、家康も信長へ援軍を派遣した。さらに後年、足利義昭は天下の実権をめぐり信長の間に対立を深め、反信長包囲網を形成した。このとき家康にも副将軍への就任を要請し、協力を求めた。しかし家康はこれを黙殺し、朝倉義景・浅井長政の連合軍との姉川の戦いに参戦し、信長を助けた。
武田家との戦い
家康は今川領分割に際して、武田信玄と大井川を境に東の駿河を武田領、西の遠江を徳川領とする協定を結んで友好関係を結んでいた。しかし領土拡大の野望に燃える信玄は一方的に協定を破棄し永禄11年(1569年)、重臣の秋山信友に一軍を預けて信濃から遠江に侵攻させた。これは徳川勢の抵抗、並びに北条氏康の牽制により失敗したが、これを契機に武田信玄と徳川家康は敵対関係となった。
元亀3年(1572年)10月3日、武田信玄は遂に西上を開始し、まずは徳川領である遠江、三河に向けて侵攻を開始する。これに対して家康は盟友・織田信長に援軍を要請するが、織田軍も当時は浅井長政、朝倉義景、石山本願寺と抗争状態にあり、さらには美濃岩村城までを武田軍に攻撃され援軍を送ることができず、徳川勢は単独で武田勢と戦うこととなる。10月13日、2万2,000人の大軍を率いて伊那谷から遠江に侵攻してきた信玄本隊と戦うために、家康は天竜川を渡って目附にまで進出する。しかし信玄の巧妙な用兵、並びに兵力の差により大敗し、本多忠勝の奮戦により何とか浜松まで帰還した(一言坂の戦い)。
信玄本隊と同時に侵攻する武田軍別働隊が踏み荒らす三河方面への防備を固められないばかりか、この戦いを契機として武田・徳川の優劣は確定してしまう。そして12月19日には、浜松の北方を固める遠江の要衝であった二俣城が陥落する。そのような中でようやく織田方から援軍として佐久間信盛、平手汎秀率いる3,000人が送られてきた。12月20日、三河方面からの別働隊が合流した信玄の本隊は、天竜川の西岸を南下して浜松城下に近づいた。しかし長期戦を嫌う信玄は、浜松城を悠然と無視して、三河に侵攻するかの如く武田軍を転進させる。これに対して家康は信長の援将・佐久間信盛らが籠城戦を唱えるのに対して、断固として反対して武田軍を追撃。12月22日、徳川軍8,000人、織田軍3,000人で武田軍3万人に挑んだ(三方ヶ原の戦い。(現在の静岡県浜松市内))。だが、その結果、徳川方は鳥居忠広、成瀬正義をはじめ1,000人以上の死傷者を出し、織田方でも平手汎秀といった援軍の将が討ち獲られるなど徳川・織田連合軍は大惨敗を喫した。夏目吉信に代表される身代わりを何人も置き去りにして、命からがら浜松城に逃げ帰った家康自身も馬上で脱糞した、とさえ言われている。このとき、浜松城まで追撃された家康は妙計「空城の計」によって、それを怪しんだ武田信玄に城内侵攻を躊躇わせ、撤収を決断させたとされている。なお、この時の家康の苦渋に満ちた表情を写した肖像画が残っており、自身の戒めのために描かせたと伝わる(しかみ像)。
武田信玄は浜名湖北岸で越年して三河へ進軍。元亀4年(1573年)2月16日には三河東部の野田城を開城降伏させ、城主菅沼定盈の身柄を拘束した。ところがその後、信玄は発病。徳川軍を相手に勝ち続けていた武田軍は突如として西進を止めたばかりか、野田城から長篠城まで退き1ヶ月ほど沈黙する。そこで信玄の回復を待っていたが、容態は快方に進まないために西進作戦を断念、武田軍は甲斐へ帰還する。そして4月12日、武田信玄は帰還途中の信濃駒場で死去した。4ヶ月間、徳川領で戦勝を続けていた武田軍の突然の撤退は、家康に信玄死去の疑念を抱かせた。5月6日、その生死を確認するため家康は武田領である駿河の岡部に放火し、5月13日には長篠城を攻めるなどしている。そしてこれら一連の行動で武田軍の抵抗がほとんど無かったことから信玄の死去を確信した家康は、武田方に与していた奥三河の豪族で山家三方衆の一角である奥平貞能・貞昌親子らを調略し、徳川へ再属させた。奪回した長篠城には奥平勢を配し、武田軍の再侵攻に備えさせている。
天正2年(1574年)5月、武田信玄の後を継いだ武田勝頼が率いる2万5,000人の大軍に遠江高天神城を侵攻される。これに対して家康は単独で迎撃することができず、信長に援軍を要請したが、信長の援軍が到着する前に高天神城を奪われた。
天正3年(1575年)5月には、1万5,000人の大軍を率いる武田勝頼に三河長篠城を攻められる。これに対して長篠城主・奥平貞能・奥平貞昌親子は善戦し、援軍の到来まで耐え抜いた。そして、5月21日に行なわれた後詰決戦では、織田・徳川連合軍は武田軍に大勝した(長篠の戦い)。戦功の褒美として 奥平貞昌は(信長の偏諱を賜り)信昌と改名し、家康の長女・亀姫を正室として貰い受けている。
この戦いで武田軍は山県昌景、馬場信春を初め、多くの有力武将を失って壊滅し、徳川・武田の優劣は逆転した。同年、家康は信玄に奪われていた二俣城を奪還している。
天正7年(1579年)、正室・築山殿と長男・松平信康に武田勝頼への内通疑惑がかけられる。信長に対し抗弁の使者を立てるも、信長からの要求は、両名の処刑であった。家康は熟慮の末、信長との同盟関係維持を優先し、正室・嫡男の両名を殺害した。この事件は一説によると信長が嫡男・織田信忠より優れた資質を持つ信康に危機感を覚えたためと言われるが、近年では家康と信康が対立したためで、それを信長からの命令という形にした、という説も強くなってきている。
天正9年(1581年)3月23日、家康は武田勝頼によって奪われていた高天神城を奪回する。
天正10年(1582年)2月1日、武田信玄の娘婿である木曽義昌が織田信長に寝返ってきたことにより、武田征伐が開始された。信長は嫡男・織田信忠を総大将にして木曽口から、金森長近を飛騨口から、北条氏直を関東口から、そして家康には駿河口からそれぞれ武田領に向かって侵攻させる。これに対して、すでに連年の戦争による財政難などで民心が離反していた武田軍には組織的な抵抗力が無く、木曽から攻め込んだ織田軍はあっという間に伊那城、松尾城を落とした。徳川軍も駿河に侵攻して蘆田信蕃(依田信蕃)の田中城を成瀬正一らの説得により大久保忠世が引き取り、さらには勝頼の姉婿である穴山信君を調略によって寝返らせるなどして駿河を占領する。これに対して勝頼にはもはや対抗する力は無く、最後は味方だったはずの小山田信茂にまで裏切られて、3月11日に勝頼は甲斐東部の天目山田野において自害し、武田氏は滅亡した。
家康はこの戦功により、信長から駿河一国を与えられている。