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1945年9月、株式会社[[トッパン]]の顧問となる。
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1945年9月、株式会社[[トッパン]]の顧問となる。1947年、『改造』12月号に「亡命知識人論」を発表する。この中で大宅壮一は「「今後も政治的にはまったく「自由」な立場で,発言し行動したいと思っている。それを第三者が何と批評しようと,もちろんそれは勝手である」と述べている。
  
 
1950年頃から本格的に[[ジャーナリズム]]で活躍。
 
1950年頃から本格的に[[ジャーナリズム]]で活躍。
1954年6月、[[中近東]]、[[ヨーロッパ]]、[[アフリカ]]、[[ブラジル]]、[[中南米]]諸国へ取材の旅に出る。1955年に「「無思想人」宣言」を行う(『中央公論』1955年5月号)。1920年代の日本共産党シンパの評論家から鶴見俊輔はこれを「前衛的知識人から傍観者的知識人への転向のコースの典型」と述べた。
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1954年6月、[[中近東]]、[[ヨーロッパ]]、[[アフリカ]]、[[ブラジル]]、[[中南米]]諸国へ取材の旅に出る。1955年に「「無思想人」宣言」を行う(『中央公論』1955年5月号)。1920年代の日本共産党シンパの評論家から無思想人となった。鶴見俊輔はこれを「前衛的知識人から傍観者的知識人への転向のコースの典型」と述べた(鶴見俊輔(1959)「後期新人会員――林房雄・大宅壮一」思想の科学研究会編『共同研究転向 上巻』平凡社)。
 
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1956年、『日本の裏街道を行く』で第10回[[文芸春秋読者賞]]を受賞。「一億総白痴化」が流行語となる。
 
1956年、『日本の裏街道を行く』で第10回[[文芸春秋読者賞]]を受賞。「一億総白痴化」が流行語となる。
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1959年9月、[[フルシチョフ]]訪米を取材するため渡米した。1965年4月、[[菊池寛賞]]を受賞。
 
1959年9月、[[フルシチョフ]]訪米を取材するため渡米した。1965年4月、[[菊池寛賞]]を受賞。
  
1967年(昭和42年)1月に「大宅壮一東京マスコミ塾」(略称・大宅マスコミ塾)を開く。
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1967年(昭和42年)1月に「大宅壮一東京マスコミ塾」(略称・大宅マスコミ塾)を開く。逝去により閉塾するまで、8期480名の塾生を送り出した。
  
 
1968年1月、[[東京女子医科大学]]心臓研究所に入院。
 
1968年1月、[[東京女子医科大学]]心臓研究所に入院。
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1969年9月、[[古希]]の祝賀パーティを[[ホテルニューオータニ]]で開催した。
 
1969年9月、[[古希]]の祝賀パーティを[[ホテルニューオータニ]]で開催した。
  
1970年(昭和45年)11月22日、東京女子医科大学心臓血圧研究所で死去した。
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1970年(昭和45年)11月22日、東京女子医科大学心臓血圧研究所で死去した。葬儀は同年11月28日に青山葬儀所で行われ、同郷の生まれの[[川端康成]]が弔辞を読んだ。
  
 
== 流行語 ==
 
== 流行語 ==

2018年8月13日 (月) 17:54時点における版

大宅 壮一(おおや そういち、1900年9月13日 - 1970年11月22日)は日本の評論家。時代の風潮を鋭く明快に斬る社会評論で人気を博した。

経歴

1900年(明治33年)9月13日、大阪府三島郡富田村(現高槻市)に父・八雄、母・トクの三男として生まれる。生家は醤油醸造業を営む。6歳のとき富田尋常小学校に入学し、12歳で卒業する。1912年4月、富田尋常高等小学校に入学、このころから少年雑誌に投稿し、入選するようになる。

1915年、富田尋常高等小学校を卒業。同年4月、旧制茨木中学(現・大阪府立茨木高等学校)に入学する。投稿は中学3年まで続く。このころ父親は酒を飲んで働かず、代わりに大宅 壮一が醤油醸造業に従事した。学校には2日に1回しか行かなかった。中学生向けの雑誌『少年』『少年倶楽部』に作文や俳句を投稿し、メダルや昆虫採集用の虫籠などの懸賞を受賞している。

1918年(大正7年)7月、父親が胃がんのため死去。同年11月、18歳(4年生)の時、米騒動に際して米騒動を煽動するような演説をおこない、大阪・茨木中学を諭旨退学となった。

1919年(大正8年)、徳島中学専門学校入学者検定試験(専検)を受け、100人中ただ一人合格し、旧制高等学校入学資格を得る。同年9月、第三高等学校(現・京都大学教養部)文科乙類に入学。

1922年(大正11年)3月、第三高等学校を卒業する。三高卒業と同時に最初の妻である山本和子と結婚する。山本和子は大川光三より紹介された加島銀行員であった。同年4月に東京帝国大学(現・東京大学)文学部教育学科に入学するが、すぐ社会学科に転学する。東大「新人会」に入る。

1923年、東大通学の傍ら生活費のため、岩倉鉄道学校の英語講師となる。同年9月に関東大震災で学校自体が消失し休校となり失業する。戯曲「まずしければ」を『文芸時代』に発表。 賀川豊彦らの影響をうけ,日本フェビアン協会創立に参加した。参加者には川原次吉郎宮崎龍介木村毅秋田雨雀、大宅壮一、安部磯雄松永義雄山崎今朝弥富士辰馬等がいた。「一年もたたずに姿を消してしまった」とウィキペディアにあるが、これは誤りである。日本フェビアン協会の活動を通じて出会った近藤愛子と親しくなると妻和子も浮気したため離婚となる。近藤愛子と再婚したが後に結核で亡くなった。

1925年、新潮社の嘱託となり、『社会問題講座』(全13巻)の編集に携わる。東京大学3年生に4年間籍を置いたが退学した。

1926年1月、雑誌『新潮』巻頭「新潮評論」を無署名で執筆する。同年12月号に「文壇ギルドの解体」を昭和元年署名入りで発表し、文筆活動に入る。当初は「左翼のパリパリの評論家」としてしられていた。『赤い星』(翻訳、新潮社)を刊行した。 1927年、世界文学全集の『モンテクリスト伯』下巻を翻訳。この印税で東京吉祥寺に家を新築する。

このころ、週刊新聞『時局新聞』の編集顧問にも名を連ねる。1年余の短命であったが、大宅の痛烈な評論のほかに作家・漫画家によるユニークで直截な評論・小説・画があり、近代文学史・思想史・ジャーナリズム史研究に活用される。

1931年、大宅昌と結婚した。

1934年、東京日日新聞社大阪毎日新聞の社友となる。このころから海外に旅行するようになり、1935年7月、朝鮮満州香港に旅行し。翌年の 1936年9月は南洋諸島に旅行した。その翌年の1937年には毎日新聞社の従軍記者として、上海、香港、北京徐州南京広東などを回った。

1939年5月、理研映画常務取締役製作部長に就任したが、1941年8月に取締役製作部長を辞任した。 1941年11月、今村均中将を軍司令官とするジャワ方面軍である第十六軍の宣伝文化部隊に徴用された。大宅を推薦したのは『陸軍画報』社長の中山正男である。 1942年1月、ジャワ作戦に参加するも、乗っていた輸送船が撃沈される。 1943年4月に設立された啓民文化指導所の総務に就任した。日本占領下のジャワで発行された雑誌『ジャワ・バル』第9号(1943年5月,[復刻版,龍渓書舎,1992年])で,大宅は「啓民文化指導所本部及び映画部指導委員」として紹介されている。このころ「「こんなことをやっていては,日本人は世界中から嫌われる。戦争を早く終結すべきだ」などと,軍に楯をついて,ついには憲兵から危険人物視されるようになった(半藤一利(2006)『恋の手紙 愛の手紙』文春新書)。 1943年10月末、日本に帰国した。

1944年、東京・世田谷八幡山で自給自足の農耕生活に入る。

1945年9月、株式会社トッパンの顧問となる。1947年、『改造』12月号に「亡命知識人論」を発表する。この中で大宅壮一は「「今後も政治的にはまったく「自由」な立場で,発言し行動したいと思っている。それを第三者が何と批評しようと,もちろんそれは勝手である」と述べている。

1950年頃から本格的にジャーナリズムで活躍。 1954年6月、中近東ヨーロッパアフリカブラジル中南米諸国へ取材の旅に出る。1955年に「「無思想人」宣言」を行う(『中央公論』1955年5月号)。1920年代の日本共産党シンパの評論家から無思想人となった。鶴見俊輔はこれを「前衛的知識人から傍観者的知識人への転向のコースの典型」と述べた(鶴見俊輔(1959)「後期新人会員――林房雄・大宅壮一」思想の科学研究会編『共同研究転向 上巻』平凡社)。

1956年、『日本の裏街道を行く』で第10回文芸春秋読者賞を受賞。「一億総白痴化」が流行語となる。

1959年9月、フルシチョフ訪米を取材するため渡米した。1965年4月、菊池寛賞を受賞。

1967年(昭和42年)1月に「大宅壮一東京マスコミ塾」(略称・大宅マスコミ塾)を開く。逝去により閉塾するまで、8期480名の塾生を送り出した。

1968年1月、東京女子医科大学心臓研究所に入院。

1969年9月、古希の祝賀パーティをホテルニューオータニで開催した。

1970年(昭和45年)11月22日、東京女子医科大学心臓血圧研究所で死去した。葬儀は同年11月28日に青山葬儀所で行われ、同郷の生まれの川端康成が弔辞を読んだ。

流行語

大宅壮一の生み出した流行語には次のものがある。

著書

  • 『社会問題講座〈11~13〉』新潮社,1927
  • 『千夜一夜物語』(翻訳),中央公論社,1928
  • 『英国戯曲集』(翻訳),新潮社,1928
  • 『ジャーナリズム講話』白楊社,1935
  • 『果たして怪教か?-類似宗教の解剖ー』東京日日新聞社,1935
  • 『宗教を侮る』真正社,1937
  • 『新興宗教』板垣書店,1950
  • 『日本の遺書』ジープ社,1950
  • 『人間の裸像』板垣書店,1950
  • 『実録・天皇記』鱒書房,1952
  • 『蛙のこえ』鱒書房,1952
  • 『世界の裏街道を行く〈〔第1〕〉中近東・欧洲篇』文藝春秋新社,1955
  • 『無思想人宣言』鱒書房,1956
  • 『昭和怪物伝』角川書店,1957
  • 『僕の日本拝見』中央公論社,1957
  • 『女傑とその周辺』文藝春秋新社,1958
  • 『わが青春放浪記』春陽堂書店,1958
  • 『大学の顔役』文藝春秋新社,1959
  • 『日本の人物鉱脈』文藝春秋新社,1959
  • 『日本新おんな系図』中央公論社,1959
  • 『フルシチョフ遠征従軍記』新潮社,1960
  • 『日本のいちばん長い日』KADOKAWA,1973
  • 『炎は流れる (明治と昭和の谷間)』第1巻~第4巻,文芸春秋新社,1964
  • 『青春日記』中央公論新社,1979

参考文献

大宅壮一(2010)『大宅壮一自伝』日本図書センター