花岡事件 (対鹿島訴訟)
花岡事件(はなおかじけん)の対鹿島訴訟(たいかしまそしょう)は、1995年6月28日に、花岡事件の生存者と遺族11人が東京地裁に提起した、鹿島建設に対する損害賠償請求訴訟。1989年に花岡受難者聯誼会が鹿島建設に謝罪と賠償金の支払、記念館の建設を要求、日本の中国人強制連行を考える会の支援を受けて鹿島建設との補償交渉が行なわれ、1990年7月5日に鹿島建設は事件の責任を認め生存者・遺族に謝罪したが、補償金支払や記念館建設を巡る交渉がまとまらず、提訴に到った。1997年に東京地裁が原告の訴えを却下した後、2000年11月29日に東京高裁で和解が成立。鹿島が5億円を中国紅十字会に信託し、花岡平和友好基金を通じて、戦時中、鹿島組花岡出張所に連行された華人労務者約1,000人の「受難者」や遺族が和解条項を承認した場合に補償金が支払われることになった。2009年12月時点で約1,000人のうち約520人の身元が判明、このうち約480人が支払いを受け、10数人が和解を拒否している。
補償交渉
在日元華人労務者の未払賃金支払要求
1971年にフリーライターの石飛仁は、花岡事件の取材調査を通じて、元鹿島組花岡出張所の華人労務者のうち、日本に残留していた劉智渠・李振平ら4人と面識を得た[1]。
1983年9月1日に、札幌華僑総会で、劉智渠・李振平と、元鹿島組花岡出張所の「中山寮」職員だった越後谷義勇および石飛は、鹿島建設に対して元華人労務者への未払賃金の支払を要求する交渉を進めることを決め、1984年2月に石飛が東京の鹿島建設本社を訪問して交渉を申し入れ、越後谷や劉智渠・李振平も出席して、交渉が続けられた[2]。
交渉の中で、鹿島側は、戦後、元華人労務者に対する賃金を支払い、死亡者の名簿を作成して国へ提出し、それに対して国から補償金を受け取った記録が残っており、賃金は支払済のはずだと説明した[3]。これに対して、劉や越後谷は、華人労務者は労賃を受け取っていないと主張していたが、その後、鹿島側は、戦犯裁判の記録の中に、戦後華人労務者への金品の支払いがあった旨の言及があると指摘し、更にその後、1945年12月29日付で残留華人宛てに総額11,000円を支払った、という社内の記録があったとし、その後も賃金の出納を記した台帳等の直接的な資料は見つからなかったが関連資料から支払ったと推定されるとして、一貫して「賃金は支払済」と主張した[4]。
耿諄の訪日
1985年頃、秋田県大館市では、1985年6月30日に市主催で「中国人殉難者慰霊式」を行うことになった[5]。劉智渠や石飛らも式典に招待されることになり、式典に先立ち同月26日に国会議員会館で声明を発表した[6]。
こうした動向は中国でも報道され[7]、元鹿島組花岡出張所の華人労務者の大隊長で、中国に帰国していた耿諄は、報道で劉智渠らが鹿島と交渉していることを知り、劉に書簡を送った[8]。
- なお、耿諄の書簡には、劉らが「私たち仲間1,000人分にあたる工賃を支払っていないことに対して」支払を要求していることを知った、と記されていたが[9]、劉らは、日中共同声明における政府間合意の範疇から外れる「日本国内の問題」として、日本に残留した元華人労務者4人についての未払賃金の支払を要求していた[10]。
1985年11月に劉智渠と石飛は、中国・河南省襄城県で暮らしていた耿諄を訪問し、花岡事件についてインタビューをした[11]。
- 劉と石飛は、耿諄の案内で、近くの双廟郷に住んでいた、元華人労務者で書記を務めていた劉玉卿にも面会した[12]。
- 耿諄と劉智渠・石飛は、鹿島との交渉の全権を劉智渠に託し、鹿島から未払賃金の支払が得られた場合は「資料記念館」の建設に充てることを申し合わせた[13]。帰国後、劉は、耿諄からの「全権委任状」を受け取っている[14]。
同年12月8日付『朝日新聞』で耿諄の消息が報じられ、同紙・清水弟記者を通じて日本の関係者に耿諄の消息が伝えられた[15]。日本に帰国した石飛は、慰霊式の開催に対する耿諄の感謝状を大館市に届け、同市の畠山市長は耿諄の来日を歓迎する旨を表明した[16]。
1986年2月に、石飛と劉智渠は、鹿島側が労賃を支払済として根拠資料に言及したことにより停滞していた交渉を打開するため、新美隆、内田雅敏ら、「新左翼系の逮捕者の弁護を引き受けていた若手」の弁護士を招請した[17]。
1986年6月または8月から、新美と内田が劉の代理人として鹿島建設との交渉にあたることになった[18]。劉智渠と新美・内田は、中国に帰国していた事件の被害者も含めて、また未払賃金だけでなく補償を要求する方向で鹿島建設との交渉を進めるようになった[19]。
- 石飛は、日中共同声明における戦争賠償の請求の放棄に沿い、日本に残留した被害者の未払賃金の支払のみを要求していたため、新美らの交渉には加わらず、劉の代わりに李振平を交渉の代表者とし、西垣内堅佑弁護士を代理人として「劉・李・宮を守る会」を結成して別途鹿島建設と交渉を進めた[20]。
新美から交渉参加を勧誘された愛知県立大学教授の田中宏は、耿諄の来日を実現するため、社会党の土井たか子、宇都宮徳馬、田英夫ら「著名な」国会議員8人の連名による招請状を中国へ送った[21]。
1987年6月26日に耿諄は来日し、同月30日に大館市花岡町の十野瀬公園で、市主催で開催された「中国人強制連行殉難者慰霊式」に出席した[22]。
1989年11月に、新美、内田、田中らは、在日中国人の林伯耀、猪八戒らと連携して中国人強制連行を考える会を結成し、耿諄ら中国本土の被害者本人・遺族との連携をはかった[23]。
1989年の公開書簡
日本から中国へ帰国した耿諄は、花岡事件に対して態度を表明していなかった鹿島建設(旧鹿島組)と交渉するため、中国在住の花岡事件の生存者や遺族約40人と連絡を取り合い、1980年代末に花岡受難者聯誼会の準備会を発足させた[24]。
1989年12月22日に北京市で準備会は公開書簡を発表し、鹿島建設に対して、謝罪と、大館市・北京市における記念館の建設、被害者986人に対する1人あたり500万円の損害賠償金の支払いの3項目を要求した[25]。
1990年1月より、内田と新美、田中、林伯耀らと、鹿島建設との交渉が行われた[26]。劉智渠も交渉に参加した[27]。
1990年の共同発表
1990年6月には、耿諄、王敏ら事件の生存者・遺族6人が来日し、同年6月30日に大館市主催の慰霊式に参列、その後東京へ移動し、同年7月5日に東京の鹿島本社で、耿諄ら生存者・遺族代表、新美以下の生存者・遺族の代理人と、鹿島建設の村上光春副社長ら3人との直接交渉が行われた[28]。交渉には劉智渠も同席した[29]。席上、鹿島側から、耿諄ら生存者・遺族に対して、謝罪があった[30]。
直接交渉の結果、公開書簡の要求項目のうち、記念館の建立と損害賠償金の支払は以後の交渉課題とされ、双方は共同発表を行なった[31]。共同発表の内容は3点から成り、
- 鹿島建設が、花岡事件を、閣議決定に基づく強制連行・強制労働に起因する歴史的事実として認め、企業としても責任があることを認識し、事件の生存者と遺族に謝罪の意を表明すること
- 1989年12月22日付の公開書簡の3項目の要求を、鹿島側が、双方の協議によって解決に努めるべき問題として認めること
- 双方は「過去のことを忘れず、将来の戒めとする」(周恩来)との精神に基づいて、生存者・遺族の代理人らとの間で協議を続け、問題の早期解決を目指すこと
が表明された[32]。
- 発表には、生存者・遺族代表の耿諄と、代理人の新美、内田、田中、内海愛子および林伯耀、鹿島建設を代表して副社長の村上が署名した[33]。
- 交渉過程で、1.の項目に関して、鹿島側は、強制連行・強制労働が「閣議決定に基づく」こと、企業として「も」責任があるとの文言を盛り込むよう主張し、企業だけでなく国にも責任があるとの意を含ませる内容になった[34]。
中国政府の請求容認姿勢
耿諄らの大館市での慰霊祭出席、鹿島建設との直接交渉・共同発表のニュースは、中国の新聞でも報道され、報道で花岡事件について知った河北大学の劉宝辰講師は、大学生に呼びかけて、外務省の「華人労務者就労事情調査報告書」の中にあった名簿をもとに、河北省在住の事件の生存者と遺族それぞれ24人・96人を探し出し、事件の生存者・遺族探しが急速に進んだ[35]。
1990年11月に、野添ら「考える会」の代表7人が訪中し、河北大学の劉講師を訪問、同月9日に北京で花岡事件の生存者や遺族ら40数人により「花岡事件殉難者追悼大会」が開かれて花岡受難者聯誼会が発足し、同月10日に代表団は、中日友好協会の黄世明副会長と会談した[36]。
席上、代表団は、黄副会長から、中国政府が花岡事件の生存者・遺族と鹿島建設の直接交渉の結果、鹿島側から謝罪を受けたことを高く評価していることと、中国政府は日中共同声明により日本政府に対する戦争賠償の請求を放棄したが、1980年代の教科書問題・靖国神社参拝問題・政治家の発言などから、日本政府は共同声明における「侵略に対する反省」の原則を守っていないように思われ、中国政府は政府間の問題と民間の問題は区別して考えている、として、個人による日本企業に対する損害賠償請求を容認する考えを伝えられた[37]。
未払労賃支払交渉の終了
1991年4月30日に石飛は北京の中日友好協会で孫平化会長と面会し、中国政府は民間であっても損害賠償請求を許さない、中国から賠償を要求することはない、との考えを伝えられた[38]。
同年6月に石飛らは、鹿島建設が日本に残留した元華人労務者に賃金を支払ったことの証拠として提示した、劉智渠と李振平の本人の拇印が押してある、終戦直後の賃金台帳を確認し、花岡事件全体についての謝罪と、鹿島側が5,000万円を拠出し花岡の信正寺境内に慰霊碑を建立(改修)すること、中国強制連行の被害者全員を対象にした「日中平和友好基金」が設立された場合に鹿島が応分の負担をすることを共同提案することで合意した[39]。
補償交渉の停滞
共同発表の後、約6年間、賠償問題について新美ら生存者・遺族の代理人と鹿島建設の間で交渉が続けられたが、交渉は進展しなかった[40]。
- 鹿島建設には、戦時中、外国人の強制連行や強制労働に関与した多数の企業から、国が責任を負担していないのに企業だけが責任を認めるべきでないとの非難があったとされ、また鹿島建設の社内からも、補償交渉の社内担当者に対して、反発があったとされる[41]。
- 被害者側は、鹿島側が交渉を長引かせ、高齢の原告団が死亡するのを待っている、誠意がない、と考えていた[42]。
- 野田(2008a,p.277)は、鹿島は共同発表の後、すぐに、賠償は認めない、供養料として1億円以下の拠出ならあり得る、記念館の設立は認めないなどの回答を伝え、「謝罪」は「遺憾」の意であり、日中共同声明により中国側の戦争賠償請求権は放棄されていると主張し続けた、としている。
1993年にNHKの取材班によって調査関係者が所持していた『外務省報告書』が再発見され、1994年に日本政府が報告書は本物に間違いないことを認めた[43]。1994年まで日本政府は華人労務者は「日本に出稼ぎに来た」「契約労働者として来た」との見解を示していたが、中国人の連行が半強制的に行なわれていたことが公文書によって裏付けられたため、公式見解が改められた[44]。
生存者・遺族と鹿島建設の直接交渉は、1994年7月、同年10月にも行われたが、被害者側が鹿島側の対応を不誠実だとして強く抗議するような状況で、交渉は合意に至らず、1995年3月30日に、被害者側が交渉を打ち切り、訴訟を提起することを表明した[45]。
- 1995年3月7日には、全国人民代表大会で、銭其深副総理・外交部長が、人民代表の劉彩品[46]からの質問に対して、「日中共同声明における日本国の戦争賠償請求の放棄には、個人賠償まで含まれるものではない。中国政府は民間賠償を求める人民の動きを阻止しない」と回答していた[47]。
- 野田(2008b,pp.293-294)によると、2007年5月に、劉彩品は、野田に、「耿諄は、劉が『政府が耿諄たちを支持している』と感じさせてくれたから鹿島を訴えようという日本人の話に応じた、と語っていた」と言い、また銭其深に質問をしたのは「日本の弁護士と日本の友人と思っていた人たち」の要請によるものだった、と言った、という。
裁判
提訴
1995年6月28日に、生存者と遺族(耿諄、王敏、張肇国、李克金、李鉄垂ら、聯誼会の代表)11名が原告となり、新美、内田両弁護士らを代理人として、東京地方裁判所に、鹿島建設に対して、6,050万円(弁護士費用を含めて1人あたり550万円)の損害賠償金の支払を求める訴訟を提起した[48]。
原告側は、交戦国の人民を戦争遂行のために連行したことが国際条約違反にあたり、また「労工供出契約」に基づく債務の不履行および安全配慮義務違反があったと主張した[49]。
- 原告団には、もともと、1972年の日中共同声明で戦争賠償の請求放棄を表明していた中国政府の意向と無関係に裁判を提起して損害賠償を請求しようとする意識は希薄だったが、日本の市民運動団体との交流を通じて法的手段の存在や意義について示唆を得、また法的支援を受けて提訴に至ったという[50]。
1995年12月20日に第1回の口頭弁論で原告5人が意見を陳述し、以後口頭弁論が行われたが、1997年2月3日に、東京地裁(園部秀穂裁判長)は第7回口頭弁論を以て審理を打ち切った[51]。
控訴審
1997年12月10日に東京地裁は判決を言い渡し、原告側が主張した不法行為について除斥期間[52]を適用し、安全配慮義務違反については、原告が主張する中国からの強制連行および花岡出張所での強制労働という事実関係は、安全配慮義務を生じるべき被告との「直接の契約関係ないしこれに準じる法律関係」を意味しないとして、訴えを却下した[53]。
原告側がただちに東京高裁に控訴し、控訴審が行なわれた[54]。
- 新美は安全配慮義務の法理についての準備書面を法廷に提出した[54]。
- 1998年7月15日に東京高等裁判所で控訴審の第1回口頭弁論が開かれ、耿諄が意見陳述をした[55]。
- 同年12月の第3回公判では、鹿島組が外務省に提出した「事業場報告書」の原本が提出され、東京華僑総会の陳焜旺名誉会長が出廷した[54]。
- 1999年2月の第4回公判では、田中が、弁護団の依頼を受けて裁判所に提出した「中国人強制連行の歴史的背景と構造」と題した「意見書」について証言した[54]。
- 同年4月の第5回公判では、鹿島建設側が証言した[54]。
- 同年6月の第6回公判で、進行協議を行うことになった[54]。
- 同年7月の進行協議の席上、裁判所は、和解による解決の意思を当事者双方に表明した[54]。弁護団は、原告団の意向を確認するため、同年8月11日に訪中し、耿諄ら原告団に経過を報告して対応を協議、原告団と聯宜会は和解に同意し、同月13日付「委託書」(全権委任状)を弁護団に託した[54]。
- 李(2010,p.102)によると、原告団・聨誼会は、当初和解に応じず裁判を継続する姿勢を見せていたが、支援者団体や弁護団から和解の意義について説明を受け、会の決議を以て弁護団に全権を委任したという。
- 野田(2008,p.278)は、同年8月11日に新美らが原告と会ったとき、耿諄は共同書簡の要求に立ち返り、鹿島の謝罪が必要だと念押しした、としている。
1999年9月10日に、東京高裁(新村正人裁判長)は、当事者間の補償交渉の結果、既に「共同発表」が行なわれていることに着目し、双方に和解による解決を勧告した[56]。
加州における損害賠償請求訴訟の提訴
米国カリフォルニア州では、1999年7月にナチス・ドイツとその同盟国の企業による強制労働に対する損害賠償請求訴訟の提訴期限を2010年まで延長する州法が成立し、ドイツや日本の企業に対する裁判が開始されていた[57]。このとき新美は花岡事件の原告団の提訴を米国での提訴に切り替えないかと相談が持ちかけられ、新美は原告11人以外の事件関係者の提訴なら支障ないと回答した[58]。
しかしその後、時効延長の州法が違憲との判断が出た[59]。
和解協議
1999年9月から和解協議が開始され、翌2000年11月末まで、20回にわたって協議が行なわれた[60]。
鹿島側は、公益機関を通じて、被害者全体に対して意図したとおりに金銭の支払いが行われることを重要視していたといい[61]、このため新美、田中、林ら原告側の代理人は、駐日中国大使館を通じて、被害者の遺骨送還に関与してきた経緯があった中国紅十字会に、和解への参加を依頼した[62]。
- 中国紅十字会は、民間団体であるものの、江沢民を名誉総裁としていて中国政府とも無関係ではなく、このため当初は民間の損害賠償請求訴訟への介入には消極的だったという[63]。
- 1999年11月に、新美と田中が訪中し、中国紅十字会と協議を行った[64]。
- 中国紅十字会は、原告側からの要請を受けて、1999年12月16日に和解と補償の枠組みに参加することを表明した[65]。
- 新美(2006,p.222)は、鹿島建設は、中国政府まで動かして圧力をかけるのか、と驚いたが、このことが和解の成立につながった、としている。
鹿島側は、支払金額に関する見解の開きが解消されることを前提に、和解による交渉の妥結に前向きな姿勢を見せた[66]。
2000年4月21日に、東京高裁は、「和解勧告書」を原告、被告双方に示した[67]。このとき、「一括解決」の枠組みと、総額5億円の支払額が初めて提示された[68]。
同月末に、弁護団の新美、内田と川口和子弁護士、林伯耀、「考える会」の福田昭典事務局長、田中は、訪中して原告団に和解勧告書の内容を説明し、原告団は当初、5億円という金額が低すぎるとして難色を示したが、新美らから和解成立の意義について説明を受け、和解案の受入れを決定した[69]。
同年6月以降、裁判所での和解交渉が進められたが、鹿島建設側は、和解文書中に、共同発表において認めた「責任」は「道義的責任」であって「法的責任」ではないことの「確認」を和解文書中に記載するように求め、この文言は「確認」を「了解」に改めて和解文書に追記されることになった[70]。
同年11月17日に、新美、林、福田、田中は訪中し、改訂された和解条項について説明した[71]。その際、新美は、鹿島側の意向により追記された文言について、それまで日本の戦後補償に関する和解例では、何らかの責任を示した例はなく、強制労働に関するドイツの先例や基金でも、法的責任のないことが前提になっているとして、原告団に理解を求め、了解を得た[72]。
- 野田(2008)p.280はこのとき弁護団と原告らは「花岡平和友好基金」の運営などの話合いをし、弁護団は和解条項については説明しなかった、としているが、田中(2008)p.275は、基金の運営について話し合ったのは和解成立後の同年12月末の訪中の際のことであり、同年11月の訪中では和解条項について原告らの最終確認を得るための話し合いが行われており、野田は弁護団による2度の訪中を混同している、と指摘している。
和解後の動向
和解への批判
2000年12月23日付の『僑報』や同月27日付『北京日報』は、和解を批判した[73]。
- 2000年12月27日付『北京日報』に、米・南イリノイ大学教授の呉天威が記した、「花岡事件和解条項に欺瞞性あり」ないし「和解条項には欺瞞性がある」と題した論評記事が掲載された[74]。この論評は、中国の各新聞でも大きく報道された[75]。
2001年4月9日には、人民網日本版に、華東政法学院副教授の管建強が中国の雑誌に著した、花岡和解を批判する論文が転載された[76]。
- 田中(2008,p.276)は、管建強が論文の中で、東京高裁が、原告団がカリフォルニア州での提訴に踏み切ることを畏れて和解を急いだ、と主張していることに対して、「誰しも首をかしげる」内容だ、としている。
李(2010,p.104)は和解に対して被害者やその遺族、学者・弁護士・市民運動家などから寄せられた批判の内容は下記のようなものだったと総括している。
- 謝罪の意が表明されている1990年の「共同発表」を引用するに止まり、条文の中に直接謝罪の意が表明されていないこと
- 謝罪に関する条項に当初和解案になかった文言が付加され、鹿島建設の法的責任が否定されたこと
- 原告団に参加していない被害者の請求権を、当事者の同意を得ずに放棄すると規定したこと
- 補償金の支給対象を被害者全員の986人としたとき、和解金の総額5億円は1人あたり50万円程度となり、朝鮮人強制連行事件の訴訟における和解金の額[77]に比して補償金額が低かったこと
新美(2006,p.223)は、原告側の弁護人・代理人に対して、個人的な誹謗も含めて批判があったとしており、田中(2008,p.276)によると、新美は、和解条項よりも和解後に鹿島建設が発表したコメントに問題があったことが「不誠実な対応をする鹿島側との間で成立した和解自体が欺瞞的だ」という和解条項への否定的な見方につながり、和解自体が批判されることになった、と評価していた。
和解の拒否と受容
耿諄ら原告および聯誼会は、2000年11月27日の和解成立前に原告側代理人の新美弁護士らから報告を受け、耿諄の鹿島による記念館建設を求める意見や、和解案の修正に対する不満もあったが、和解に賛成する多数の意見により和解の受容を決めていた。しかし、同年12月27日、2001年4月9日に中国国内で和解に対する批判的な報道がなされた後、2001年6月26日に原告以外の生存者・遺族ら20人が和解を拒否する声明を発表し、原告のうち、同年8月に耿諄、同年11月に受難者遺族の孫力が和解金の受取を拒否する声明を発表した。これに対して聯誼会は同年6月27日に和解を再評価するコメントを発表した。その後2003年3月13日にも、地元紙の誤報を契機に耿諄が和解を批判し金銭の受取を否定する声明を発表、同年10月26日に、聯誼会は改めて和解を再評価するコメントを発表した。
- 2000年12月27日に原告側弁護団は北京を訪れ、原告と聯誼会に和解の成立を報告した[78]。
- 聯誼会は会として和解条項を受け入れたが、(いつ?)原告のうち原告団長の耿諄と原告遺族の孫力は、聯誼会の総意を尊重するとしながらも、個人としては和解を受け入れず、補償金を受け取らないと宣言した[79]。
- 野田(2008a,p.282)は、(いつ?)耿諄は、日本に留学中だった息子の耿碩宇から和解文について連絡を受け、「騙された」と知ってそのまま倒れ起き上がれなくなった、とし、(いつ?)耿碩宇は東京高裁に「原告が和解文を見ていない。原告を騙した」とする手紙を送った、としている。また有光ほか(2009,p.292)は、耿諄が日本から送られた和解条項の中国語訳を見て衝撃を受けて倒れたとされているのは同年12月に入ってから、としている。
- 2001年3月に林伯耀は河南省で耿諄に会い、和解が耿諄にとって満足できないものになったことを詫び、耿諄は林に対して、鹿島の対応を非難し、和解成立後に第三者から2件の抗議電話を受けたことを話した。林は、将来、聯誼会の予定方針通り、基金の一部を建設費用に充てて記念館を建設するつもりであることを伝え、耿諄に揮毫を依頼して別れた。このとき耿諄は体調を崩しており、高齢のためもう公の場に出るつもりはないと話していたという。帰国後の同年4月に、林は耿諄から記念館用の題字3枚を受け取った。[80]
- 林(2008,p.303)は、訪問前に、耿諄が鹿島が発表したコメントを聞いて驚き、病床に伏した、と人づてに聞いていた、としている。
- 同年4月20日に石飛仁が河南省に耿諄を訪問したとき、耿諄は和解に不満を示していた息子の耿碩宇を叱り、和解を受け入れているという意思を示しており、石飛が原告団に加わった元華人労務者の1人・張肇国を訪問した際にも、張から和解を受け入れる意向を伝えられた[81]。
- このことから、石飛(2010,pp.353-357)は、その後、耿諄が反和解に転じたと伝えられたことについて、同胞からの圧力があったのだろう、と推測している。
- 同年6月26日に原告以外の生存者・遺族ら20人が、「和解は11人の原告が内容を理解しない状況で同意されたものだ」とし、和解では聯誼会が公開書簡で要求した、鹿島の公開謝罪、記念館の建設、1人あたり500万円の賠償のうち、1項目も実現していない、として和解を拒否する声明を発表した[82]。
- 翌27日に聯誼会は、鹿島のコメントを非難しつつも和解を評価するコメントを発表した[83]。
- 野田(2008a,p.282)によると、同年8月に耿諄は「屈辱的和解」に反対すると表明した。
- 同年11月に原告の1人で事件被害者の遺族である孫力は、「花岡訴訟原告弁護団弁護士への公開書簡」を発表して、原告側弁護人が、鹿島側が法的責任を認めないという、和解の原則に関わるような問題を原告に報告せず、原告の意に反する和解を独断的に決めた、として原告側弁護士を批判した[84]。
- 2002年2月に林伯耀が耿諄を訪問しようとしたとき、耿諄から「『花岡和解』に賛成する人士に告ぐ、私はもう『花岡和解』について各位と話したいとは思わないので、来訪はお断りする」として訪問を拒絶するFAXが送られてきた[85]。
- 2003年3月9日付で、河南省の地元紙『平頂山日報』が、同年4月2日に河南省の鄭州で信託金の受給式が行なわれることになり、「耿諄を含む河南省の受難者が賠償金を受け取る」と報じた。これに対して、耿諄は、誤報だとして同年3月13日に「厳重に抗議する」と題した抗議文を出した[86]。
私はこの声明で、屈辱的な和解に明確な反対を表明し、依然として恥知らずな鹿島の救済金受け取りを拒否する(ただし、私本人に限る)(…)(和解成立の後)帰宅後しばらくしてから、日本から「和解条項」の文書と鹿島のコメントを受け取った。それを読んだ私は、怒髪天を衝き、胸がはち切れんばかりとなって朦朧とし、昏倒して病院に担ぎこまれた。(…)『和解』に列挙されている各条項は、みな被害者に足かせをはめることばかり規定している。それは90年の謝罪さえご破算にするもので、記念館の建設に及んでは、一字も触れてはいない。僅かに5億円は出すものの、賠償でも補償の性質を含むものでもないと注釈している。
– 耿諄「厳重に抗議する」2003年3月13日[87]
- 2003年10月26日に、聯誼会は、和解が鹿島の謝罪を前提としており、和解が日中間の「戦争遺留問題」を解決する「突破口」になったと評価するコメントを発表した[88]。
田中(2008,p.277)は、耿諄が和解批判に転じた背景として、中国国内での和解批判の論調が一定の影響力を有し、ちょうど小泉政権下で反日気運が高まっていた時期と重なったため、耿諄に対しても突き上げがあり、対応に苦慮したのだろう、と推測している。
米国における提訴の動き
1999年7月に、米国カリフォルニア州では、ナチス・ドイツとその同盟国の企業による強制労働に対する損害賠償請求訴訟の提訴期限を2010年まで延長する州法が成立し、ドイツや日本の企業に対する裁判が開始されていた[89]。田中(2008,p.276)によると、このとき新美に、花岡事件の訴訟を米国での提訴に切り替えないかと相談が持ちかけられたことがあり、新美は、原告11人以外の事件関係者の提訴なら支障ない、と回答したが、話を持ちかけた側の誰かは不満な様子だったという。
1999年に、ドイツに関する訴訟では、政府と企業が折半で100億マルクの資金を用意し、「記憶・責任・未来」財団が作られ解決が図られた[90]。
2001年6月27日に、『朝日新聞』『毎日新聞』などが、花岡和解を拒否した被害者・遺族が米国で提訴すると報道したが、田中(2008,p.277)によると、その後、カリフォルニア州法の時効延長が違憲との判断が出て、提訴の報道はない。
その後、米国の華人団体主導で「鹿島の『和解』を拒絶する花岡受難者補助基金」が設立され、2004年11月29日に、和解を受け入れていない耿諄ら9人に各25千元が支給された[91]。このとき耿諄は「気持ちは有難いが、受け取れない」と辞退した[92]。
野田正彰の批判と反論
2007年に、関西学院大学教授の野田正彰は、同年6月19日付『毎日新聞』への投稿文の中で、同年3月に耿諄と会って話を聞いたとして、耿諄は謝罪が得られなければ補償金を得ても意味がないと言っていたのに、原告側弁護団は謝罪が得られたかのように説明して原告を騙し、耿諄が主張していた鹿島による記念施設の建設についても何の合意もないのに、弁護団によって原告の意思に沿わない和解が成された、と主張した[93]。また2008年に、雑誌『世界』の同年1月号・2月号に文章を寄稿して和解を批判し、野田の『毎日新聞』への寄稿後、田中宏と林伯耀が野田と会談した際に、林や「かつての支援者」が耿諄を蔑むような発言をしていたと批判した[94]。
- これに対して田中(2008)は、野田は和解に至る交渉の経緯について、事実関係を誤解ないし曲解して、弁護団が原告を騙し、修正後の和解条項案について原告の同意を得ずに鹿島との和解に応じたかのように書いているが、弁護団は和解条項の受け入れにあたって耿諄を含む原告の同意を得ていた、と反論した[95]。
- これに対して野田(2008b)は、事実関係の誤解ないし曲解と批判された点については回答しなかったが、弁護団は耿諄を騙して意に反する和解を強いたと再度主張した。
- 林(2008)は、野田(2008a)の事実関係の認識に不正確な点が多く、耿諄を含む原告は、代理人から和解条項の修正について和解成立以前に説明を受けており、修正後の和解条項に応じるか原告や聯誼会の中でも意見の相違があったが、応じるとする意見が多数を占め、耿諄もそれに従っていたと指摘し、野田が耿諄の和解後の主張を「被害者の意思」と同一視して、原告や聯誼会の多数派の意見を無視し、原告側代理人が原告を騙したと主張している、と批判した。
- 内田雅敏は2008年9月8日付『毎日新聞』に「花岡高裁和解を戦後補償の突破口に」と題した反論を寄稿した[96]。
和解の問題点の検証
一連の議論を受けて、2008年10月から2009年4月にかけて、有光健、内海愛子、高木喜孝と『世界』編集長・岡本厚は、内田、福田、林、田中、「考える会」の町田忠昭、「私の戦後処理を問う会」代表の山辺悠喜子、同会の西村史朗・栗原毅・添田早俊、フリーライターの倉橋綾子、康健弁護士、劉恵明弁護士、管建強、ジャーナリストの舒曼から聞き取りをし、その他の関係者から関連資料・意見書の提供を受けて、2000年11月の「和解条項」の修正案について、和解成立前に原告に対し明確な説明がなされ、同意が得られていたかを検証し、検証結果が雑誌『世界』の2009年9月号に掲載された(有光ほか,2009)。
検証結果では、映像資料が残っていた2000年11月18日の中国紅十字会に対する和解案の説明に関しては、新美は修正案について修正箇所を逐語的に説明し、紅十字会の王国際部長と耿諄らは書面を見ながら条項を確認して修正点を確認していたことが裏付けられたが、中国語への通訳が厳密な逐語訳ではなく、また中国語に翻訳した書面を用意していなかったという問題点が確認された。同月19日の原告と聯誼会幹部・顧問への報告会については映像資料が残っていなかったが、18日の説明内容や、会に出席していた聯誼会幹事の王紅のメモから、新美らが故意に和解案の修正点を省略して(原告らを騙して)同意を得ていたとは考え難いと結論付けた[97]。
また同記事では、康健弁護士が「和解条項と(和解後の鹿島建設の)コメントは一体のものとして受け取った」とするなど、和解条項と鹿島建設のコメントにおける主張が関連付けて見られたことや、不正確な和解条項の条文の中国語訳が流布したことも和解案への誤解と不信を拡大した、と評価した[98]。
検証結果から、同記事は、花岡事件の和解における教訓として、
- 通訳・翻訳の問題を含めたコミュニケーション上の問題(例えば日本語の「和解」を中国語では「解決」に言い換え、日本語の「補償」を中国語で「賠償」と言い換えるなど)への対処
- (中国語に翻訳した)書面による確認、記録の重要性
- 集団訴訟での原告団分裂(和解に同意しない原告が現れる可能性)を想定して、和解に同意しなかった原告との対話や論点整理を行なうこと
を挙げている。また検証対象とはしなかったが指摘のある問題点として、米国・日本・中国での訴訟をめぐる運動体・支援者間の駆け引きや主導権争いの外的な状況を批判の要因に挙げた[99]。
花岡平和友好基金
2001年3月26日に和解条項に基づいて花岡平和友好基金が発足し、鹿島建設が支払った補償金5億円の信託を受けて、事件の被害者を探し、和解を承認した被害者やその遺族に補償金を支払っている[100]。
2009年12月までに、被害者986人のうち、520人の身元が判明し、このうち支給対象者(本人やその遺族)が存在し、和解を受け入れた479人に、賠償金25万円(日本円で支給)と奨学援助金5,000元(人民元で支給)が支払われた[101]。20数人は支払対象者となる近親者が存在せず、また10数人は和解を拒否した[102]。
関連訴訟への影響
花岡事件の対鹿島訴訟における2000年の和解条項は、他の類似事件の訴訟において先行事例として参照され、2009年10月の西松組安野発電所、2010年4月の西松組信濃川事業場における華人労務者の強制連行・強制労働事件などの損害賠償請求訴訟における和解条項の敲き台とされた[103]。
- 2009年10月に成立した、西松組安野発電所の訴訟の和解条項では、信託方式による被害者全員の救済のための(社)自由人権協会による「西松安野有好基金」の設立について花岡事件の和解条項を基礎としながら、西松側が強制連行を歴史的事実として認め、企業としても歴史的責任を認識すること、被害者とその遺族に対して謝罪の意を表明することが盛り込まれた。また和解金の額は、被害者360人分の和解金として2億5千万円、1人あたり約70万円とされ、花岡事件では和解条項に盛り込まれなかった強制連行の記念碑の建立についても和解条項に盛り込まれた。[104]
評価
李(2010,pp.110-111)は、日本における歴史和解の方式は、ドイツ方式との対比から批判されることが多いが、花岡事件の2000年の和解条項や西松・安野事件の2009年の和解条項と対比してみた場合(下表参照)、政府の責任を認めていないという問題があるものの、補償内容は遜色なく、特に和解時の生存者だけでなく被害者全員とその遺族を将来にわたって補償対象としている点では画期的な内容となっている、と評価している。
鹿島建設・花岡事件 | 西松建設・安野事件 | ドイツ方式 | |
---|---|---|---|
和解の時期 | 2000年 | 2009年 | 1999年 |
政治的・道義的責任 | 企業について認める | 企業について認める | 国家・企業とも認める |
法的責任 | 認めない | 認めない | 認めない |
財団の資金拠出主体 | 企業 | 企業 | 国家・企業の折半 |
補償総額 | 5億円 | 2.5億円 | 100億マルク(約6,500億円) |
被害者総数 | 968人 | 360人 | 1,200万人以上 |
支払対象 | 被害者全員(遺族含む) | 被害者全員(遺族含む) | 和解時の生存者とその遺族 |
支払対象者数 | 同上 | 同上 | 約167万人 |
1人あたりの補償金額 | 約50万円 | 約70万円 | 25-75万円 |
記念施設の設立 | (条項なし) | 強制連行の記念碑の建立 | 欧州共通の歴史教科書作成 |
出典:李(2010)pp.108-111により作成。
付録
関連文献
- 内田(2008) 内田雅敏「花岡高裁和解を戦後補償の突破口に」『毎日新聞』2008年9月8日[105]
- 旻子(2005) 旻子(著)山辺悠喜子(訳)「私の戦後処理を問う」会(編)『尊厳 半世紀を歩いた「花岡事件」』日本僑報社、2005年、4-86185-016-9
- 考える会(2001) 『花岡鉱泥の底から』中国人強制連行を考える会、2001年6月
- 内田(2001) 内田雅敏「『花岡事件』和解成立の意味するもの」『世界』2001年2月号、岩波書店
- 新美(2001b) 新美隆「花岡事件和解研究のために」『専修大学社会科学研究所月報』No.459、2001年9月
- 新美(2001a) 新美隆「花岡事件 和解の経緯と意義」『季刊戦争責任研究』No.31、2001年春、pp.36-42
- 新美(1991) 新美隆「中国人強制連行と賠償問題の現状」『月刊 状況と主体』No.189、1991年9月号、谷沢書房、pp.26-43、NDLJP:2207961/15 (閉)[106]
脚注
- ↑ 石飛(2010)p.16
- ↑ 石飛(2010)p.12-16
- ↑ 石飛(2010)pp.76-78
- ↑ 石飛(2010)pp.84-90,127-129,136-138,189,198-200
- ↑ 野添(1993)p.37、石飛(2010)pp.154,164-166
- ↑ 石飛(2010)pp.154-174。
- ↑ 1985年7月5日付の『参考消息』が共同通信のニュースとして伝えた(石飛,2010,pp.195-196、野添,1993,p.37)。
- ↑ 石飛(2010)pp.195-196,野添(1993)p.37。新美(2006,p.235)は、耿諄の消息が分かったのは1984年7月で、以後、中国国内の花岡の生存者・遺族の連絡が進んだ、としている。
- ↑ 石飛(2010)pp.195-196
- ↑ 石飛(2010)pp.121-124,183-184
- ↑ 石飛(2010)pp.213-247
- ↑ 石飛(2010)pp.250-253
- ↑ 石飛(2010)p.255
- ↑ 石飛(2010)p.258
- ↑ 石飛(2010)pp.254,257、野添(1993)p.37
- ↑ 石飛(2010)p.257
- ↑ 石飛(2010)pp.268,287。石飛(2010,pp.285-287)は、1986年2月28日に未払賃金の支払を要求する「意見書」を鹿島建設に提出した直後に、石飛が鹿島側に伝えていた、中国人強制連行問題に関係した企業による共同の補償基金構想に対して鹿島側から前向きな回答が得られたため交渉はまとめ段階に入り、基金方式での金額など詳細を詰める交渉を弁護士に委ねた、としているが、石飛,2010,pp.268-271の「意見書」(石飛1987の増補改訂箇所)には「基金」への言及はなく、「事実が積み重なるほど交渉は閉塞状況に陥った」とされている。
- ↑ 石飛(2010)p.287では6月から、新美(2006)p.203では8月から、としている。
- ↑ 石飛(2010)pp.288-291
- ↑ 石飛(2010)pp.288-291,293
- ↑ 金子(2010)p.410、田中(2008)pp.267-268、野田(2008a)p.276
- ↑ 金子(2010)p.410、新美(2006)p.306、野添(1993)pp.口絵,37-38。このとき耿諄は「感謝のことば」を述べた(野添,1993,pp.38-40)
- ↑ 金子(2010)p.410
- ↑ 野添(1993)p.40、李(2010)p.100
- ↑ 李(2010)p.100、新美(2006)pp.282,306、野添(1993)pp.40-41。石飛(2010)p.291は賠償金の支払要求のみに言及している。
- ↑ 田中(2008)p.268
- ↑ 石飛(2010)p.292
- ↑ 李(2010)pp.100,103、石飛(2010)p.292、田中(2008)p.269、新美(2006)pp.168,209-210,307、野添(1993)p.41
- ↑ 田中(1995)p.187
- ↑ 石飛(2010)p.292、田中(2008)p.269、野添(1993)p.41
- ↑ 李(2010)pp.100,103、新美(2006)pp.168,209-210,307、野添(1993)p.41
- ↑ 李(2010)p.100、有光ほか(2009)pp.279-280、新美(2006)p.282。新美(2006)p.282に共同発表の全文が掲載されている。
- ↑ 有光ほか(2009)p.280
- ↑ 李(2010)p.100
- ↑ 野添(1993)pp.41-42
- ↑ 野添(1993)pp.42-46
- ↑ 野添(1993)pp.42-46
- ↑ 石飛(2010)p.298
- ↑ 石飛(2010)pp.295-296,303-304。石飛(2010,p.308)によると、「秋田裁判公判記録」から、鹿島組は賃金を貯金通帳に振り込むことになっていたが振り込んでおらず、花岡出張所の河野所長が労賃を流用したと言及していることが分かったというが、石飛らは鹿島との合意にあたってはそのことに言及しておらず、賃金は支払済とされた。
- ↑ 李(2010)p.101、有光ほか(2009)p.280、田中(2008)p.269、新美(2006)pp.209-210
- ↑ 李(2010)p.101
- ↑ 新美(2006)pp.209-210
- ↑ 新美(2006)pp.206-208,307。同年5月17日に、NHKのテレビ番組『クローズアップ現代』で、「発見、幻の外務省報告書」が放送された(新美,2006,p.307)。後に、在日華僑の団体が同資料を各々1部ずつ所持していたことも明らかになった(新美,2006,pp.206-208)。
- ↑ 新美(2006)p.206
- ↑ 新美(2006)pp.168,210,307、李(2010)pp.101-102
- ↑ 南京・紫金山天文台研究員・教授(野田,2008b,pp.293-294)
- ↑ 野田(2008b)pp.293-294。野田(2008a,p.277)では「中国人民が個人で日本政府への賠償請求権を行使するのを、中国政府としては阻止も干渉もしない」との見解を表明した、と記しているが、日本政府に対する賠償請求ではないので、野田(2008b,pp.293-294)の記述によった。
- ↑ 李(2010)pp.101-102、有光ほか(2009)p.280、田中(2008)p.270、新美(2006)pp.168,307
- ↑ 新美(2006)pp.184-187
- ↑ 李(2010)p.101
- ↑ 新美(2006)p.307。「突如として事実審理を拒否し、『闇討ち的結審』を強行した」(新美,2006,p.173)
- ↑ 不法行為が行われた時から20年の経過で権利が消滅する、との解釈(新美,2006,p.243)
- ↑ 新美(2006)pp.169-173,213-215,242-244。李(2010,p.102)は、年次を1995年とし、却下の理由を「除斥期間経過」としている。
- ↑ 54.0 54.1 54.2 54.3 54.4 54.5 54.6 54.7 田中(2008)p.270
- ↑ 新美(2006)p.307、李(2010)p.102
- ↑ 李(2010)pp.102,108、新美(2006)pp.217,284-285,290-291,308
- ↑ 田中(2008)p.276
- ↑ 田中(2008)p.276
- ↑ 田中(2008)p.277
- ↑ 新美(2006)p.217
- ↑ 李(2010)pp.102-103
- ↑ 新美(2006)pp.221-222
- ↑ 李(2010)pp.102-103
- ↑ 田中(2008)p.271
- ↑ 李(2010)pp.102-103、田中(2008)p.271、新美(2006)pp.221-223
- ↑ 李(2010)pp.102,108
- ↑ 田中(2008)p.272
- ↑ 田中(2008)p.272
- ↑ 田中(2008)pp.272-273
- ↑ 田中(2008)pp.273-274
- ↑ 田中(2008)pp.274-275
- ↑ 田中(2008)pp.275-276
- ↑ 有光ほか(2009)p.282
- ↑ 田中(2008)p.276、林(2008)p.303
- ↑ 林(2008)p.303
- ↑ 田中(2008)p.276。のち『公平・正義・尊厳』(上海人民出版社、2006年)に収載(同)。
- ↑ 不二越事件の和解では、1人あたり500万円の補償金で調停が成立していた(李,2010,p.104)
- ↑ 新美(2006)p.308、田中(2008)p.276。新美(2006)p.308では、同月30日としている。
- ↑ 金子(2010)p.400、李(2010)pp.104,108、新美(2006)p.234
- ↑ 林(2008)p.303。田中(2008,p.278)では、同年4月に林が耿諄を訪問した際に揮毫を受け取った、としている。
- ↑ 石飛(2010)pp.353-357
- ↑ 有光ほか(2009)p.282 - 2001年6月27日付『毎日新聞』による。金子(2010)p.400。
- ↑ 林(2008)pp.304-305
- ↑ 有光ほか(2009)p.282
- ↑ 田中(2008)p.278
- ↑ 田中(2008)p.278、有光ほか(2009)p.282
- ↑ 有光ほか(2009)p.282
- ↑ 林(2008)p.305
- ↑ 田中(2008)p.276
- ↑ 李(2010)pp.108-111、田中(2008)p.277
- ↑ 田中(2008)p.277
- ↑ 田中(2008)p.277
- ↑ 野田(2008a)pp.277-282
- ↑ 野田(2008a)p.283
- ↑ 金子(2010)pp.400-401
- ↑ 有光ほか(2009)p.279
- ↑ 有光ほか(2009)pp.287-289
- ↑ 有光ほか(2009)pp.290-291
- ↑ 有光ほか(2009)pp.292-293、金子(2010)p.414
- ↑ 李(2010)pp.102-105
- ↑ 李(2010)p.105
- ↑ 李(2010)p.105
- ↑ 李(2010)pp.97,108-109
- ↑ 李(2010)pp.108-109
- ↑ 有光ほか(2009)p.279
- ↑ 金子(2010)p.411
参考文献
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- 石飛(2010) 石飛仁『花岡事件「鹿島交渉」の軌跡』彩流社、2010年、9784779115042
- 金子(2010) 金子博文「解説」石飛(2010)pp.389-422
- 李(2010) 李恩民「日中間の歴史和解は可能か-中国人強制連行の歴史和解を事例に」北海道大学スラブ研究センター内 グローバルCOEプログラム「境界研究の拠点形成:スラブ・ユーラシアと世界」『境界研究』No.1、2010年10月、pp.99-112
- 有光ほか(2009) 有光健・内海愛子・高木喜孝・岡本厚「『花岡和解』を検証する」『世界』2009年9月号、岩波書店、pp.278-296
- 田中(2008) 田中宏「花岡和解の事実と経過を贈る」『世界』2008年5月号、岩波書店、pp.267-278
- 野田(2008b) 野田正彰「田中宏氏に反論する」『世界』2008年6月号、岩波書店、pp.291-297
- 野田(2008a) 野田正彰「虜囚の記憶を贈る 第6回 受難者を絶望させた和解」『世界』2008年2月号、岩波書店、pp.273-284
- 林(2008) 林伯耀「大事な他者を見失わないために」『世界』2008年7月号、岩波書店、pp.296-305
- 新美(2006) 新美隆『国家の責任と人権』結書房、4-342-62590-3
- 林(2005) 林博史『BC級戦犯裁判』〈岩波新書〉岩波書店、2005年、4-00-430952-2
- 西成田(2002) 西成田豊『中国人強制連行』東京大学出版会、2002年、4-13-026603-9
- 田中(1995) 田中宏「解説」劉智渠(述)劉永鑫・陳蕚芳(記)『花岡事件-日本に俘虜となった中国人の手記』岩波書店、1995年、4002602257、pp.173-198
- 野添(1993) 野添憲治『花岡事件を見た20人の証言』御茶の水書房、1993年、4-275-01510-X
- 野添(1992) 野添憲治『聞き書き花岡事件』増補版、御茶の水書房、1992年、4-275-01461-8