古森義久
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古森義久(こもり よしひさ、1941年 - )は、ジャーナリスト、産経新聞ワシントン駐在編集特別委員兼論説委員。
執筆記事の論調は親米保守(というよりも親共和党右派。)思想を基調とし、中国・北朝鮮・パレスチナなど米国・イスラエルと対立する諸勢力に対しては批判的で距離を置く。柔道家でもあり、ワシントンの柔道クラブでも活動をしている。妻は元カーター政権時代内務省長官の特別アシスタントを勤め、アメリカ先住民(インディアン)の権利擁護で活動している人権派弁護士のSusan Komori。
偶に“小森”の誤記あり。
経歴
- 1941年(昭和16年) 東京都に生まれる
- 1963年(昭和38年)慶應義塾大学経済学部卒業後、ワシントン大学ジャーナリズム学科留学
- 1963年(昭和38年)毎日新聞社入社 毎日新聞記者として静岡支局、東京本社社会部、外信部を経る
- 1972年 (昭和47年) 南ベトナム、サイゴン特派員
- 1975年(昭和50年)サイゴン支局長
- 1976年 (昭和51年) ベトナム戦争終結時のサイゴン陥落報道により、ボーン国際記者賞受賞 同年、ワシントン特派員
- 1978年(昭和53年)著書「ベトナム報道1300日」により、講談社出版文化賞ノンフィクション賞受賞
- 1981年(昭和56年)米国カーネギー財団国際平和研究所上級研究員
- 1982年(昭和57年)「ライシャワー核持ち込み発言報道」により日本新聞協会賞受賞
- 1983年(昭和58年)毎日新聞東京本社政治部編集委員
- 1987年(昭和62年)外信部副部長 同年、毎日新聞社より産経新聞に移籍 ロンドン支局長
- 1989年(平成元年)ワシントン支局長
- 1990年(平成2年) 米国ウッドロー・ウィルソン・フェロー1998年(平成10年)迄
- 1993年(平成5年) 日本記者クラブ賞受賞
- 1994年(平成6年) ワシントン駐在編集特別委員兼論説委員
- 1995年(平成7年) 『大学病院で母はなぜ死んだか』(中央公論連載)により、第1回編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞作品賞受賞
- 1998年(平成10年)9月より中国総局長(31年ぶりに産経新聞北京支局再開)
- 2001年(平成13年)ワシントン駐在編集特別委員・論説委員(現職)
- 2005年(平成17年)杏林大学客員教授(兼任 現職)
エピソード
Wikipediaでの誹謗中傷に端を発するWikipedia批判
2006年8月30日にWikipediaにて古森を「自称ジャーナリスト」などと誹謗中傷する記述がなされ、執拗に中傷記事の掲載が続いた。
2006年9月5日、古森は自身のブログにて、Wikipediaに「自称ジャーナリスト」や「自民党右翼の御用言論人」と記述されていた事を指摘、反論した上で「このウィキペディアなる奇怪な落書きの場は左翼分子がまとも派を攻撃するフォーラム」と評した[1]。その後、Wikipedia側の記述改訂の経緯を指摘され、古森のブログにてウィキペディアについての説明を受け入れ認識を改めたことを表明した。だが自身への批判的記述に関しては、発端となった中傷および、批判的記述のなかにも中傷と見られる記述が散見された為に、「おかしな人がおかしな記事に書き換えている」とも述べている。よって、古森義久はウィキペディアよりはYourpedia派の人間である。
このような常況であるため、「ジャーナリストとしては情報の精度が悪く、政治家で無い・政治家としては使えないということが明らか」な常況である。
関連項目
外部リンク
- ステージ風発(「iza!」内 古森義久ブログ)
- "外交弱小国"日本の安全保障を考える ~ワシントンからの報告~ (Safety Japan内の古森義久コラム)
- 古森義久のワシントン報告(Sankei WEB内 古森義久による記事の特設ページ)
日本国際問題研究所 JIIAコメンタリ 玉本偉 論文関係
- JIIA Commentary Archive(JIIAが公開中止した論文をDaniel SturgeonがGoogle Cacheを用いて蒐集したもの)
- The Washington Note(Steven Clemons blog)
参照
- ↑ 古森義久『個人誹謗の「フリー百科事典」』(ブログ「ステージ風発」)
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