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2008年9月19日 (金) 20:57時点における版

福島正則
福島正則
時代 戦国時代から江戸時代前期
生誕 永禄4年(1561年
死没 寛永元年7月13日1624年8月26日
改名 市松(幼名)、正則
別名 羽柴左衛門大夫、羽柴清洲侍従
神号
諡号
戒名 海福寺殿月翁正印大居士
霊名
墓所 梅洞山岩松院の正則廟(長野県小布施町
正覚院(東京都港区三田)
妙心寺海福院(京都市右京区
高野山悉地院(和歌山県高野町
新日山不動院広島市東区
菊泉院(愛知県海部郡美和町二ツ寺)
官位 従五位下、従四位下、従三位、左衛門大夫、
参議、権中納言、右近衛大将、侍従
幕府
主君 豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠
安芸広島藩主→信濃高井野藩
氏族 福島氏
父母 父:福島正信、母:豊臣秀吉の叔母
兄弟 姉(別所重宗室)、高晴
正室:津田長義の娘
継室:徳川家康の養女(牧野康成の娘)

|子=正友忠勝正利
娘(水無瀬兼俊室)、娘(大野猪右衛門室)
養子:正之(甥、姉と別所重宗の息子)、
養女:玄興院(姪、水野忠正の娘、来島長親室)}} }} 福島 正則(ふくしま まさのり)は安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大名である。

生涯

秀吉の子飼い

永禄4年(1561年)、福島正信の長男として現在の愛知県海部郡美和町で生まれる。

母が豊臣秀吉の叔母だったため、その縁から幼少より秀吉に仕え、天正6年(1578年)に播磨三木城の攻撃で初陣を飾る。

天正10年(1582年)の山崎の戦いの軍功で500石を知行し、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いのときは一番槍・一番首として敵将・拝郷家嘉を討ち取るという大功を立てて賞され、賤ヶ岳の七本槍の中でも突出して5000石を与えられた(他の6人は3000石)。その後も秀吉の主要な合戦の多くに参戦し、天正15年(1587年)の九州征伐ののち、伊予国今治11万石の大名に封ぜられる。

文禄元年(1592年)からの文禄の役では忠清道で兵站奉行と補給路の警備にあたり、文禄4年(1595年)に尾張国清洲に24万石の所領を与えられた。

関ヶ原の戦い

しかし、武勇に優れた正則は文治派の石田三成らと朝鮮出兵を契機としてその仲が一気に険悪になり、慶長4年(1599年)の前田利家の死後、朋友の加藤清正と共に三成を襲撃するなどの事件も起こしている。この時は徳川家康に慰留され襲撃を翻意したが、その経緯から家康の昵懇大名の一人となる。

また、姉の子で正則の養子になっていた正之と家康の養女・満天姫との婚姻を実現させた。これは諸大名の私婚を禁じた秀吉の遺命に反するものだったが、正則はこの婚姻こそが豊臣・徳川の将来の和平に繋がると確信していた。

慶長5年(1600年)の会津の上杉討伐には6000人を率いて従軍。その途中、上方で三成が挙兵した報を受けての小山評定では、家康の意を受けた黒田長政にあらかじめ懐柔されていた正則が三成挙兵に動揺する諸大名の機先を制して、いち早く家康の味方につくことを誓約し、反転して西上する方針が決定する。清洲から美濃方面に進軍し、西軍の織田秀信が守る岐阜城攻めでは池田輝政と先鋒を争い、黒田長政らと共同で城を陥落させる。関ヶ原の戦い本戦では石田勢との対陣を希望したが、宇喜多勢1万6000と激闘を繰り広げる。宇喜多秀家隊の前衛8000を率いた明石全登は音に聞こえた勇将で、福島勢は一時500メートルあまりも押しまくられ、壊滅寸前に追い込まれる。血相を変えた正則自身が叱咤して何とか持ちこたえ、一進一退の攻防を続けるうち、寺沢広高らの部隊が宇喜多隊の側面を突いたため、勝負は互角にもつれ込んだ。やがて小早川秀秋の背信を機に西軍の戦線は次々に崩壊。甚大な被害を被りながらも、福島正則隊は宇喜多勢を打ち破ることに成功した。こうして東軍の勝利に貢献第一と目された正則は西軍総大将・毛利輝元からの大坂城接収にも奔走し、戦後安芸広島備後49万8200石の大封を得た。

江戸時代

慶長6年(1601年)3月に芸備に入封した正則は早くも領内を巡検するとともに、検地で石高の再算出を行った。家臣への知行割も事実上の給米制とし検地の結果を農民に公開した上で実収に伴った年貢を徴収して負担を少なくするといった善政を布き、意外な地方巧者ぶりを発揮している。ただし築城や軍拡などのために領民の負担自体は高くなったのも事実である。また領内の寺社の保護にも熱心であり、慶長7年(1602年)には厳島神社の平家納経を修復させたことが知られている。この治世で、除封直前の石高は51万5800石に達している。

慶長9年(1604年)からの江戸幕府による諸城修築の動員に参加して忠勤に励む一方、豊臣家を主筋に立てることも忘れなかった。慶長16年(1611年)3月に家康が秀頼に対し二条城での会見を迫った時には、いまなお豊臣家が主筋と自負して強硬に反対した淀殿を加藤清正や浅野幸長とともに説得し、秀頼の上洛を実現させた(正則自身は病と称して会見に同席せず、枚方から京の街道筋を1万の軍勢で固めて変事に備えた)。

この会見直後に清正や浅野長政・幸長父子、池田輝政といった朋友の豊臣恩顧大名が相次いで死去し、正則自身も慶長17年(1612年)に病を理由に隠居を願い出る。しかしそれも許されずに飼い殺しの状態に置かれた正則は大坂の陣では秀頼に加勢を求められても拒絶し、大坂の蔵屋敷にあった蔵米8万石の接収を黙認するに留まった。これを知った幕府には東軍への従軍も許されず、江戸留守居役を命じられた。豊臣氏の滅亡を機に羽柴姓も捨てた正則は、ひたすら幕府への恭順を余儀なくされる。

改易と晩年

家康死後まもなくの元和5年(1619年)、台風による水害で破壊された広島城を無断でほんの少しだけ修理したことが武家諸法度違反に問われる。正則は2ヶ月も前から届けを出していたが幕府からは正式な許可が出ていなかった。しかも修繕したのは雨漏りする部分をやむをえず直しただけという。江戸参勤中の正則が謝罪し、修繕した部分を破却するという条件で一旦は沙汰止みになったものの破却が不十分であることを咎められ、安芸・備後50万石を没収、信濃国川中島四郡中の高井郡高井野藩、越後国魚沼郡、4万5000石に減封される。

これは過激な武将である正則の統制策とする理解が一般的だが、家康死後の二元政治廃止に伴う本多正純土井利勝らの幕府内権力争いにまきこまれたという説も提示されている。正純が受け取った届出を利勝らが正純の信頼を失墜させるためわざと放置していたと言うものである。最終的に改易を強行したのは2代将軍・秀忠だが、利勝や正純ら幕府首脳はむしろ正則の改易が諸大名の反抗に繋がることを恐れ、処分に及び腰であった。

元和6年(1620年)に嫡男・忠勝が早世したため、正則は2万5000石を幕府に返上した。寛永元年(1624年)、高井野で死去。享年64。

この際、家臣が正則の遺体を幕府の使者が到着する前に火葬したため(一説には正則が屈辱に耐えかね切腹したのを咎められるのを恐れこれを隠蔽するために急いで火葬にしたとも言われる)、福島家は残りの2万石も没収され、後を継いだ正則の子・正利は3000石の旗本に身分を落とすこととなった。

官職位階履歴

人物・逸話

  • 正則は尾張派の重鎮大名として北政所を尊崇すること強く、広島に赴くにあたって高台寺を訪れ、「それがしが忘恩の凶徒と罵られながらも内府(家康)に忠節を尽くしてきたのは、ひとえに秀頼公を思っての事であります。これだけ恩を売っておけば、内府も秀頼公に滅多なことはできまいと存じます。このたびの戦後処置で豊臣家は摂津和泉河内の一大名に落とされました。それがしは豊家を少なくとも80万石、いや100万石の大名として存続させる事を願っておりました。65万石は余りに少のうございますが、これで辛抱するほかございません」といったところ、北政所は「おん身は昔から誠実なお人だったからのう」と彼の主家思いに涙を流したという。ただし、この逸話の信憑性には疑問もある。「梵瞬日記」によれば、北政所(高台院)は関ヶ原の数年後まで正則と対面した記録がないという。
  • 関ヶ原では第一の武功を賞されたが、度々それを投げ打つことも辞さない言動をしている。岐阜城を攻め落とした際には「某(それがし)の武功に代えても」の一言で城主・織田秀信の助命を嘆願した。その直後、家臣が徳川家の足軽に侮辱されて自害し、その上司である旗本・伊奈図書の切腹を正則が要求したときも「聞き容れられなければ城地を立ち去るのみである」と啖呵を切っている。
  • 関ヶ原後に三成が捕えられた際に、三成の「脱出して再起を図ろうとする事こそ大将の心がけだ」との発言を聞き、「至極もっともなり、(戦場から脱出する事は)少しも恥辱にあらず」と賞賛したとする逸話がある。
  • 泥酔して家臣に切腹を命じ、翌朝になって間違いに気付いたがもはや取り返しがつかず、その家臣の首に泣いて詫びたという逸話もある。
  • 幕府の命で名古屋城の手伝普請に従事している際、「江戸駿府はまだしも、ここは妾の子の城ではないか。それにまでコキ使われたのでは堪らない」とこぼし、輝政に「お前は(家康の)婿殿だろう、我々のためにこのことを直訴してくれ」と迫った。清正が笑いながら「滅多なことを言うな。築城がそんなに嫌なら国元に帰って謀反の支度をしろ。それが無理なら命令どおりに工期を急げ」とたしなめ、その場は収まったという。
  • 家康が重病で死の床に就くと正則は駿府を訪れて見舞ったが、家康は「一度安芸に帰られるがよい。将軍家(徳川秀忠)に不服があれば、遠慮せず、兵を挙げられるが良い」と冷たく言い放った。御前を退出した正則は「今日までご奉公に努めて来たにも関わらず、あのような申されようは情けない限りだ」と嘆き、人目も憚らず泣いた。それを聞いた家康は「その一言を吐き出させるために、あのように言ったのだ」と安心したという。
  • かなりの恐妻家で女性問題で嫉妬に狂った夫人に長刀で斬りつけられて逃げ出したこともあると言う逸話も残っている。

家臣団

関連文献

外部リンク

先代:
-
福島氏(広島藩)藩主
1600 - 1619
次代:
浅野長晟
先代:
-
福島氏(高井野藩)藩主
1619 - 1624
次代:
福島忠勝
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