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2018年5月24日 (木) 22:45時点における最新版
エーリッヒ・フォン・マンシュタイン Erich von Manstein | |
---|---|
1887年11月24日 — 1973年6月10日 | |
渾名 | |
生誕地 | ファイル:Flag of the German Empire.svg ドイツ帝国 ファイル:Flag of Prussia (1803).gif プロイセン王国 ベルリン |
死没地 | 西ドイツ(ドイツ連邦共和国) ファイル:Flag of Bavaria (lozengy).svg バイエルン州 イルシュハウゼン |
所属組織 | ファイル:War Ensign of Germany 1903-1918.svg ドイツ帝国陸軍 ファイル:Flag of Weimar Republic (war).svg ワイマール共和国陸軍 |
軍歴 | 1906年–1944年 |
最終階級 | 元帥 |
部隊 | |
指揮 | 第18歩兵師団 第XXXVIII軍団 |
戦闘 | 第一次世界大戦 |
戦功 | |
賞罰 | 柏葉剣付き騎士鉄十字章 |
除隊後 | |
廟 |
エーリッヒ・フォン・マンシュタイン(Erich von Manstein, 1887年11月24日 - 1973年6月10日)はドイツの第二次世界大戦期の陸軍元帥であり、同時代の最も有能な将帥の一人として知られる。彼は西方電撃戦の立案者でもあった。後にクリミア半島とレニングラード攻撃を指揮し、その後、スターリングラード攻防戦後に優位に立ったソ連軍の攻勢を食い止め、第三次ハリコフ攻防戦でハリコフを陥落させた。これは緒戦におけるキエフ包囲戦に並び、東部戦線におけるドイツの最も大きな勝利の1つである。 彼は最高指導者であるヒトラーの決定に逆らわなかったが、対案を具申し、ヒトラーに対してはっきりと意見を開陳する数少ない将軍の1人だった。 その名将ぶりは戦時中のアメリカでも知られ、タイム誌でも醜悪な顔に描かれることなく毅然とした顔で表紙を飾り、『我らの最も恐るべき敵』と評された。
目次
生い立ち[編集]
マンシュタインは、プロイセン貴族のエドゥアルト・フォン・レヴィンスキー砲兵大将 (1829年 - 1906年)とヘレーネ・フォン・シュペリンク(1847年 - 1910年)夫妻の十番目の子供フリッツ・エーリッヒ・フォン・レヴィンスキーとして生まれた。母の妹ヘドヴィヒ・フォン・シュペリンク(1852年 - 1925年)はゲオルク・フォン・マンシュタイン中将(1844年 - 1913年)と結婚していたが、彼らには子供がなく、エーリッヒは生まれる前から彼らの養子になることが決められていた。これによって彼の姓はフォン・レビンスキー・フォン・マンシュタインという二重姓になる。エーリッヒが生まれた時、レヴィンスキー大将はマンシュタイン中将に「本日、君は元気な男の子を得た。母親と子供は元気だ。おめでとう」との電報を送った。
父親がプロイセンの将軍だっただけでなく、二人の祖父も将軍であり、母方の伯父はヒンデンブルクと姻戚関係にあった。従ってマンシュタインの軍における出世は誕生時から保証されていた。彼は当時ドイツ帝国領であったフランスのシュトラスブルクの中学校(リセ)に1894年に入学し、1900年にプローエンとグロス・リヒターフェルデ(ベルリン)の陸軍士官学校に入学、1906年3月に第3近衛歩兵連隊に士官候補生として入営し、1907年1月に少尉に任官、1913年10月にベルリンの陸軍大学に入学した。
第一次世界大戦[編集]
第一次世界大戦では、マンシュタインは西部および東部戦線に従軍した。1914年11月にはポーランドで負傷し、1915年に大尉に昇進、現役復帰後は1918年の終戦まで第4騎兵師団、第213歩兵師団に作戦参謀(Ia)として勤務した。
ヴァイマル共和国から第二次世界大戦開戦まで[編集]
大戦後の1918年にブレスラウ(現ポーランドのヴロツワフ)防衛義勇軍へ志願、1919年まで同地に勤務した。マンシュタインは1920年にシュレージエンの地主の娘であるユッタ・シビレ・フォン・レーシュと結婚した。夫婦は3人の子供、娘のギゼラ、二人の息子ゲーロとリュディガーをもうけた。なお、長男ゲーロは1942年10月29日に東部戦線で戦死している。
マンシュタインは、ヴェルサイユ条約で兵力10万人に制限されたヴァイマル共和国の陸軍(Reichsheer)に選抜され、軍に残ることができた。彼は1920年に歩兵中隊長に任命され、1922年には大隊長に昇進した。1927年には少佐に昇進、参謀将校となり、国外に研究旅行をした。1933年にナチスが政権を握り、ヴァイマル共和国時代が終わる。1935年にヒトラーはヴェルサイユ条約を破棄、再軍備宣言し、同条約で禁止されていた陸軍参謀本部を復活させた。
1935年7月1日、マンシュタインは復活した陸軍参謀本部の作戦課長に着任し、1936年10月1日に少将に昇進、作戦課、編制課、訓練課、中央管理課を管轄する陸軍参謀本部の第一部長に昇任し、第一部長が務める参謀次長として参謀総長ベック上級大将を補佐した。またこの頃、歩兵支援のために突撃砲の開発を提案している。突撃砲は第二次世界大戦でドイツが開発した兵器としては最も成功した安価な兵器であったとされている。
ベックとマンシュタインはドイツ陸軍における政治的影響を最小限に留めるように、ナチ党とは距離を保っていた。このためか、またナチ党員でなかったためか、参謀総長昇任を目前にして陸軍参謀本部からドイツ東部シュレージエンのリーグニッツの第18歩兵師団長に左遷された。
第二次世界大戦[編集]
対ポーランド戦[編集]
1939年8月18日に彼はポーランド侵攻に備えてルントシュテット上級大将の南方軍集団の参謀長に任命された。作戦計画はブルーメントリット大佐が発展させた。ルントシュテットは装甲部隊の大半をライヘナウ指揮の第10軍に集中させ、ヴァイクセル川西岸のポーランド軍を包囲、殲滅するというマンシュタインの作戦計画を採用した。計画では南方軍集団の二つの軍、リスト指揮の第14軍とブラスコヴィッツ指揮の第8軍がライヘナウの側面をそれぞれ支援しポーランドの首都ワルシャワに進攻することとなっていた。マンシュタインはポーランドをソ連との緩衝地帯と考えていた。彼はポーランド戦の開始がドイツを二正面作戦に引き込むことを懸念していた。
ポーランド戦は9月1日に開始され、成功裡に進展した。南方軍集団の管轄地域では、第10軍の装甲部隊は退却するポーランド軍を攻撃し、防御態勢に入る時間を与えなかった。側面を担当した第8軍はウッチ、ラドム、ポズナニのポーランド軍の集中を防いだ。マンシュタインはヴァイクセル川からワルシャワへ進攻するという当初の計画を変更し、ラドムのポーランド軍の包囲をルントシュテットに進言した。この包囲は成功し、ポーランド軍の南部からワルシャワへの抵抗を取り除いた。
対フランス戦[編集]
1939年末、ルントシュテットのA軍集団の参謀長となったマンシュタインは、ブルーメントリットとトレスコウと共にフランス侵攻作戦を立案した。マンシュタインは戦車部隊が行動し難いと思われるアルデンヌの森林地帯を通過することで敵の意表をつき、ミューズ川の橋梁を確保し、英仏海峡に到達し、ベルギーとフランドル(フランダース)に展開する英仏連合軍とフランス本土を断ち切ることが出来ると考えた。計画は大鎌作戦と呼ばれた。
陸軍総司令部はこの作戦計画案を拒否したが、ヒトラーは革新的な作戦として修正案を採用した。作戦計画は後にマンシュタイン・プランと呼ばれた。しかしマンシュタインは、またもドイツ東部に左遷された。第4軍を指揮したのはクルーゲである。この部隊にはロンメル将軍の指揮する第7装甲師団も含まれていた。最初にアミアンの東を突破しセーヌ川に到達したのはマンシュタインの元部下たちだった。フランス侵攻は成功裡に終了し、この功績によりマンシュタインは騎士十字章を受章した。
東部戦線[編集]
バルバロッサ作戦開始時は第56装甲軍団を指揮、北方軍集団の作戦地域内においてデュナブルクへの街道の確保に成功する。
ショーベルト上級大将が事故死した後、マンシュタインは南方軍集団の第11軍司令官に任命された。彼はルーマニア軍2個軍を含む第11軍を指揮してクリミア半島のセヴァストポリ要塞を攻略し(セヴァストポリの戦い)、1942年、陸軍元帥に昇進した。
1942年末から翌年1月のパウルス上級大将の第6軍のスターリングラード脱出救援には失敗したが、ドン軍集団の指揮官として南部戦線の崩壊を食い止めたのみならず、迫りくるソ連軍に、後に「後手からの一撃(バックハンドブロウ)」と呼ばれることになる機動防御作戦によって大打撃を与え、優れた戦略眼と卓越した指揮能力を持つ司令官として名声を得た。この後も第三次ハリコフ攻防戦、クルスクの戦いに戦功を挙げた。しかし、ドイツ軍の得意とする機動戦主体の戦略を説くマンシュタインに反して、ヒトラーは一時的な戦略的撤退を認めず、陣地死守に拘り、得られた可能性のある勝利のいくつかを無為に失った。ヒトラーの作戦指導への干渉は止まらず、マンシュタインはついに1944年3月に南方軍集団司令官を解任され、予備役に退く。のちに彼はヒトラー政権の転覆計画への参加を打診されたが、これを拒否している。この時、彼が言った「プロイセン軍人は反逆しない」という言葉は有名である。
関与した戦争犯罪[編集]
東部戦線において第11軍にはオットー・オーレンドルフ親衛隊中将率いるアインザッツグルッペンD隊が属していた。この部隊は前線の軍の一つ後方にあって「パルチザン狩り」と称して現地の「パルチザンの温床」とされた人々、ユダヤ人・ロマ・共産主義者などを銃殺あるいはガス殺していた部隊であった。この部隊を創設させたのは国家保安本部長官のラインハルト・ハイドリヒ親衛隊大将であったが、指揮権自体は直属の軍司令部に属した。第11軍に属するアインザッツグルッペンD隊は1941年6月から1942年3月にかけて黒海沿岸やクリミア半島で9万人を殺害したことを指揮官オーレンドルフ自身が後に認めている。
マンシュタインを司令官とする第11軍司令部もアインザッツグルッペンに移送手段を融通することで虐殺行動に力を貸した。しかしマンシュタインは後に裁判で「アインザッツグルッペンの行動で私が知っていたのは東部占領地域の住民を政治的に検査するということだけだった。」と述べ、それを了承した以上の関与はないと主張した。すなわち虐殺まで起こっていたとは知らなかったと述べた。
しかし第11軍司令部付きの将校ウルリヒ・グンツェルト大尉の証言によるとグンツェルトがアインザッツグルッペンの虐殺を目撃しており、それをマンシュタインに報告したという。グンツェルトがアインザッツグルッペンのところに訪れた時、溝の下が死体の山になっており、機関銃で一斉射撃したのち、親衛隊員たちが溝に降りてまだ生きているものをピストルで射殺していたという。あまりの非道さに止めさせようとしたが、親衛隊員たちに追い払われてしまい、すぐに司令部に戻ってマンシュタインに報告し、止めさせるように求めたが、マンシュタインは「私は後方のことには責任を持たない。前線のことだけが私の任務だ。」と聞き流し、また「見たことは口外するな」とグンツェルトに命じたという。グンツェルトはこのマンシュタインの態度について「責任逃れであり、モラルの放棄である」と憤慨している。
晩年[編集]
1945年5月、ヒトラーの死後、大統領に指名されたデーニッツ提督から、マンシュタインは連合国軍との降伏交渉を依頼されるが、これを断り、イギリス軍に逮捕される。1949年にイギリス軍事法廷は、上記のアインザッツグルッペンへの共謀を最大の訴因としてマンシュタインを告訴した。同法廷はマンシュタインに禁固18年の刑を宣告したが、健康上の理由により4年後には釈放された。その後、彼は新生ドイツ連邦軍の創成に尽力し、当時の西ドイツ政府の国家防衛委員会の顧問を務めた。1973年、回顧録『失われた勝利 Verlorene Siege』を遺してドイツ南部のイルシュハウゼンで脳卒中により死去した。
文献[編集]
- エーリヒ・フォン・マンシュタイン『失われた勝利:マンシュタイン回想録』(上・下)、本郷健(訳)、中央公論新社、2000年、ISBN 4120029549(上巻) / ISBN 4120029557(下巻)
- 「ヒトラーの戦士たち 6人の総帥」グイド クノップ著