パブロ・カザルス
民謡"鳥の歌"が愛奏曲。
生涯最後の演奏ともなった。
生涯最後の演奏ともなった。
パブロ・カザルス(Pablo Casals, 1876年12月29日 - 1973年10月22日[1])は、スペイン出身のチェロ奏者、指揮者、作曲家[2][3]。本名はパウ・カルラス・サルバドー・カザルス・イ・ダフィリョー(Pau Carles Salvador Casals i Defilló)[4]。 カタルーニャ地方のアル・バンドレイで生まれる。
6歳にならぬうちからピアノとオルガンを堪能にした父カルラスに音楽の手ほどきを受ける。 1888年にジュゼップ・ガルシアのチェロ演奏を聴き、バルセロナ市立音楽院に入学してガルシアの生徒となった。 1893年にはスペイン王室から奨学金を賜り、マドリード王立音楽院でチェロの他作曲などを学んだ。 1890年に楽譜店でヨハン・ゼバスティアン・バッハの無伴奏チェロ組曲集と出会ってからこの曲の研究に勤しみ、25歳の時に人前で演奏して以降、何度も演奏して演奏会のレパートリーとして定着させた。
1895年にパリでコンサートを開き、スペイン国外での名声の足掛かりを作った。1899年にコンセール・ラムルーのコンサートに出演してパリでの活動に弾みをつけ、1905年にはピアノ奏者のアルフレッド・コルトーとヴァイオリン奏者のジャック・ティボーとでカザルス・トリオを結成し、1933年まで活動した。 1919年からバルセロナで自らの名前を冠したオーケストラを立ち上げて指揮活動も行うようになったが、1936年にはスペイン内戦の勃発により手兵のオーケストラは解散することとなった。
内戦が終結し、フランシスコ・フランコによる軍事政権が発足すると、フランスのピレネー山麓のプラドに隠棲し、「フランコ政権が続く限り祖国には戻らない」と宣言している。 1945年から演奏活動を再開したが、フランコ政権下のスペインに対する諸外国の態度に失望し、フランコ政権を黙認する国での演奏を拒否して、プラドでカザルスを慕って集まってくるチェロ奏者たちへのレッスンと作曲に活動の軸を移すようになった。
1950年にはアレクサンダー・シュナイダーの説得により、プラドで音楽祭を開く形で演奏活動を活発化させている。このカザルスを囲む音楽祭は、開催年によってペルピニャンやプエルトリコ等と場所を変えて開催されるようになり、ルドルフ・ゼルキンとの親交から、ゼルキンの主宰するマールボロ音楽祭にも登場するようになった。
1971年には国際連合本部ビルの総会議場で演奏会を開き、国際連合から平和賞を授与された。
プエルトリコのサンフアンの病院にて心臓発作のため死去[5]。享年96。
注
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- ↑ 宇野 (1993) 宇野功芳 [ CASALS Pablo パブロ・カザルス 名チェリストに止まらぬ人間として偉大であった孤高の大芸術家 ] クラシック不滅の巨匠たち 音楽之友社 1993 7 9784276960039 160-163|asin=B00J9D78CC
- ↑ 平林 (1996) 平林直哉 [ Casals カザルス,パブロ ] 指揮者のすべて 音楽之友社 1996 5 9784276960220 72
- ↑ (2007) BEETHOVENSymphonies Nos. 1 and 4 / BRAHMSVariations on a Theme by Haydn (Casals) (1927, 1929) 2007 arch. 2021-03-05 2021-03-05
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