大内義隆
大内 義隆(おおうち よしたか)は、戦国時代の武将、守護大名・戦国大名。
周防国の在庁官人・大内氏の第31代当主。第30代当主・大内義興の長男。母は正室の内藤弘矩の娘。周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護職を務めた。官位は従二位行兵部卿兼大宰大弐兼侍従。また義隆の時代には大内文化が爛熟して大内家は全盛期を迎えたが、文治政治に不満を抱いた家臣の陶隆房にクーデターを起こされ、義隆と一族は自害して大内家は事実上滅亡した。末裔としては、尾張国に庶家の牛久山口氏が残った。
目次
生涯
出生から少年期まで
永正4年(1507年)11月15日、周防・長門・石見・豊前4か国の太守である大内氏の第30代当主・大内義興の嫡子として大内氏館で生まれる[1]。母は長門守護代の内藤弘矩の娘である[註 1][註 2]。
幼名は亀童丸(きどうまる)と言うが、これは父や祖父の政弘ら歴代当主の名乗った幼名であり、義隆は幼少時から嫡子としての地位を明確にされ、同時に大内家で歴代に渡り家督相続時に発生した内紛を予防するために名乗らされていた。義隆は幼児期は乳母や多くの女中に囲まれて成長した。少年期になると介殿様と呼ばれたが、これは周防介の略であり、大内家当主の地位として世襲されたものであり、義隆が嫡子として扱われていた証左である[2]。なお、義隆が周防介になった年は明確ではないが、永正17年(1520年)の時点で義隆を介殿様と記している事から[註 3]、その前に元服して義隆[註 4]と名乗り、同時に従五位下周防介に叙任されたと考えられている[3]。
家督相続
元服後の大永2年(1522年)から父に従い、大永4年(1524年)には父に従って安芸国に出陣する。この時は5月に別働隊を率いて岩国永興寺へ、6月に厳島へ入り、7月に重臣の陶興房とともに安芸武田氏の佐東銀山城を攻めた。しかし8月に尼子方として救援に赴いた毛利元就に敗退する。また山陰の尼子氏とも干戈を交えた[3][5]。この頃に京都の公卿・万里小路秀房の娘・貞子を正室に迎えた[3]。
享禄元年(1528年)12月に父が死去したため、義隆は22歳で家督を相続する[2]。享禄2年(1529年)12月23日に従五位上に叙され[2]、享禄3年(1530年)10月9日に父祖と同じ左京大夫に任命された。当時、官位官職は諸国の武士が勝手に自称する事が常態化していたが、義隆や大内家中の官位は朝廷から与えられた正式な官位であった[6]。
また大内家では家督相続の際に一族家臣の間で内訌が起こる事も常態化していたが、義隆相続の際にはその内訌は起こっていない。これは義隆の弟・弘興の早世による親族の欠如と、重臣の陶興房の補佐によるところが大きいとされている[6]。
勢力拡大
享禄3年(1530年)からは九州に出兵し、北九州の覇権を豊後の大友氏や筑前の少弐氏らと争う。家臣の杉興連や陶興房らに軍を預けて少弐氏を攻めた。そして肥前の松浦氏を従属させ、さらに北九州沿岸を平定して大陸貿易の利権を掌握した。しかし杉興連に行なわせた少弐攻めでは、少弐氏の重臣・龍造寺家兼の反攻にあって大敗を喫した(田手畷の戦い)。
天文元年(1532年)、大友氏が少弐氏と結んで侵攻してくると、義隆は長府に在陣し、北九州攻略の大義名分を得るために大宰大弐の官職を得ようと朝廷に働きかけるが失敗した。
天文3年(1534年)、龍造寺家兼を調略して少弐氏から離反させ、少弐氏の弱体化を図った。また陶興房に命じて大友氏の本拠地豊後を攻略しようとするが失敗する(勢場ヶ原の戦い)。北肥前にいた九州探題・渋川義長を攻め渋川氏を滅亡に追い込んだ。
この年、後奈良天皇の即位礼に合わせて銭2千貫を朝廷に寄進し、翌年あらためて大宰大弐への叙任を申請する。天皇は一旦許可したものの、これは1日で取り消されている。
天文5年(1536年)、ようやく大宰大弐に叙任され、北九州攻略の大義名分を得た義隆は、9月に龍造寺氏とともに肥前多久城での戦いで少弐資元を討ち滅ぼし、北九州地方の平定をほぼ完成させた。このとき龍造寺氏の本家の当主・龍造寺胤栄を肥前守護代に任じている。
天文6年(1537年)、室町幕府第12代将軍・足利義晴から幕政に加わるよう要請を受けて上洛を試みるが、山陰を統一して南下の動きを示していた尼子氏に阻まれ、領国経営に専念するためにこれを断念した。
天文7年(1538年)に将軍・義晴の仲介により宿敵・大友義鑑と和睦している。
天文8年(1539年)、父の代からの補佐役であった陶興房が病没している。
天文9年(1540年)、尼子経久の孫・尼子詮久(のちの晴久)が安芸へ侵攻し、大内氏の従属下にあった毛利元就の居城である吉田郡山城を舞台に戦った(吉田郡山城の戦い)。義隆は陶興房の子・陶隆房(後の晴賢)を総大将とした援軍を送り尼子軍を撃破する。以後は尼子氏に対して攻勢に出ることになり、天文10年(1541年)には尼子方の安芸の国人・武田氏(武田信実・信重ほか)と友田氏(友田興藤)を滅ぼして安芸を完全に勢力下に置いた。
文治体制
天文11年(1542年)、出雲に遠征して月山富田城を攻囲するが、配下の国人衆の寝返りにあって尼子晴久に大敗した(月山富田城の戦い)。しかもこの敗戦により養嗣子の大内晴持を失ったことを契機に領土的野心や政治的関心を失い、以後は文治派の相良武任らを重用するようになった。このため武断派の陶隆房や内藤興盛らと対立するようになる。
天文16年(1547年)、天竜寺の策源周良を大使に任じて最後の遣明船を派遣している。
天文17年(1548年)、龍造寺胤信と同盟する。胤信は義隆からの偏諱によって隆信と名乗った。隆信は大内氏の力を背景に隆信の家督相続に不満があった家臣たちを抑え込んだ。
天文19年(1550年)8月、山口に来たフランシスコ・ザビエルを謁見したが、汚れた旅装のままで面会に臨む、ろくな進物も持たない、義隆の放蕩振り・仏教の保護・当時一般的だった男色などを非難する、など礼を大いに欠いていたことから義隆は立腹し、布教の許可は下さなかった。ザビエルは畿内へ旅立った。
天文19年(1550年)、陶・内藤らが謀反を起こすという情報が流れ、義隆は一時大内軍を率いて館に立て籠もったという。このときの反乱は風評に終わる。側近の冷泉隆豊は陶ら武断派の討伐を諫言したが義隆はこれを受け入れなかった。
天文20年(1551年)4月下旬、ザビエルを再び謁見する。ザビエルはそれまでの経験から、貴人との会見時には外観が重視されることを学んでおり、今回は一行を美麗な服装で飾り、珍しい文物を義隆に献上した。献上品には、本来なら天皇に捧呈すべく用意していたポルトガルインド総督とゴア司教の親書のほか、望遠鏡・洋琴・置時計・ガラス製の水差し・鏡・眼鏡・書籍・絵画・小銃などがあったという。義隆は、ザビエルに対して布教の許可を与え、その拠点として、大道寺を与えた。
大寧寺の変
天文20年(1551年)8月末、義隆と険悪な関係になった武断派の陶隆房(周防国守護代)が謀反の兵を挙げた。重臣の内藤興盛(長門国守護代)もこれを黙認し義隆を救援することはなかった。
義隆は親族である津和野の吉見正頼を頼ろうとしたが暴風雨のために身動きがとれず、長門深川の大寧寺までたどり着くとそこに立て籠もった。このとき、義隆に従った重臣・冷泉隆豊の奮戦ぶりが目覚しかったが、所詮は多勢に無勢で、義隆は隆豊の介錯で自害した。享年45。辞世は「討つ者も討たるる者も諸(もろ)ともに 如露亦如電(にょろやくにょでん)応作如是観(おうさにょぜかん)」と伝わる。
義隆の実子の大内義尊も、9月2日に陶軍に捕らえられ殺害された。義隆・義尊の死により周防大内氏は事実上滅亡した。またこの時周防に滞在していた左大臣三条公頼をはじめとする多くの公家たちもこの謀反に巻き込まれ殺害された。
官歴
- ※日付=旧暦
- 年月日不明 従五位下
- 永正11年12月23日(1515年1月) 従五位上に昇叙。
- 享禄元年(1528年) 周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前6か国守護職
- 享禄3年(1530年) 左京大夫に任官
- 天文元年(1532年) 10月29日、正五位下に昇叙、周防介を兼任、左京大夫は元の如し。
- 天文2年(1533年) 筑前守を兼任。
- 天文3年(1534年) 4月30日、従四位下に昇叙、左京大夫と筑前守は元の如し。
- 天文5年(1536年) 5月16日、大宰大弐を兼任、左京大夫と筑前守を止む。12月28日(1537年1月)、左兵衛権佐を兼任。
- 天文6年(1537年) 1月6日 従四位上に昇叙、大宰大弐と左兵衛権佐は元の如し。
- 天文7年(1538年) 3月8日、周防介を兼任。6月、兵部権大輔を兼任、左兵衛権佐を止む。
- 天文8年(1539年) 1月5日、正四位下に昇叙。大宰大弐・兵部権大輔・周防介は元の如し。
- 天文9年(1540年) 3月24日、伊予介を兼任。
- 天文10年12月27日(1541年1月) 従三位に昇叙、大宰大弐は元の如し。
- 天文13年(1544年)1月5日、侍従を兼任。
- 天文14年(1545年) 正三位に昇叙、大宰大弐と侍従は元の如し。
- 天文16年(1547年) 3月19日、兵部卿を兼任。
- 天文17年(1548年) 従二位に昇叙、兵部卿・大宰大弐・侍従は元の如し。
人物・逸話
幼少時の逸話として、子供達が銭を玩具にして遊んでいたのを見て、義隆も銭で遊びたいと守役の杉重矩に言った。すると重矩は「主君となるべき人が、銭のような汚らわしい物を見るのは恐れ多い」として銭を黄金の笄で突き刺し、そして笄と一緒に銭を汚物の中に投げ捨て、それを義隆に見させて銭が如何に武士にとって賤しいかを認識させたという(『武者物語』)。
大内氏は家督継承の度に内乱が発生していたが、義隆相続のときは数少ない例外である。父・義興の力もあるが、歴代で義隆の政権初期が最も安定していたことも伺える。しかし、彼が自力で勝ち取って相続したわけではなかったことも文弱に溺れた遠因になったともいえる。
義隆は文化的関心が強く、文治主義的な戦国大名として知られている。三条西実隆などの文化人とも交流し、和歌や連歌、芸能など公家文化への関心を示す。また、朝廷への進物を行って官職を望み、束帯姿で牛車に乗るなど貴族趣味を持っていたと言われる。学問においても古道を好む事や花押の形式などから、復古主義的な性格を持った人物であったと考えられている。しかしそれは大内氏歴代に見られる傾向であり、またこの時代の山口は西の京として繁栄の極みを迎えた。
政策においても保守的で、奢侈禁止令や段銭徴収に関する法令を発布する。寺社の復興に寄進し、大宰大弐となると大府宣を布告した。さらに義隆とその家臣団の官位も他の戦国大名のような自称官位ではなく、朝廷に奏請して賜っている本当の官位である。このように、復古的な政治が多く見られる。
中国の明や李氏朝鮮と交易を行い、大内氏は管領家の細川氏と抗争して日明貿易(勘合貿易)を独占する。朝鮮からは『大蔵経』などを典籍を輸入し独自に大内版を出版する。義隆は山口を京都のような条坊制の都市に整え、城郭は構えずに大内館を居所とした。キリスト教の宣教師で来日していたイエズス会士 フランシスコ・ザビエルを招いて山口における布教を許可するなど、野心に富み、開明的な人物であった。義隆が冴えを失ったのは武断派である陶隆房らが強行した尼子攻めの敗北が原因でもあるとされている。
隆房との対立の原因は、文治・武断の対立のほかに、陶氏がかつて横領した東大寺の旧領を返還しようとしたからだともされている。ここにも義隆の復古的な行動が見られる。
文弱的傾向に溺れたことから暗愚な武将とされることが多いが、実は文治派を形成することで大名自身と近臣からなる家臣団による大名権力の強化を図るなどしている。このため、政治的権力は強化されたが、軍事面を守護代や豪族に一任していたため、逆に守護代の独立性を強化することにもつながってしまった。ただし、一方においては、租税徴収などの行政権限の大半を山口にいた奉行人や彼らに派遣された郡代(文治派を構成する人々)によって掌握され、かつ軍事活動が低調になっていくと、軍事的権限を背景とした守護代の大内氏家中における発言力が喪失してしまう結果となり、これによって陶隆房ら守護代の方が却って追い詰められていったとする見方もある。
義隆は衆道を好み、ザビエルがキリスト教の立場から男色を非難する発言をすると、激怒してザビエルを退出させたという逸話がある。また、正室貞子との離婚の一因は、衆道を好む余り貞子を全く顧みなかったことであるとする俗説もあるが、義隆は衆道と同様に女色も好んだめ、衆道ばかりが主な原因であったとは言い難く、実際の離婚の原因は不明である。貞子と離婚した後は、貞子に仕えていた小槻氏を正室に迎えている。
義隆が陶隆房を寵愛していた頃、馬で五時間もかけて会いに行ったが、隆房が深く眠っていたために和歌を残し帰還したという話がある。
『陰徳太平記』などには「又四郎隆景は、容姿甚だ美なりしかば、義隆卿 男色の寵愛浅からずして」との一文に小早川隆景が義隆と衆道関係にあったことが記されているが、同書は文学としての側面が強く信用のおける資料とは言い難い。また隆景・陶隆房の他にも清ノ四郎、安富源内などが義隆の寵愛を受けた人物とされている。
存命中は周辺国武士には畏怖されていたが、箱崎宮を再建したり厳島神社、宇佐神宮など多くの寺社を手厚く保護したことから僧侶の評判は高かった。文化人、公家にも「末世の道者」と称えられていた。
当時博多祇園山笠の舁き山は12本あったが、義隆が山口の祇園会に6本を分けた為に、博多山笠の舁き山が6本になった[7]。
系譜
家臣および義隆の偏諱を受けた者
家臣団
(凡例)
- 隆の字の入っている者が偏諱を与えられた者。
- ◇、△印は大寧寺の変で大内義隆側についた者。前者は死者(討死・殉死など)、後者は逃亡・降伏などを示す(→大寧寺の変#大寧寺の変関与人物の動向も参照)。
- ★印は大寧寺の変で陶隆房(晴賢)側についた者(或いは義隆死後大内義長に出仕した者も含む)。(→大寧寺の変#大寧寺の変関与人物の動向も参照)。
- 青景隆著★
- 青景隆時◇
- 阿川隆保◇?
- 麻生隆守(家信の子)
- 麻生隆実(宗像氏与力)
- 阿曽沼隆郷◇(阿曽沼氏)
- 天野隆重△(のち毛利氏に臣従)
- 天野隆良◇(隆重の弟)
- 天野隆綱★(興定の子)
- 飯田興秀★
- 飯田隆言(奉行衆、興秀の親戚か)
- 伊香賀隆正★(陶隆房の近習、別名:房明)
- 伊佐隆光◇
- 江田隆連(備後国国人、のち毛利氏、尼子氏に属す)
- 江良房栄★
- 大田隆通◇(近習)
- 大林隆廉(のち毛利氏に降伏して臣従)
- 岡部隆景◇(側近、美祢郡岩永の豪族)
- 岡屋隆秀◇(近習)
- 小幡義実◇
- 小原隆言★(水軍衆)
- 柿並隆幸(大内氏一門)
- 柿並隆正★
- 河津隆業
- 河津隆家(宗像氏家臣)
- 河屋隆通△(のち毛利氏に臣従)
- 黒川隆尚(初め宗像正氏)
- 黒川隆像◇(初め宗像氏男、隆尚(正氏)の甥・猶子とされる)
- 桑原隆祐(水軍衆・屋代島警固衆)
- 雑賀隆利△(のち毛利氏家臣、市川元教を殺害)
- 財満隆久(のち毛利氏に降伏して臣従)
- 相良武任◇
- 佐波隆連◇
- 佐波隆秀(隆連の従弟)
- 仁保隆在(周防仁保氏)
- 仁保隆兼(隆在の義従弟)
- 仁保隆慰★(隆兼の弟)
- 陶興房
- 陶隆房★(興房の子、のちの晴賢)
- 陶隆信★(隆房の弟)
- 陶隆康◇(興房の従兄弟、隆房(晴賢)の母方の伯父)
- 陶隆弘◇(隆康の子)
- 陶隆満★
- 陶隆胤(陶武護の子)
- 杉重矩★
- 杉隆重(=杉重輔?、重矩の子)
- 杉興運◇
- 杉隆景◇(興運の子)
- 杉隆宣
- 杉隆相(隆宣の子、のちの杉元相)
- 杉隆泰★
- 杉隆季(隆泰の弟)
- 杉隆真(のちの佐伯景教、→厳島神主家の項を参照のこと。)
- 杉隆哉(義隆死後は大友氏、次いで毛利氏に臣従)
- 杉原隆盛(初め木梨高盛、のち杉原元清)
- 椙杜隆康★
- 菅田宣真△(宗像氏一族で初め宗像宣真、のち毛利氏に降伏して臣従)
- 問田隆盛★
- 問田隆利[註 5]
- 内藤興盛(★)
- 内藤隆時(興盛の嫡男)
- 内藤隆世★(隆時の嫡男)
- 内藤隆春(隆通)(★)(興盛の5男で隆時の弟)
- 貫隆仲◇(奉行人)
- 野田隆方★(問田氏一門、隆盛の従兄弟)
- 野田隆徳★ (隆方の弟)
- 原田隆種
- 原田隆門(隆種の長男・種門の別名)
- 平賀隆宗
- 平賀隆保◇
- 弘中隆包(隆兼)★
- 弘中隆助(隆守/隆佐)★(隆包の子)
- 深野隆弘◇
- 細川是久
- 細川隆是○(是久の子)
- 町野隆風★
- 町野隆親★(元・里見氏、蒲生氏家臣)
- 町野隆治★(隆親の子)
- 松原隆則◇
- 右田隆次◇
- 右田隆俊(隆次の弟)
- 右田隆量(★)(右田氏一族、のち右田重政に改名、天野元政の養父)
- 右田隆俊(隆量の子、のちの御郷康政)
- 右田隆秀(隆量の子)
- 宮川房長★
- 矢田隆通◇
- 矢田隆直△(隆通の子とされる、義隆・隆通の死後は毛利元就に属し元直に改名)
- 山崎隆次★(陶氏家臣、山崎興盛の子)
- 山崎隆方★
- 山田隆朝(豊前宇都宮氏の一族で宇都宮隆朝とも)
- 吉見隆頼(義隆の義兄(姉・大宮姫の婿))
- 冷泉隆豊◇
- 鷲頭隆政★?
その他の義隆の偏諱を受けた者
その他、中国地方、九州地方の武家の当主の多くが義隆の偏諱を受けており、義隆時代の大内家の隆盛を象徴している。
- 毛利隆元(毛利元就の長男)
- 小早川隆景(毛利元就の三男)
- 市川隆久(市川元教の弟)
- 宍戸隆忠(末兼隆忠とも)
- 宍戸隆家(隆忠の甥)
- 宍道隆慶
- 野間隆実
- 乃美隆興(初め小早川公平)
- 深瀬隆兼(初め宍戸隆兼、隆忠の叔父)
- 福屋隆兼(益田氏の庶流・福屋氏の当主)
- 福屋隆助(隆兼の弟)
- 福屋隆任(隆兼の次男で彦太郎の弟)
- 本城隆光(本城常光の子)
- 三須隆経(熊谷信直の四男、義叔父(叔母の夫)の三須房清の養子)
- 三隅隆兼(益田氏の庶流・三隅氏の当主)
- 三隅隆繁(隆重)(隆兼の次男、兄早世のため嫡子)
- 三隅隆信(隆繁の弟)
- 三吉隆亮(三吉氏)
- 三吉隆信(粟屋隆信とも、隆亮の子)
- 三吉隆好(隆亮の子、隆勝とも)
- 三吉隆俊(隆亮の子)
- 山内隆通
- 村上隆勝
- 村上隆重(隆勝の子)
- 龍造寺隆信
- 松浦隆信(道可)
脚注
註釈
出典
参考文献
- 書籍
- 福尾猛市郎『大内義隆』吉川弘文館〈人物叢書〉1989年。ISBN 4-642-05173-2
- 米原正義 編 『大内義隆のすべて』 新人物往来社、1988年。ISBN 4-404-01497-X
- 楠戸義昭『戦国武将名言録』PHP研究所、2006年
- 史料
関連作品
- 小説
- 御建竜一 『慈悲と修羅と―守護大名・大内義隆』(文藝春秋企画出版部)
- 海音寺潮五郎『陶晴賢』(文春文庫・『悪人列伝 近世篇』収録)
- 南条範夫『京狂いの果て-大内左京大夫義隆』(文春文庫・『おのれ筑前、我敗れたり』収録)
- 古川薫 『失楽園の武者―小説 大内義隆』(講談社/講談社文庫)
- 山本一成 『大内義隆と陶晴賢』(新人物往来社)
- テレビドラマ